045 戻らぬ男
ビヨン・オルトーの朝は早い。
目覚まし時計は毎朝、午前五時半に自慢のベルをにぎやかに打ち鳴らし、彼の演奏はスイッチをオフに切り替えられるまで延々と続く。
「あさ……もう朝なの……」
レースのカーテンの向こうで小鳥がぴちぴちと鳴いている。きっとベルバードだ。マールウィンドの都市部の朝で耳にする声は彼ら以外にない。
実家で暮らしていたころから愛用をしている時計が第一の目覚ましならば、彼らの甲高くてピッチの速い鳴き声は第二の目覚ましだと言ったっていい。
ベッドカバーを引っ掴み、もう少し休んでいけよと細い背中にしがみつく眠気を振り払うようにして一気に上体を跳ね起こす。もう起きなくちゃ!
カーテンの隙間から射し込む淡い光を浴びながらにパジャマを脱ぎ、藍色のローブに袖を通し、白いカーディガンを肩に羽織る。
時折、狙い澄ましたとしか思えないタイミングでコルネリウスが部屋の扉を開くことがある。しかしほとんどの場合それらは夜だ。眠りの深いあの大男は朝に弱いから、早朝はまず現われない。だからこそのビヨンの早起きだった。
時刻はまだ六時前。仲間が起きるまでにはたっぷり一時間は残っていた。
宿屋の女主人は既に起床をしていて、宿泊客であるビヨンらの朝食のための準備をはじめているらしい。耳を澄ますと微かに聞こえてくる、とんとんとリズムの良い調理の音がその証拠だ。
「もう眠れそうもないし、今のうちに仕事をしておこっかな」
旅の荷からノートと筆記用具を掴み取り、机の上にばさりと広げる。黒縁の眼鏡をかけたビヨンが見下ろすのは無地のノート。
旅をはじめてからのビヨンはある習慣を獲得していた。手製のマップ作りである。
それは<リムルの村>を出立したときから始まり、新たな街へ辿り着くたびに冒険者ギルドに宿屋、武具屋に道具屋に土地土地の記念館や博物館。珍妙な銅像や気に入ったお店など、街で見つけた面白おかしいものを事細かに書き記し、ノートの紙面に自分だけの地図を描いていく。
想像と記憶の糸をたぐり、記録を重ねていくことがビヨンは好きだった。
一年限りと定めていたこの旅を終え、故郷に戻った時には三人で顏を突き合わせてノートをめくり、思い出を振り返るのだ。
コルネリウスは「相変わらずマメだな。ごくろーさん」なんて、大して感動していなさそうな口振りで言うだろうことは分かり切っている。実際もう言っているし。彼に情緒的なものは元より期待していない。
「……ユーリくんはどう思うかな。褒めてくれるかな」
柔和な顔立ちにくしゃくしゃの黒髪。柔らかい目元のように見えて、その実は強い意志をもった青い瞳。幼いころから見続けているし、ずっと隣に立っていたから、彼とコルネリウスが随分と大人びた風貌に成長していたのはよく分かっていた。
『よく書いたね』『ビヨンのマメなところは長所だね。ありがとう』『これは三人の宝物にしよう』どれかひとつぐらいはユリウスは口にしそうだ。
体を鍛えることにしか興味がないコルネリウスは相変わらず馬鹿ではあるが、ユリウスの内面は深くなったように思えた。まぶたをわずかに閉じ、思慮深い眼差しで考えに耽る横顔にはドキッとする時がある。別に意識なんてしない。彼はただの幼馴染だ!
あくまで昔馴染みの友人として彼を眺めていると、首にかかっているネックレスに否応なく目をひかれる。オレンジ色の宝石に細い鎖を取り付けただけの簡素な首飾り。それは幼い日の夏に出会った騎士国の王女、アーデルロールが彼に手ずからに贈った品だという。
唯一無二のネックレスを大事に扱うユリウスの姿が、ビヨンにはどうにも不愉快……とまではいかないが、すっきりと受け入れることは未だに出来なかった。五年も経つというのに、自分の気持ちに整理がつかないというのはどうしてだろうか?
