047 異能
南方から吹きつける風に丘の草葉が揺れている。樹木の幹に小柄な背を預け、髪をかきあげて人を待つ様子はまるで心の躍る約束を取り付けた乙女のようだ。
「遅かったじゃないか」
ただし相手は老婆だが。
年齢は六十か七十。正確に覚えてはいないが、わたしより四倍は目上の人間だということは確かだ。シラエア・クラースマンは退屈を紛らわせようと自分の愛刀を指先で叩いていた。
「集合時刻ぴったりですよ。……ほら。そちらの時計がずれているんじゃないですか?」
「こういうのは三十分前集合が常識だと思うんだがねえ」
「いや、そんな理屈は聞いたことがないですが」
「なら今ここで聞いたね。明日からは三十分前にここに来な」
「そんな!」
「あんたの返事は『わかりました』か『はい』の二つだけだ。いいね。さて……そろそろ始めるよ」
なんて老人だ。彼女のまばゆい名声に惹かれて集ったがしかし、その性根の発露に人々が蹴散らされたという逸話も納得の傍若無人ぷりではないか。
シラエアは一本の木刀をこちらへ放り渡したがわたしは受け取らず、落着を棒立ちのままに見守った。
ずぐり。
木刀の先端が大地に突き刺さり、重量のままに十センチ程度はめり込んでいる。
「またこれを振るのか……」
げんなりだ。太陽が昇ってから休憩を得るまでのあいだ、延々とこの重量物を振り続けていたわたしは、もうどうあってもこの木刀に好意的な感情は抱けない。
「何はともかく体力だ。生きるも体力、戦うも体力。スタミナをつけるぞ」
が、しかし。一時的とはいえシラエア・クラースマンは今やわたしの師だ。師である彼女の言葉に、弟子のわたしが抗議の言葉をあげられようはずがない。
それでなくともシラエアは剣を抜き、鋭い切っ先をこちらに向けて指示を口にするのだ。〝東の剣聖〟の尋常ならざる剣の技を身をもって経験をしていたわたしは素直な返事を口にして、ただ黙々と木刀を振るだけである。
稽古のスケジュールやメニューについて、シラエアは詳しい説明を一切しなかった。
彼女が「走れ」と言えばわたしは汗みずくになって果てのない草原をひたすらに走り、「素振りをしろ」と命じられれば息も整えずに、重鉄の芯でも仕込まれているんじゃないかと疑いたくもなるようなデタラメな重量のある木刀を振り回した。
両腕を掲げ、振り下ろし、腕の力でぴたりと止める。
木刀の重さを変えるだけでここまで苦痛になるとは思いもしなかった。鍛錬用のアイテムではなく、蛮族が用いる武器の一種ではないのか? この木刀は鈍器としても十分に通用しそうだ。
これでいったい何回目の素振りなんだろうか? 回数はとっくに数えていないし、数えられる余裕もない。機械的に木剣を振り、上半身に走る疲労の痛みを無視することで精一杯だ。
意識がもうろうとしてきた。それはそうだろう。昼飯は胃袋にかきこむようにして流し込んだ目玉焼きとトーストにハムステーキ。徹夜明けの体にはまるで足りない量だし、ついでに言えば睡眠も不足している。
体がふらふらと左右にぐらつくのも当然の体長だが、体のコントロールを失うとすぐさまにわき腹を剣の鞘で叩かれるのだ。どうやら休息は無い。
「体がブレてる。剣を振れなくなってからが本番だよ」
「ほ、本番、とは?」
「腕を上げられなくなってから同じ回数だけ振ってもらう。今からだと……二百五十だね。おいおい、女子供みたいな顔をするんじゃないよ」
もう勘弁して欲しい。
せめて、水を――。
………………
…………
……
限界だ。子供のころのように草原の上に仰向けに転がり、荒い呼吸に胸を弾ませた。
酸素! 酸素がもっと必要だ! 胸を空気で満たし、深く吐く。遠のく意識に血を巡らせるのだ。
「ユリウス。あんた、剣以外に何か得手はないのかい?」
彼女がわたしに問いかけたのはそんな満身創痍の時だった。
得手……とはなんだったかな。脳みそが煮え立つように熱く、浮かぶ考えがしゃぼん玉のように割れてしまって思考がおぼつかない。
ええと……そうだ。得手というと得意とする技のことか。剣以外に何かあったかな。唇に汗の味を感じながらに思考し、答える。
「回復魔法を覚えています。それと回復ほどに得意ではありませんが、土の魔法も扱えますよ」
「回復ねえ。そういやあたしに右手を切り飛ばされた時に必死にくっつけようとしていたっけね」
右手で手刀を作り、何度か振るうシラエア。昨日の今日でこれを笑い飛ばすのはわたしには無理だ。
「名前は忘れましたが、どなたか優れた医療術師に治して……いただけたようです。気を失っていて覚えていません」
「シンゼルマンのことかい? 感動してるとこ悪いけどね、ありゃとんでもないヤブだよ。地位と学位を金と七光りで買った卑怯者のポンコツだ。人体をくっつけるような魔法どころか、擦り傷を治すのだってあいつに出来るかどうか」
「では僕の腕はだれが?」
「自分自身でやったのかと思ってたよ。回復は何階位まで扱えるんだ?」
魔法の師であるイルミナ・クラドリン――白衣に身を包んだ魔法使いの言葉を思い出す。
『継続的な回復魔法はどうにか扱えるか。ふむ、ならば第二階位の使い手と認めてやろう。証書は無いぞ? 欲しいのなら国家試験を受けろ。しかし私が面倒を見てやったというのに魔法が伸びないとは。悪い意味で天才だな、お前。情けない』
人を小馬鹿にするにやにや笑いが脳裏に鮮明によみがえる。やれやれ。
「――第二階位までです。解毒や刀傷などの外傷の治癒ならまあなんとか。魔力量がずば抜けて多いわけではないので、魔法は出来て精々……五回ですかね」
「駆け出しもいいとこだね。第二程度じゃあ、あたしに付けられた傷は回復出来ないはずだ」
「なぜ?」
わたしが気付かない隙に毒でも塗りたくっていたのか?
