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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
三章『広がる青』
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046 しばしの別れ


 二人の驚きようときたら大変なものだった。


 ビヨンは目を丸く見開いたままで口をわなわなと震わせていたし、コルネリウスは床の上に膝から崩れ落ちるとそのまま気絶をした。彼は屈強といって差し支えの無い体格の持ち主だが、幽霊や怪談といった一般に恐ろしい話がとりわけて苦手だということを忘れていた。

 いつからだっただろうか? 確か五年前の洞窟から、実体の無いものを怖がるようになったような気がするが。


 コルネリウスは気絶をしたままでうんともすんとも言わず、わたしは彼を置いておくことに決めた。次いで昨晩から今朝までの話をビヨンから聞いた。どうやらコルネリウスは廊下に現れたわたしを見て、幽霊だと勘違いをしたらしい。


「無理ないけどね。これ読んでよ。すごいんだから」

「新聞? 今朝のだね」


 昨夜の大捕り物の記事が手渡された朝刊の一面を飾っていた。なるほど、コルネリウスが仲間を幽霊と見間違うのも無理ない話だ。なにせ慌てふためくわたしの顏が大きく写った記事の中で『侵入者は死亡』とハッキリと書かれているのだ。


 名前を出していないのは配慮か手回しか……どちらかは知らないが、故郷でこの記事を両親が目にしたらどう思うだろう?

 旅を終えて玄関口に立つわたしを見て悲鳴をあげるようなことがあれば、首相かシラエアに恨み言のひとつでも言ってやろう。もちろん、聞こえない場所で。

 

「お待ちどうさま、朝ごはんよ。きみ、ユリウスくんだっけ? あらあら随分とまあ……」


 宿屋の女主人がくりっとした瞳がわたしを見上げている。彼女は<ラビール族>の特徴であるウサギに酷似した鼻をひくつかせ、

 

「汚れた格好をしてるのね。お洗濯しときましょうか?」

「悪いですよ。それに結構……臭いますよ。泥とか――」


 血とか。しかし女主人は「そんなの楽勝よ」と小ぶりな頭を左右に揺らし、得意げに言う。

 

「大浴場の前に大きなバスケットがあるから、洗濯してほしいものはそこに全部突っ込んでおいてね。それがうちの、<草編むうさぎ亭>のルールのひとつだから」

「すみません、世話になります。ええと――」


「あたしはクレル。いつもチェックのシャツを着ているクレル・ラーン。名前は覚えてくれればそりゃあ嬉しいけど、コルネリウスくんみたいに『女将さん』って感じでも構わないからね。実家だと思ってのんびりやってね」


 ふりふりと揺れるうさぎの耳が愛らしい。ラビール族は人懐っこい気質の人間が多いと聞くが、彼女はまさにその代表のような人物に思えた。

 世話を焼こうと奔走をする女主人の背中にひどく懐かしいものが見え、正体を探ろうと記憶をたどってみればそこには母リディアの姿が浮かび上がった。


 故郷を離れて一年も経っていないというのに、胸にこんこんと湧くこの郷愁の念はなんなのだろう?

 シラエア・クラースマンとの文字通りに血がにじむ数時間の稽古で死線を見たわたしは、走馬灯を目にする資格を得てしまったのか? 冗談ではない。誰かに譲ろう。


 目玉焼きをフォークの先で潰し、漏れ出す黄身を眺めていると、机に突っ伏したままに白目を向いていたコルネリウスが身じろぎをした。

 どうやら気絶のあとは昼寝を楽しむらしい。

 わたしとビヨンは互いの顔を見合わせると肩を竦め、暇つぶしの会話に興じた。


「ユーリくんどこでこんなに汚れたの? 全身泥だらけって……洞窟で夜を明かすぐらいなら宿を探せば良かったのに」

「野宿をしたわけじゃないよ。むしろ徹夜だった」

「徹夜でなにをしてたの」

「ちょっとね……外壁の外で運動をしてたんだ」


 どう答えたら良いものか。自身なさげに口にした返事は微妙なものだった。ビヨンもまたわたしの言葉と同じぐらいに微妙な顔で「ふーん」とつぶやき、あからさまに怪しんでいる視線でわたしをじろじろと観察をし、そして気付いてしまった。