理由は自分でもよく分からないし、相談をしようにも年頃の女の知人は故郷の村や街か、遠い北の大地にしか居ない。
ビヨンの頭は次第に立ち込めはじめた暗ったい思考でいっぱいになったが、ペンを握る手だけは己の職務を全うしようと淡々とノートの上を走っている。「はあ」だの「なんでもやもやするんだろうなあ」なんて呟きながらも彼女の作業は続き、連邦首都の大まかなマップと主要施設の書き込みは進んでいく――。
………………
…………
……
やたらに音の大きい無遠慮なノックに集中を中断された。一回、二回、それから三回。四回目はいい加減に頭にきて、こっちからドアを開いてやった。
長身に快活な顔。髪の色が似ているからって兄妹と見間違えられるのが嫌だった。
「ビヨン! 起きてるか!?」 コルネリウスが朝っぱらから声を張る。
「……起きてるからドアを開けたんじゃない。おはよ」
そうだとも。よくよく見れば金髪の濃淡が彼とは違うのだ。
自分は深みのある金色で、コルネリウスは白っぽい金の色。間違わないでほしい。「仲が良いご兄妹ね」なんて言われる度に浮かべる引きつった愛想笑いに、ビヨンはほとほと飽きていた。
自分たちは男女で別室にして宿に宿泊をするのがルールだ。ユリウスと同室であるところの彼は挨拶も返さず、慌て顔のままで、
「ユリウスのやつ、結局帰ってこなかったぜ」
と、黄色の瞳を見開いて言った。
廊下で大声を出すものだから、通路の奥にあるラウンジで先に朝食をとっていた宿泊客が何事だろうかと顏をのぞかせている。彼らには兄妹の口げんかの場面にでも見えているのだろうか? 勘弁してほしい。
彼を部屋に引き込もうか、このまま朝食に向かおうかと考えていると「朝ごはんが出来ているわよー」と、宿屋の女主人の声が聞こえた。続いて肉を焼いた時に特有の空腹をくすぐる、なんともかぐわしい香り。
何を考え、行動をするにしてもしてもまずは……食事かな。ユリウスがこの場に居たら、きっと彼もそう言うに違いないし。
◆
目玉焼きにハムステーキ。トーストはお好みの枚数だけ。サラダはご自由に。
人影のまばらなラウンジの隅っこの丸卓を陣取り、ビヨンとコルネリウスは顏と意見をつきあわせている。話題は昨晩から姿の見えないユリウス・フォンクラッドについて。それ以外に熱を上げるべき話は無い。
「酒場で見たのが最後の姿ってことだよね?」 トーストをかじりながらにビヨンが言う。
「便所に行ってくるっつってそれっきりだ。『ついてくか?』って聞いたんだが、あいつ、『自分は百回以上も用を足した経験があるから要らない』って言うんだ。ユリウスらしからぬ冗談だったな。酒が入ってるから馬鹿になってたに違いない」
「それでもコールくんよりは頭の回転は速いでしょ。そろそろ頭に油を挿したら? ご飯屋さんに行った時に会計が計算出来るようになるかもよ」
「そりゃいい考えだな。お前より賢くなったら宿屋の精算まで出来ちまう」
酒宴を終えるころになってもユリウスは席に戻ってこなかった。
さすがに心配になったビヨンとコルネリウスは冒険者ギルド内を歩き回って捜索をしたが彼の姿は結局見つからず、連邦騎士と冒険者らしい出で立ちの人間が何やら慌ただしい様子でしきりに走り回っていたのはよく覚えている。
彼らは確か――『シラエアが暴れた』『人死にが出るな』などと物騒なことを言っていた。
「死体袋を用意しとけ、とも言ってたぜ」
「思い出させてくれてどーも。今朝は冴えてるね」
「心配で寝つけなかったからな。あいつ、この宿の場所知らないよな。どうすんだ?」
「冒険者ギルドに三人分の登録を済ませてあるから、カウンターで名前を出せば紹介先のこの宿を案内されるはずだよ。けど……」
それは彼が無事だったらの話だ。ユリウスは剣技に優れ、同時にある程度の魔法を扱える男であり、そこらの不良程度には例え酔っぱらっていても負けることはないだろうことは分かっている。その点は信頼している。
だがしかし。
相手が格上の場合はどうなるか分からない。この<ウィンドパリス>はマールウィンド連邦最大の都市であると同時に連邦の心臓、もとい脳でもある。
連邦騎士の本部に冒険者ギルドの本部が存在し、霧を防ぐ魔法結界と強固な外壁まである。この都市の保有する武力と技術は高い水準のものであり、騎士連中の中には名だたる猛者が少なからずい居ることをビヨンは知っている。
情報源は幼少のころより読んでいた雑誌にフレデリック・フォンクラッドの言葉、街々で訪れていた酒場での噂話。
