061 罪追いの騎士
階段を登る途中から、不吉の予感と奇妙なことが起きているという兆候はあった。
ありえない事象。罪を屠る脅威。
異常な物と状況が連続する古き塔。
時流の歪み、場所のズレ。
……〝夕見の塔〟、ここはやはり――……普通ではない。
二階から三階へと続く階段はやはりというべきか一段一段がバカみたいに高く、疲労した体にはさすがに堪えるものがあり、自分のペースでゆっくりと登りたいと思うほどであったが、背後からビヨンにせっつかれていてはそうもいかなかった。
「そんなに急ぐならビヨンが先に行きなよ」
幅の広い帽子のつばが脚に当たる度にそう思い、とうとう言葉に出すとわたしの後ろをつかず離れずに付いてくる彼女は「そんなことはとんでもないよ」と言い、
「だってユーリくん……その、見るじゃない……」
「何を?」
「何って、うちの脚を!」
「いやいや見てないよ」
「じゃあ何色だったと思う?」
上目使いでビヨンが言う。頬を紅潮させ、緑色の瞳を少しだけ潤ませて見上げる顏を見ると得体のしれない罪悪感が胸にこみ上げてきた。
これは……そう、妹にちょっかいを出し過ぎた時のような。ここは正直に答えるべきか。
「確か……白だ」
「ほら見てるじゃない!」
「申し訳な痛ぁっ!?」
尻を杖先で強打され、思わずつんのめる。コルネリウスと同じにつまさきを潰されないだけマシだと思わないといけないか。いやしかし視界に入ってしまったのは不可抗力だ。だが言い訳は更なる打撃を招く呼び水になる――、
「コール? 立ち止まってどうしたのさ?」
前を歩くコルネリウスがその場に棒立ちになっていて、幅の広いその背にぶつかった。わたしが止まれば後ろを歩くビヨンもまたぶつかり、もう、と溜息を吐きだされる。
つっかえとなった彼は立ちつくし、壁の方を呆然と見つめていた。彼の黄色の瞳の先では壁が崩落していて、外の世界が覗いている。
「いやな、空が……ええとな」コルネリウスは珍しく言い淀むと身を一歩引き、「上手く言えねえ。見てみりゃ分かるさ」と髪をかき上げて言った。
風化か、あるいは地震か。丸窓のように崩れ落ちた壁の前にわたしは立った。
眼下にはリブルス大陸特有の深い森が広がり、まるで高山の山腹から裾野を見下ろすようである。
不思議なことに壁が失われているにも関わらず、高所に特有の強風は一切吹き込んでこず、びゅうびゅうと吹き荒ぶ音もまるで聞こえない。
この塔には静寂がひっそりと根を張っていた。例外と言えば先程の球体が転がる騒音ぐらいのものだろう。
とんとん、とわたしの肩をビヨンが数回叩いた。彼女の髪の毛先の色に陽光が射し――消える。彼女は焦りの感情を顏に浮かべ、目を見開いて言った。
「ユーリくん、見て。空が……」
地平までを覆う森林、稜線を縁取る山の尾根。
眼下の世界の色が目まぐるしく変化していた。
森が朝陽を受け、鮮やかな緑に輝いたかと思えば次にはもう夕暮れの赤に染まっている。
山脈の尾根が太陽の金に輝けば、一瞬のまばたきの間に月明かりに照らされて青白い光を放ちはじめていた。
「普通じゃないぜ」呆気にとられた声でコルネリウスが言う。「こんな光景、酒場の酔っ払いの口からも聞いたことがねえ」
「ああ、そうだね。これは……すごいな」
太陽が沈み、月が暗夜を飾る。無数の星々は天の回転とともに夜空に光の筋を描き、それは残像となって束の間の日中にも軌跡を残した。
世界が巡っていく。
本来、二十四時間であるはずの『一日』がわたしの中の『一瞬』で過ぎ去っていく。
呆然としながらに異常な光景を見つめているこの瞬間にも四日、いや五日が過ぎ去り、足元が震えるような恐怖をわたしは感じた。
「嫌だな、なんだか怖いよ」
ぽつりと不安をこぼしたビヨンの手を顔を向けずに握り、わたしは考え込む様子のコルネリウスを見上げ、
「先に進もう。おかしくなりそうだ」
「だな。こんな速さで世界が流れるのを見ていたら、ぼうっとしてるあいだに老けちまいそうだ。ビヨン、歩けるか? 今ならおぶってやるぜ」
「まだお婆ちゃんになってないよ! 行こう、うちは大丈夫」
赤土色の階段を登りながらにわたしは静かに思案に耽った。
崩落した壁から見えた時間の流れは『異常』そのものだった。しかし、あれは――間違いなく現実の世界だ。
遠くに小さく見えた、マールウィンド連邦首都<ウィンドパリス>の塔。彼方に横たわっていた山は<灰竜山脈>。いずれもわたしが幼少より見知った現実の場所、街なのだ。
時の流れが歪み、天体が流れゆく様はどういうことだったのだろうか。
正しい時間に戻ろうとしているのか、あるいはただ時が加速していたのか?
