060 悪趣味
息を荒げて必死に床を踏み、胸を弾ませて蹴り走った。足元に縦横無尽に広がり、フロアを覆い尽くす植物のツタや木の根。これらに一度でも足を取られれば一巻の終わりだ。
走るにつれて次々と流れていく周囲へと注意を常に向け、それでいて走る速度は少しも緩めない。緩めてはいけないのだ。あの世の道先案内人である死神と面会するにはまだ早い。
「はっ! はっ、はっ! どうだっ!?」
「だめだ! 玉は正確に僕たちを追ってきてる!」
玉との距離は二十メートル余。壁に衝突し、方向を変える度にあちらは減速をしているが、ひとたび回転し始めれば彼我の距離は一気に詰まる。
「ちくしょう、どうなってやがんだ! ビヨン、しんどかったらすぐ言え! 俺が背負って走る!」
「ま、だ、ひっ、ぜっぜっ、いける、走れるよ」
一方通行の曲がり角もT字路も何度も曲がった。しかし巨大な球体はまるで自我を持ち、己の意思で進む道を選択しているかのように正確にわたしたちを追従してきていた。
脆くなった壁を破砕し、フロアに放置をされた太古の調度品を砕こうとも、球体の破壊の回転は少しも緩まず逃げ走るわたしたちの背中を睨み据えている。
彼に当然無かったが、ゴロゴロとした地響きの音はさながら脅威の咆哮に聞こえ、それはわたしの焦りを助長させるものだった。
「……このままじゃジリ貧だ」
あちら方はただ転がり続ければ良いだけだが、生物であるところのこちらの体力はやがて尽きる。恐らくはビヨン、わたし、コルネリウスの順に。
まだ体力に余力はあったが、不安はどうしようもなく脳裏をよぎっていく。
これは負けが決まった逃走なのか?
人知れずに圧死をするのがわたしたちの旅の終わり?
馬鹿な。下手な冒険小説、あるいは酒場のよた話でももっとマシな終わり方があるだろうに。はい分かりました、と簡単に受け入れる訳にはいかなかった。
「ひっ、ひは、ぜっ、ぜえ……っ!」
「……ビヨン」
彼女の息はもう切れかかっていた。横腹を押さえて走る姿が見る目に痛々しく、いっそ自分の荷を捨てて彼女を背負い、走ってみせようかという気持ちになったが断腸の思いで振り払った。現実問題として荷物を放るのもまた自殺の類であることが分かっていたからだ。
「ユリウス!」
「何!?」
先に通路を左折したコルネリウスが顔も見せずに叫びを放ってよこした。良い報せか悪い報せか。行き止まりでないことをとにかく祈る。
「階段が見える! やったなおい!」
吉報だった。思わず心中で拳を握る。
「本当に!? やった、これで――」
「けどな、その前に問題、いや大問題がある……床が抜けてやがるんだ」
そんな馬鹿な、と。わたしは彼の言葉を信じきれないままにその背に追いつき、並び立った途端に愕然とした。
例えるならば、打ち立てられた希望の柱がハンマーで殴られ、あっさり倒壊したような心情である。
一直線の通路の最奥に階段――この階の終わりが確かに見えている。
見間違えようもなく、確かに上階へと続くであろう登り階段だった。ここで終われば良い報せなのだが、現状は最悪とも呼べるものだと太鼓判を押したっていい。
この一直線の通路に存在する床面は、階段とその手前の踊り場だけだったのだ。こちらからあちらへは二十メートル以上に渡って床が抜けていて、虚無の暗黒がぽっかりと口を開けている。
わたしたちの周囲には太い幹の樹木が黙したままにいくつもそびえ、どこからか吹き込む風に葉をサアサアと揺らしていて、どことなく同情の歌声に聞こえてしまう。
「これは……なまじ希望が見えているから性質が悪いな……」
良い報せと悪い報せ、か。比率で言えば二対八で悪い方に軍配が上がるかな。
問題に目を向けよう。目下の障害は床が消失しているという点だ。
地を踏み移動をするのが人間という生物であり、足の踏み場が存在しなければ当然どうしようもない。
およそ二十メートルに渡って崩落した床面。どうにもならない現実を前にして、わたしたちは無言のままに顏を見合わせた。
こうしているあいだにも背後では地響きが聞こえる――わたしたちを圧殺せんとして球体が迫っていた。
「ねえビヨン」ダメ元の心持で彼女へ向き、「浮遊魔法の心得なんて……」
「無いよお……」
ですよね。習得していたのなら、いの一番に披露しそうなものだ。
「左右の木の根を伝っていくか? いや……無理か、木が支えきれずに崩れるっつう笑えないオチが脳裏をよぎるぜ」コルネリウスが言う。笑い声に力は無く、投げやりのようでさえあった。
「そうだろうね。こうなったら考える時間はもう無いよ。ここは僕がどうにかする」
「どうすんだ?」
「決まってる。魔法さ」
手を突きだし、腹の奥底で練った魔力を手の先へと一気に集め、文言を口にする。
魔法とは周囲の世界を変えうる力。
わたしの得意とする属性は大地を司る土の色。ここがレンガ造りの階層で助かった。ここなら材料はいくらだってある。