「あ。右手の籠手はどうしたの? 無くした? それに鎖帷子も切れてる! その運動って命の危険があるんだねえ。ふぅん。正直に言ってよ。誰と一緒だったの? 仕事……じゃないよね。依頼は登録時のパーティじゃなきゃ受注できないもん」


 エメラルドグリーンの瞳は追求の色をしている。こうなればビヨンは答えを得るまでワニのように延々としぶとく食らいつく。一度彼女の好機を刺激してしまえば最後、逃れることはそうそうできない。

 

 気付けば彼女の食事の手は止まっている。

 

「た、食べないと冷めるよ」

「早く答えて」

「強い……」


 シラエア・クラースマンには『口外をするんじゃないよ』と釘を刺されてはいたがしかし、少なくとも二キロメートルは離れた場所に居るわたしの言葉を拾えるほどに優れた地獄耳は、さすがの剣聖でも持ってはいないだろう。


 言ってしまおうか。

 そうだ。バレたところで何だと言うのだ? この場で適当な言い訳を口にする方が泥沼にハマる。わたしはビヨンとの長い付き合いでそのことを熟知している。


「シラエアさんに稽古をつけてもらってたんだ」 目玉焼きを食べながらにわたしは淡々と言った。声に抑揚は無かったと思う。

「シラエアって〝東の剣聖〟の? この写真の人?」


 ビヨンが指で示したのは朝刊の写真だ。シラエアが建物の壁面を涼しい顏で走っている。


「そう。すごいねこの写真、よく撮れてる」


 写真越しに彼女の鬼気迫る威圧が伝わってくる。次いでつい一時間前までしごかれていたのを思いだし、疲れが全身にどっと押し寄せた。

 実を言えばわたしが今ここに居るのは稽古明けではなく、休憩時間なのだ。そう、ただの小休止(・・・)である。

 これから二時間後には遮蔽物の無い平原で終わりの見えない稽古に臨まねばならない。


「追われてるのはやっぱりお前だったのか?」 コルネリウスが顏を起こして言った。

「おはよう、コール。そうなんだ、また父さんと見間違えられてね」

「またかよ!? 親父さんはこの街で何をやらかしてそんなに恨まれてんだ!?」


 器物損壊、代金の未払い、シラエアの下からの脱走。

 今日か明日には父の過去の罪をまたひとつ知れそうだ。気が重い。


「若いころに散々やんちゃしたみたいだね。代償を払うのが僕っていう点は相当に不満だけど」

「そのうち家族旅行を計画して、それとなくこの<ウィンドパリス>まで連れてくるってのはどうだ? それで過去の罪を清算して回るんだ」

「絶対怪しむでしょそれ。無し無し。それより二人とも、心配かけてごめんね。僕はちゃんと生きてるから大丈夫だ」


 心臓も動いてる、と胸を曝け出そうとしたが止めた。彼らはわたしの胸に走る傷をまだ知らない。


「俺は信じてたぜ」 コルネリウスの眩しく、清々しい笑顔がわたしの憂鬱を照らす。

「幽霊だと思ってぶっ倒れたのは誰なのよ、もう」

「相棒、この後はどうする。首都で依頼をこなして顔を少しは売っておこうかと思うんだが」

「それなんだけど……」


 わたしは言うべきか言うまいか。選択に口ごもったが意を決し、


「僕はしばらく二人と行動出来そうにない。シラエア氏との稽古がある」

「どういうことだ?」

「シラエア氏が僕の剣の面倒を見るって言うんだ。実を言えば……僕の剣術が気に入らないらしい。ほら、僕の剣は元々父さんから教わったものだろ? 父さんは『フォンクラッド流だぞ』なんて格好つけて言っていたけど、元々はシラエア・クラースマンの<迅閃流>っていう流派だったんだ。父さんの妙なアレンジのきいた剣を振り回す僕を見て、<迅閃流>の名前に泥を塗られると困る――ってことで叩き直されることになっちゃって」