何度も耳にした名前を調べてみれば、誰もが震えあがるような逸話がくっついているから驚きだ。
特にシラエア・クラースマン。〝東の剣聖〟と謳われるかの剣士に狙われれば最後、逃げられる者も敵う者もこの連邦には居ないともっぱらの評判だ。ユリウス・フォンクラッドという若き冒険者が、どれだけ魔法と剣に優れていようとも流石に勝てないだろう。
「暗い顏してんなよ。あいつが死んだとでも思ってんのか?」
「そこまでは考えてない……でも昨晩の事件に巻き込まれて大けがしてる可能性があるじゃない。うち、心配だよ」
言って、ビヨンは半分に切り分けたハムステーキに視線を注いだ。出来るだけ考えないようにはしていたのだが、一度意識をしてしまうと不安の影は中々離れてはくれない。
「暗い顏しちゃって。紅茶のおかわりはいかが?」
ピンと立ったうさぎ耳が視界の端っこに現れた。宿屋の女主人だ。<ラビール族>の特徴であるうさぎそっくりの顏でビヨンを見上げていて、人間の子供ほどの身長しかない小さな体にフリルのついたエプロンを結び、ティーポットをぎゅっと抱えている。
「あ……大丈夫です。紅茶、ありがとうございます。いただきます」
「取り繕わなくっていいのよ。今フルーツでも切って持ってくるからね」
湯気の立つ紅茶がとぽとぽとティーカップに注がれる。落ち着く香りが鼻孔をつき、ざわめいていた思考が平坦なものに変わっていく。
「なあ、女将さん。悪いんだけど朝飯をもう一人分用意してもらってもいいか?」
軽い足取りでキッチンへと戻ろうとする女主人の背中へ向け、コルネリウスが声を掛けた。
「構わないけど……ああ、ユリウスくんの分ね。ここへは今日着くの?」
「いや、それがまるで分からん。けど、多分来るぜ。俺の勘がそう言ってる」
相変わらず信用ならない根拠を理由にして鍛えた胸を張っている。彼のあの自信は一体どこから湧いてくるのだ? 朝食を口にして満腹感を得た彼は、ユリウスの行方について大して心配していないようにさえ見え、ビヨンは憂慮げな息を吐いた。
「的中率三パーセント以下でしょ、それ」 当たれば奇跡だ。
「あら、でも勘とか直感って意外と当たるものなのよ、ビヨンちゃん。あたしはビビッときた男に言いよって旦那をゲットしたんだから」
うさぎそっくりの口でころころと笑いながらに女主人が言う。そういえば彼女の夫はどこに居るのだろう。昨晩にチェックインをしてから一度も見ていない。出稼ぎかな?
「なら、勘は相当信用できるってことだな。あいつが腹を空かせて戻ってきても俺たちは大したもんが用意出来ないんだ。そこで女将さんの飯を食ったらもうイチコロさ。ひとつ頼むよ」
「友達思いなのねえ。それじゃあすぐに用意しちゃうから。新聞でも読んでて待っててね」
女主人の故郷だという、ファイデン竜王国特産の茶葉の香りを楽しみながら、ビヨンは「コールくんはあわよくば余分に多く食べられるかも、なんて考えているだけでしょ」などと内心でぼやいた。
「新聞?」 スープをすすりながらにコルネリウスが言う。品が無い。
「ここに引っ掛かってるのじゃないかな。よっ……」
腕を伸ばして適当に掴んだのは今朝に投函された朝刊だった。
一面の見出しには『〝東の剣聖〟、暴れる』とでかでかと記されている。
「これ、昨晩の事件か?」
「そうみたい。見てよ、この写真。おばあさんが壁を走ってる」
一枚の写真が記事のど真ん中で幅を利かせている。画像は鮮明で、夜に撮影されたということはすぐに分かった。
シャッターを切った人物は騒ぎにどんぴしゃに居合わせたようで、事件の渦中にある大通りの様子を真正面から撮った写真は、騒動の現場の様子をこれ以上ないほどに雄弁に語っている。他社のものと比較をするべくもない。最高の一枚だ。
商店が軒を連ねる大通り。赤レンガの建物にはその壁面を駆け走る、白コートの人物が写っていた。顏にはしわが刻まれていて、鋭い目つきで獲物――昨晩の騒動の元凶だろう――を睨んでいる。白コートの人物にはチェックマークが加えられており、注釈に『シラエア・クラースマン氏』とある。
なるほど、この老婆が〝マールウィンド最高の剣士〟ね。年齢の割には随分と若々しく見える。
ある野次馬はシラエア氏に向けて歓声や応援らしいジェスチャーを送っており、またある者は口元に片手を添え、写真のほぼ真正面に写っている男を励ますような仕草をしている。
逃げる男。彼は目を見開き、ついでに口も開いていて、まさに必死の形相で走っているところだった。シラエア氏の視線はこの男に注がれてる。きっとこいつが犯人だ。
くしