064 嵐の前
「やあ。君も来ていたのか」
ビヨンと隣同士で座り、装備の点検をしていると不意にそう声を掛けられた。
放っておいたら段々とうっとうしくなり始めた前髪を指先でずらし、目線を上げると男女の二人組が立っていた。「ええと……」どちらの顔にも――……見覚えはない。初めて見る顏だ。
また父と間違われるのか?
人斬り老婆に追われ、夜の歓楽街を走り回ったあの日の記憶は悲しいことにまだ鮮明だ。
はっきり言うと面倒はご免こうむりたい。わたしの心の積載量はそう多くなく、次々に父が犯した過去の過ち、その贖罪を求められても無理なものは無理なのだ。
わたしの顏を見て、何かに勘付いた様子のアギルの注意はコルネリウスが引きつけてくれた。
何のかんのと身振り手振りで会話をしているのがちらりと見えたが、遠目からでもとんちんかんな事を喋っているのが分かる。
目の前の男女は居心地の悪そうな笑顔を浮かべ、これまた仲が良さそうに二人並んで立ち尽くしたままだ。
「ねえ、人違いじゃありません?」
黒髪の女が金髪の男を小突いた。気恥ずかしさから今すぐに場を離れたい心境がありありと顏に浮かんでいる、見事なしかめっ面。
声を掛けてきた男は後ろ髪をばりばりと掻き、「あ、あ~……そんなはずない、と思うんだけど……ねえ?」とわたしを見る。
いやいや、振られても。
「ねえ、ユーリくん。呼んでるよ。怪しげな勧誘を相手にしてるわけじゃないんだから」
ビヨンが肘でわたしをぐりぐりと小突く。目の前の彼女のマネかな?
大丈夫、分かってる。これから行動を共にするだろう人間を無視するわけにいかないさ。わたしは座り込んだままで彼を見上げ、言った。
「どこかでお会いしましたか?」
「会ったと言えば会ったことはあるんだけど……」
「はあ……そうですか」
間。
男は連れ合いの女にまたも脇を小突かれ、苦悶の表情に歪んだ顏へと何事かをささやかれた。
「うぐっ……はっ! 悪い、まずは名乗るべきだったよな。おれはスタン! 君を一方的に知っている駆け出しだ」
一方的に、か。そうなると確認が必要だ。
「……フレデリックという名前に聞き覚えは?」
「いや、無いよ? 誰なんだい?」
小首をかしげ、難しい顔をした。記憶をさらうが何も心当たりが無いらしい。
問題は無さそうだ。わたしは立ちあがり、彼に手を差し出した。
「気にしないでください。つっけんどんな態度で申し訳ない。あれも警戒のひとつということで飲み込んでいただけると……」
「ああ、構わないよ。用心は大事だからね」
「僕はユリウス・フォンクラッドです。これからの道をご一緒するかも知れません、どうぞよろしく」
するとスタンは金色の短髪をくしゃくしゃと掻いて短く笑った。
屈託のない笑顔。背はわたしよりも高いが、顔の造りはやや柔らかく、どこか少年のような雰囲気があった。
「よろしく! むしろここから先は君の力を是非とも借りたいよ。なんてったって、君はあの〝東の剣聖〟、シラエア・クラースマンから剣の教えを受けた男なんだからさ!」
どうしてそれを。焦り、記憶をさらうのはわたしの番だった。
……だめだ。思い当たらない。
「<ウィンドパリス>で……お会いしましたか?」
シラエアと初めて出会った、もとい殺されかけたのはあの連邦首都での夜だ。以降はあの剣鬼につきっきりで来る日も来る日も剣の面倒を見られた。
彼女と共に居たわたしを目にしたのならば、それはあの街でしかあり得ない。
が、スタンの返答は聞いてしまえば何てことのないものであった。
「実はおれが君を見かけただけなんだ。彼女――リーナと二人で朝の街を歩いていると、君が剣と盾を片手に、街の外へと駆けていく姿をよく目にしていたもんでね」
「こんにちは、私はリーナ。毎回とてもお辛そうな顔をして走っていたので、何度か声を掛けようかとも思ったほどです。その……まるで屍が走るようでした」
「おい、ゾンビ扱いは失礼じゃないか?」
今度はスタンが連れ合いを小突き、彼女は「で、でも……」と口ごもってから
「そうは言っても青白い顏をした方が、食パン咥えて走って行くのはまともじゃないでしょう」
「ユーリくんそんなに大変な毎日だったんだね」