「抜けられないのか?」


 わたしは肩をすくめてみせた。


「逃げたら多分、今度こそ殺されると思う」


 鎖帷子がきれいにすっぱりと切り裂かれている右腕を掲げた。二人の視線が集まったところで「昨日の晩は右手首を切りとばされたんだ。本当だからね、これ」


「なら次に飛ぶのは首だろうな」

「コールの予想はいい線いってると思う」 首筋を指の腹でさすり、答える。

「いつ頃終わる予定なの?」

「終わりは……」


『あたしの技をひとつ! 自分のものに出来たんなら解放してやる。もしくはあんたがくたばるまでだ。何をきょとんとしてんだい、死人に技を仕込んでも仕方ないだろ?』


 シラエアの冷たい言葉が脳裏によみがえる。彼女のしごきを抜けるにはあの常人離れをした剣術のどれかひとつを、本当に死にもの狂いで覚えねばならない。

 しかし――天賦の才をもつと称される〝東の剣聖〟の剣技をわたしが会得を出来るとして、どれだけの日数がかかるのだろう?

 半年か? だめだ、長すぎる。わたしたちの旅程は一年限りの予定なのだ。……一ヶ月だ。


「一ヶ月後かな。長いけど、そのあいだはどうにか頼むよ」

「いいぜ。俺にもスカウトが来たらどうなるか分からねえけどな」


 皮肉だろうか。横目で顔色をうかがうと、ニヤニヤと悪戯っぽい顔をしていた。いつもの冗談だ。


「コール、頼むよ」

「冗談だよ。了解だ、野草摘みだとか農場の手伝いだとか、危険のない仕事でコツコツやっとくぜ。夜にはこの宿に帰ってくんのか?」

「帰れる日にはね。魔力切れでくたばってたらそのまま野宿になるかも」


 と、ビヨンがじっとりとした目でわたしを見ている。コップの中身はとっくに空になっていて、ストローの先端からは不機嫌そうな音が継続して鳴っている。


「最高峰の剣士に鍛えられるなんてすごいなって思いながら話を聞いてたけど……やっぱあんまり羨ましくないかも。しんどそう」

「全身血みどろになるような鍛錬が好きな人にはたまらないと思うな。興味のある人が居たら代わってあげたいよ。ほんと」

「……おい、すごいことに気付いたんだが」


 目をきらめかせてコルネリウスが言う。口元を手で覆い、まさか、信じられないといった具合で言葉をゆっくりと吐く。


「フレデリックさんは〝東の剣聖〟の弟子だったんだろ?」

「そうだね」

「で、ユリウスはその技と動きを叩き込まれてる。ってことはお前はシラエア・クラースマンと同じ流派……ええと、<迅閃流>? になるってわけだよな」

「これから殺されそうになりながら矯正をされるわけだけど、そうだね」

「そうか……と、なると……フレデリックさんから槍を仕込まれたこの俺の技も、剣聖の流派ってことになるんじゃねえのか!?」


 期待の眼差しがわたしを真っ直ぐに射抜く。

 コルネリウスはこれで自分にも箔がつき、酒場の荒くれ相手や見てくれの良い女に自身のプロフィールを訪ねられた際、『聞いて驚け。俺は〝東の剣聖〟の流派、迅閃流の使い手だぜ』と格好をつけて答えたいのだろう。

 眩しい看板を背負っていればそれだけで何となくすごそうに思えるものだし。


「いや、実はそんなことはないんだ」 わたしは空になった皿を見ながらに言う。

「なに?」


 真実を告げねばならない。すまない、コルネリウス・ヴィッケバイン。


「父さんの槍は実は、その、我流なんだ。シラエアは槍を扱えないし、だから父さんに槍術を教えたことはないって言ってたよ」

「嘘だろ?」

「残念だけど本当なんだ。つまり、コールの槍は……正真正銘のフォンクラッド流だよ。その、おめでとう」


………………

…………

……


 たったの百二十分。儚い休憩時間は終わってしまった。

 

 わたしは仲間たちに「行ってくるよ」と別れを告げ、今後しばらくの拠点と定めた宿屋を後にした。


 都市の南正門へと続く大通りには多くの人出がある。

 辺りをぐるりと見回せば、恋人と手を繋いでいたり、家族が揃ってウィンドウショッピングを楽しんでいる姿が目に入る。羨ましい限りだ。わたしも出来ることなら、自分が生まれ育った国の首都を心行くまで観光をしたい。

 

 と、とある店先を通る過ぎる時にわたしの耳が会話を拾った。わたしとそう年齢の変わらない若い冒険者たちだ。彼らは防具屋の店先で顏をつきあわせ、装備の新調について相談をしている。


「革鎧から鉄製の鎧にそろそろ変えたいな。ここらの獣は危なっかしいのが多い」

「そうは言うけどねえ、スタン。私たちにはそれほど余裕が無いのよ。新調してあげたいのは山々なのよ? あなたはチームの要だからね」

「いいんだ、リーナ。言ってみただけさ。何か大口の依頼があれば余裕が出来るんだけどな……」


 どこかで聞いたような会話だ。

 自分の右手にちらりと視線を落とし、右手のガントレットを失ったままだったことを思い出した。素手はどうにも落ち着かない。


 わたしは通り過ぎようとしていた防具屋へと足を向け、店先のワゴンに無造作に放り込まれている籠手から自分に合うサイズを探り当てた。ワゴンには『訳あり品。返品受け付けません』と注意書きがある。


 籠手の具合を見るとひびが走っているわ、血糊がついているわ、関節は軋むわで散々だった。なるほど、銅貨八枚の捨て値も納得だった。屋台で飯を食べるか籠手を買うかを悩める価格設定。破格だね。


 無愛想な店主に金を支払い、装着をするとようやく落ち着けた。駆け出しだろうとなんだろうとわたしは剣士だ。こうして全身を防具で覆っていないと、まるで下着を履いていないようなチグハグさがある。


 しかし――、


「本当に羨ましいなあ……」


 道行く人々は誰も彼もが笑顔を浮かべている。それもそうだろう、休日の午前に親しい人と一緒に出歩いて楽しくないわけがない。


 一方でわたしの顔は仏頂面、あるいはしかめっ面だ。

 出来ることなら歩を進めたくもないのだが、この足は南大正門の先、外壁の向こうで待ち受ける試練のもとへと粛々と進んでいく。


「父さんもこんな気分だったのかな」


 シラエアのもとを離れ、結局戻ることのなかった父の気持ちが分からないでもない。

 毎日死線をさまようような日常を送っていれば、よっぽどに神経が太く無いかぎりは心が参るだろう。薄皮一枚を延々と一方的に斬られ、嬲られ続けるような環境に耐え続けることができる人間は間違いなく変態だ。


 大正門をくぐれば尽きることなく広がる平原が目に入る。背面以外のすべての方角は山、川、草原、土色の一本道に終始する。

 このまま昼寝でも決め込めば最高の午後になるに違いない。が、そういうわけにもいかない。

 

「遅かったね。さっさと来な」


 老婆とは思えない鋭く大きな声がわたしの気分を沈ませる。大平原の上に立つひとりの老人――シラエア・クラースマンがわたしを待っている。

 

 

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