一度語り始めるとシラエアはしばらく喋り続ける。人の良い顏とは百歩譲っても呼べないが、口の滑りはずいぶん良いらしい。
「あたしの体に流れる魔力……体の特性と言った方が正しいかね。こいつは少しばかり変わっているんだ。言っちまえば、あたしがつけた傷の治りは極端に遅く、あるいは悪くなる。回復魔法の効きが悪くなるってんだから、大概の相手にゃあほぼ必殺だ。第四階位の回復じゃなきゃあ完治の見込みは無いだろうね。マールウィンドにはそれだけの回復の使い手は二人しかいない」
「あなたが言うところの駆け出し魔法使いである僕には、とてもじゃないですけれど第四階位なんて扱えないですよ。その二人しか居ない、回復魔法の使い手が面倒を見てくれたんですか?」
いいや。シラエアはつまらなそうに左右に首を振る。「片方は痴呆で、片方は世捨て人だ。この首都にはろくでもない医療術師しか残っていない。と、なると……」こめかみを指先でとんとんと小突き、
「ユリウス。どこかで変わった魔力に触れたことは無いかい? 極端に魔力が濃い場所だったり、祝福された人間に触られたり」
「ありませんよ。……あ」
五年前。洞窟。黒い人影。緋色の瞳。
『運命を回そうぞ』と、あれは確かに口にしていた。
「ユリウス?」
「いえ……記憶には何もないです」
「そうなると辻褄が合わなくなるね。まあ……そうそう死なないってんなら良いことか。ところでお前、疲労が随分と抜けているように見えるね。どうなんだい?」
言われれば肩の疲労が軽くなり、千切れんばかりだった両腕の痛みも引いている。元の状態とまではいかないが、多少の無茶は出来るほどには回復をしていた。
「はい。もう動けます」
丘に倒れ込む際、わたしは自分に対していっさいの回復魔法を掛けてはいなかった。となればただの自然治癒だが……『自然』と呼ぶにはいささか早すぎるのではないか?
わたしの疑念を裏付けるように、シラエアはあからさまに怪しむ顔をこちらに向けてはいたが、口にする言葉は軽いものだった。
「治りがただ早いだけの変わった人間か、それとも階位の壁を飛び越えるほどに回復魔法の適正がずば抜けて高いのか。さて、なんだろうね。実はトカゲの血でも混ざってるんじゃないかい? そのうち手足が生えてきたら笑えるね」
「そうなったら見せ物小屋に就職しますよ。稽古の続きをお願いします」
どれだけの時間が経っただろう? 頭上高くに輝いていた太陽が西の山々に沈もうとしているのが目に映った。世間はきっと夕食時だろう。コルネリウスは――ビヨンは何をしているかな。
腕の感覚はもうまるで無く、体を助けるつもりで回復魔法を掛けようにも、魔法を成立させるだけの集中力は残されていないのは分かり切っている。
いや――わたしは魔法を使うつもりも、甘えるつもりも無かった。
いいかい、とシラエアの声が聞こえる。
耳に伝わる音は老婆の声と耳鳴りだけ。聞き慣れた虫の声や鳥の声は何も聞こえない。
「あんたが敵に追いつめられたとする。体は満身創痍だ。呼吸は荒く、腕は震えていて指先は泥に触れるばかりの絶体絶命。あんたはそこで諦めるのかい?」
森で目覚めた日。怪物に追われ、生きようと泥を掴んだことを思い出した。
「違うだろう。生き残りたけりゃあ、剣を振るんだ。腕が千切れん限りは戦える。体が悲鳴をあげようがどれだけ無茶だろうが――戦え。戦って、勝ち、生きろ」
「はっ……っ……いき……る……」
「人生に色を見たいんなら生きるしかない。やるしかないよ、ユリウス。あたしのしごきはしんどいかい? けどね、あんたの親父は確かに耐えたよ。親父を――フレデリックを越えるぐらいの気概を〝東の剣聖〟に見せてみな」
わたしは返事をしなかった。
腕をきしませ、苦痛に歯を食いしばり、大上段で何度も剣を振った。
どうしようもない量の汗が顏の表面を滝のように流れている。汗が目に入り込み、開いていられなくなった。呼吸は激しく、両足が震えて立っているのもやっとの有様。
だが父に、わたしが目指した彼の背中に近づけるのなら――かつてわたしが願った、人生を鮮やかに彩るという願いの成就に必要な試練ならば、わたしは必ず乗り越えてみせよう。