ビヨンが目元を押さえ、さめざめとした調子で言う。
「……あんまり思い出したくない……」
「ユリウス、君がいてくれたらおれたちは物凄く頼もしい。何せ〝迅閃流〟の剣技と言えば、大陸中の剣士の憧れだからね。聞けば、二十年前の大災厄を鎮めた英雄、〝悪竜殺し〟のニルヴァルドもシラエア・クラースマンの剣を納めていたと言うじゃないか!」
「そうなの?」
エメラルドグリーンの瞳を輝かせてビヨンがわたしを覗きこんだ。やめて、こっちを見ないで。
「英雄も学んだ剣ともなれば、皆の羨望は集まるというものさ! な、リーナ!」
「魔法使いにはよく分かりませんよ。ユリウス……さんの連れ合いのあなた。ねえ、あなたも魔法使いなの?」
次に面を喰らうのはビヨンの番であった。自分に話が向けられるとは露とも思っていなかった彼女は目を見開いて「え゛っ」と鈍い驚き声をあげ、
「ええと、はい……一応。ウィリアンダール魔術院から正式な認可はまだ……降りていないのですけど……。あ、うちはビヨン・オルトーと言います」
「免許の交付がまだなのね?」
リーナの言葉にビヨンが顏を伏せた。剣士のわたしにはいまいちピンと来なかったが、魔法使いとして身を立てるには正式な身分証明が重要であり、また箔となるのだろうか。恥じ入っているのか、どうなのか。縮こまったビヨンの手をリーナは優しく取り、
「気にすることはないですよ。私も我流のお師匠――……魔術院が嫌になって逃げだした方なのだけれど、その方から教わった身です。ハラヴァラという名前は?」
「いえ……すみません」
「ふふ、師匠は放蕩者でしたから仕方ありませんね。魔法使いの階位免許試験は、ウィリアンダールの支部でいつでも受けられますから、恥じることではないですよ。師匠の受け売りですけどね」
「はい……ありがとうございます! 師匠は『免許なんざ要らん。それより魔術院の連中と関わり合いになる方が損に損、大損だ。やめとけ』なんて言っていて……でもやっぱり必要ですよね!」
リーナは口元を緩め、慈愛に満ちた眼差しをビヨンへ注いでいる。故郷の身内――たとえば妹とか、近所の子供だ――を思い出し、愛情が内側から溢れている状態と言えば良いのだろうか。まるで愛と生命の神、豊穣神ルピスが降臨……は言い過ぎか。
「あらあら。随分なことを言う師匠なんですね。その方のお名前は?」
「イルミナ・クラドリンと言います!」
ぴしり、とリーナの動きが止まった。手の甲を優しく撫でていた指先は止まり、どころか引っ込められ、腰に下げた水筒を取り出すと冷静さを得るためにごっごっ、と喉を鳴らして飲み干している。
「あ、あのー……変なこと言いました?」
「っ……イルミナ・クラドリンって本当なの? 魔術院から出禁、どころか捕縛令まで出ているあのクラドリン?」
絶句した。
あの女、世界の頭脳と呼ばれるウィリアンダールで一体何をしてかしたんだ?
脳裏に浮かぶのは、わたしが魔力切れで昏倒しても水をぶっかけ、時には怪しげな液体を口に流し込んで無理矢理に起こさせる鬼畜な師としての姿。
あるいはサンルームで朝から夕方まで天井をぼーっと見つめて寝転がる残念美人の姿である。
たまには物書きでもして小金を稼いでいるようだったが、居候をしていた我が家に納めていた様子は無い。
技能を授かった恩はあるが、それだけだ。出来るなら会いたくない。なんなら金を払ったっていい。
わたしの疑問はビヨンが引き継いだ。
「師匠……『おいたをしちゃってなあ。あんなに怒ることも無いだろうに。少し物を借りただけだ』って言っていたけど……」
「その借りた物がまずかったんじゃないの? というか、あの人のことだから、逆さにしたら余罪がぼろぼろ出てくるよ」
それこそ大地を埋め尽くすぐらいに。
スタンはどうしていいか分からず、愛想笑顔を浮かべニコニコと立ち尽くしている。なんだか健気に思えてならない。
「あのね。私も師匠から話を聞いただけで詳しくないのだけど、イルミナ・クラドリンは魔術界の叛逆者とも――……」
りん、と鈴の音が響いた。
言葉が途切れ、周囲の誰もが硬直した。
ほがらかな場――ささやかな休息が終わるには、その小さな音で十分だった。
鈴の音。
霧の出現を報せる、警告の音だ。