この塔を出た時、外界では数年の時間が経っていたりしたら……。
「まるで笑えない」
わたしは口元に苦笑を浮かべ、雑念を振り払った。
◆
異臭がした。
一階の無機質とも、二階の森の香りとも違うこれを――わたしは知っている。
血の臭い、死臭だ。
三階の内観は二階と同様に樹木が立ち並び、野鳥が飛び、小動物が隅を走る小さな森だ。場には森の空気がある。しかし、それでもこの濃密な血の臭いを消しきれるものではない。
「……コール、ビヨン」
「おう。ちと普通じゃなさそうだな」
「僕が先に進む。ビヨンは後方、いつでも魔法を撃てるように意識を集中していて」
「分かった。嫌だな……鳥肌が立つ……」
歩を進めながらに耳をしんと澄ました。そうして曲がり角を二つ三つ折れ、広間に差し掛かるところでそれは聞こえてきた。
鋭い何かを突き刺し、引き抜く音。生理的な嫌悪を感じるその音は一度のみならず何度か耳に届いた。
間隔は長く、まるでそれを刺す感触を楽しんでいるようだ。
嫌な想像が脳裏をめぐり、わたしの足は止まった。グリーヴを装着した足が重い。装備の重量では無く、精神的に重いのだ。
「他に道は無かったぜ。ここまでは確かに一本道だった」
コルネリウスがそっと顏を寄せてささやく。彼の声もまた普段と違い、強張っていた。
「この先に誰が居るんだか知らねえが……どうやら立ち退く気配も無い。腹を決めるしかなさそうだ」
「参ったね」
「俺が代わろうか?」
「いや、僕から行くよ」
顔を赤土の壁に押し当てながら、音を立てないようにそっと通路の先を覗きこむ。
倒れた男の姿が見えた。
軽装の戦士。仰向けに倒れている彼の腕や足は不自然な方向に曲がり、事切れていることは一目で分かった。
ローブを着こんだ者、鉄鎧に身を固めた者。三人で行動していたパーティだろうか。彼らは皆一様に床上に倒れ、二度と起き上がりそうにもない。
そして――……殺戮者はそこに居た。
薄汚れた騎士鎧。元は銀色に輝いていただろうそれは泥や返り血に汚れ、首元に巻かれたボロ布が卑しさを感じさせる。
かつてはその背を覆っていただろう外套は半ばから千切れていて、どこぞの逃亡騎士のようなみすぼらしい雰囲気をこの殺戮者はまとっていた。
盾は無く、持ち得る武装は右手に握った大振りの長剣のみ。
その切っ先は先述した軽装の戦士の頭部らしき部分に突き刺さっている。殺戮者はゆっくりと剣を引くと、物言わぬ男の亡骸へと再び刃を突き立てると、兜の内側より呻き声を漏らした。
まるで歓喜に震えているようではないか。
少しの観察ですっかり分かった。あの騎士は異常だ。
後ろを振り返ることなく、二人へとハンドサインを送る。
人差し指、中指、薬指の三つを立て、それから握り拳を作って上下に引く。『三ツ星の危険。戦闘態勢』。わたしたちのあいだで取り決めたハンドサイン。二人はすぐに応じ、呼吸が戦いに臨むそれに変わったのを気配で感じた。
「――……臭う」
死体を弄んでいた騎士がその動きをぴたりと止め、静かに、だが確かに聞き取れる声量で言った。
ただ一言でわたしの緊張は瞬時に頂点へ達した。例えるならば空手で獅子と対峙するかのような、油断ならない張り詰めた空気が場を支配する。
「罪人の気配。ただならぬ罪過だ」乾き果て、しわがれた声が言う。「私には貴様が見えるぞ。罪からは決して逃げられぬ。受け入れよ、裁きは――」
気配が飛んだ。
消えた? 違う、この普通ではない殺気、場に満ちた剣気。
奴はすぐそこまで来ている!
「二人とも伏せろッ!」
「――今ここに! 滅せよ!」
殺戮者が目の前に現れた。彼我の距離を跳んだのか? 甲冑で全身を覆いながらにそんな挙動が出来るのか?