「沈黙の土塊。汝の身は我が意に歪む、我が言葉は汝の変成を命ずる。土の第二階位、《土性の隆起》」
放たれた魔力が空間に広がり、魔力を帯びた言葉が周囲を侵す。と、背後に迫る球体とは違う地響きに場が震え、左右の壁が伸長を始めた。
わたしの魔力が届く範囲であるならば、あらゆる土――抗魔力の特性を持たないものに限るが――は飴細工のように歪ませることが出来る。
そうして伸びきった床を板の形状に整え、緊張から無理矢理に意識を逸らしながらにわたしはひょいと飛び乗ると三度ほど踏みつけて強度を確かめた。
武装したわたしが踏んでも歪まず、軋みもしない。多量の魔力を注いだだけあって頑強だった。これなら十分だろう。
仲間へ『問題無い』のハンドサインを送り、
「このまま連続して足場を作るよ。そのまま階段の踊り場まで渡り切ろう」
「ユリウス先生!」
笑顔を花と咲かせてコルネリウスが天を仰ぐ。先生とは大袈裟だ。
「九死に一生ってやつだ、ほんっとによ! ありがとな!」
「死ぬかと思ったあ!」
「渡り切らなきゃ本当に死んじゃうからね。さあ、急いで」
すると機を見計らったようにズシリ、と二人の背後に巨大な球体が再び姿を現した。コルネリウスはわたしが催促するまでもなく足場へと軽々と跳び、続けてビヨンがおっかなびっくりといった具合に移動を始めた。
「大丈夫か? 掴まれよ」
コルネリウスが差し出した手を取り、ビヨンが震える足を誤魔化しながらに板の上を渡る。「ありがとう、コールくん」と口にした短い礼の声は小さく震えていた。
わたしは先行しながらに次々と魔法を唱え、足場を連続で作成しながらに虚無の穴の上を跳び渡る。
途中で下を見るような愚かな勇猛は発揮させない。
なにせ足が竦んだらば正真正銘、一巻の終わりだからだ。生死が曖昧になり、半ば非現実を感じながらにわたしは着々と跳び進み、ようやく階段前の踊り場へ辿り着いた時には尋常ではない量の汗が顏のみならず全身を覆い、鎖帷子の下の肌は汗みどろだった。
緊張からか、それとも魔力の消耗か? どちらでもいい。今はっきりと口に出来るのは、こんな思いは当分ご免だということだ。
「本当に助かった、サンキューな、相棒」
「全員無事ならいいよ」
「おい? 顔色が悪いぜ、大丈夫かよ。今のは相当魔力を喰ったのか?」
「――……大丈夫」彼に見えないように震える手を隠し、拳を思い切りに握った。「魔力はこういう時に使うべきだ。それにしても燃費が悪いのは困ったね」
「何をばか言ってんだ。まるきり才能の無い俺よりマシだろっての」
差しのべられたコルネリウスの手を掴み、足に力を込めた。大丈夫だ、まだ魔力も精神力も残っている。ここで卒倒するような事態は避けたかった、仲間の荷物にはなりたくないのだ。
「ユーリくん……」不意にビヨンがおずおずとした調子で顏を見せた。何を言おうとしているのか手に取るように分かり、思わず苦笑する。
「歩けるよ。さあ、行こう。またあの階段だと思うと気が重たいけどね」
階段の死角に看板が見えた。白く、つるつるとした見慣れない材質で出来た大きな板。
表面には小柄な人物が描かれている。彼は上下とも灰色の衣服を着ており、頭に黄色い半円のヘルメットを被っていた。
腰をわずかに曲げて会釈をしている彼の口元には吹き出しがあり、何かのセリフを口にしているらしいのだがそれは見慣れない言語で――……、
「『この階層は現在工事中……ご迷惑を……お掛けします。南方観測室室長……?』何だ、これ」
「おい、これが読めるのか?」
「読め……る。繋がった文章の意味は分からないけれど、ひとつひとつの言葉は読めるよ」
ビヨンが前屈みになって看板を覗きこんでいる。彼女は頬を手で擦りながらにうんうんと唸ってから、「知らない言葉だ。きっと古代の言葉だよ」と振り返りながらに言った。
「どこで勉強したの? シラエアさんから教わった?」
「さあ、どこだろう。でもシラエアさんじゃないのは確かだよ。あの人は剣以外きっとからっきしだから」
「じゃあイルミナ師匠?」
「僕は……あの人には可能な限り、あまり近付きたくなかったからそれは無いかな」
ならばこの古い言葉をどこでわたしは学んだのだろう、と小さな疑問が胸の中で次第に膨らんでいく。
旅立つ以前。前準備のつもりで近隣諸国の風土や歴史について学んでいた時か?
それとも霧で目覚め、自分自身が虚ろであった数年前の日々。穴を埋めるようにして知識を貪っていたあの頃だろうか?
『違う』
塔の前で目にした黒い影を思い出した。
わたしの手が届かず、掘り起こすことの出来ない深い部分の記憶が、それは違うと訴えている。
申し訳なさそうな顔をして頭を下げたままの看板の男を見つめていても何も思い浮かばず、やがて痺れを切らしたコルネリウスがわたしの籠手をコツリ、と叩き、先を促すまで古い言葉をじっと見つめていた。