考えは後だ。
血に濡れた長剣は既に上段から振り下ろされている。
――疾い。父に勝り、シラエアには劣る剣速。
盾で受け止めると鉄と鉄が潰しあうひどい音がした。左腕が軋む。身体強化の魔力を巡らせていなければ一撃で砕けていたに違いない。そう思うと怖気が走った。
襲撃者から、濃密な血の気配のするこの怪物の注意を仲間に向けるわけにはいかない。
剣を下段から斬り上げた。鋭く速い、迅閃の剣技。
しかし殺戮者の剣はわたしの攻撃を容易く凌ぐ。一度の袈裟でこちらの剣の勢いを殺し、二度の横薙ぎでわたしの手から剣を弾き飛ばした。
奴の剣は止まらない。
直前まで手に収まっていた剣が床上に虚しく落ち、顏のうかがえない兜がわたしを向き、血を求める剣先はこの胸を真っ直ぐに狙っていた。
先端がブレ、死がわたしの傍に這い寄る。
「ユリウスッ!」
金属が衝突する甲高い音が弾けた。コルネリウスの槍が殺戮者の剣の腹に当たり、狙いを逸らされた刺突はわたしの首から十センチを離れた壁をくり抜くようにして穿った。
刺突を放った勢いのままにコルネリウスは殺戮者との距離を詰め、柄を握りつめた槍を棒術のように振るい、古びた騎士との斬り合いに身を投じた。
刃がぶつかり合う度に火花が散る。
コルネリウスは盾を用いず、攻めを重んじる槍手だ。わたしとの連携ならばともかく、攻撃一辺倒の彼がこの尋常ならざる騎士とやり合うのは無茶だ。
見てくれの異様さのみならず、わたしの剣を軽々と弾き飛ばした上に強烈な痺れまでを残すような膂力をこの殺戮者は有している。
一撃をもらえばそれが致命傷になり得る。
起き上がりざま、コルネリウスに迫る一撃を盾で防いだ。わたしが立ったことで殺戮者の意識はこちらに釘づけになったらしい。彼は狂ったように長剣を振り回し、盾の表面を殴りつけられるたびにわたしは呻き、痛みを噛み殺した。
繰り返される斬撃。その嵐の中、不意に騎士の攻撃のリズムがズレた。
コルネリウスの槍が甲冑の関節の隙間を貫いたのだ。
わたしは振り返らずに叫ぶ。この脅威に追い打ちをかけるのならば今しかない。
「ビヨン! 頼む!」
返事は無い。だが背中で感じる魔力は了解の言葉よりも頼もしく、ずっと信じられた。
「――火龍の猛炎。黒灰の尾根に集いし、くすぶりの炎精よ。我が声に応え、ここに。火の三階位、<唸りし猛炎の双掌>」
ビヨン・オルトーの杖先に二つの火球が生じ、魔力をのせた言葉によって命令を植え付けられたそれは規則正しい螺旋を描いて騎士へと放たれた。
わたしとコルネリウスが即座に後方へと身を離し、直後に殺戮者の鎧の表面で火球が炸裂する。
もうもうと立ち込める黒煙。首元や背中をかざっていたボロ布が燃え、赤い炎が煙の影で揺らめいている。
「はっ! はっ! くそ、死ぬかと思ったぜ」額に汗を浮かべてコルネリウスが言う。肩は上下し、槍を握る手は痺れからか震えていた。
「今の内にここを抜けよう。後ろは一方通行。ジリ貧だ」
「了解!」
「おう!」
ビヨンが駆け出し、コルネリウスが彼女を庇うように走りだし、わたしもすぐ後ろを追った。
黒い煙を立ち昇らせながらに立ち竦む殺戮者。一度だけ彼を横目でちらと見やり、床上に転がった剣を回収し――、
「私は罪を追う者。罪は血によって求められ、血により雪がれる」
「参った、冗談きついな」
ぼっ、と剣が振り下ろされる。軌道は大上段。大丈夫、見えている。
盾で直撃を避け、返しで振られる刃を横っ飛びで躱し、頭部を狙って突きだされた刺突は無様に転がって逃げ延びた。
と、何かが空気を裂いた。
続けて鉄を割り砕いたような大仰な音が響き、とっさに顏を上げると殺戮者の甲冑、その胸部分に黒々とした太い矢が突き立っていた。
この黒矢には見覚えがあった。どうしてだろうか、本をめくるように記憶が鮮明に蘇る。これは――<ドーリン>でわたしから盾を奪った矢だった。
相当の衝撃だったか、あるいは急所を狙われたのか。殺戮者は今度こそ動きを止めたまま動こうとしない。
「ガキ共! ぼうっとしてんな、そいつからさっさと離れろ!」
通路の奥で男が叫ぶ。
痩せぎすの体。腰にナイフを吊り、軽装で身を覆ったスカウト然とした出で立ち。
弓を構えて気取ってはいるが、顏には相変わらずの薄笑いが張りついたどうにも信用がならない男。
わたしを救ったのはメルウェン・リーナーだった。




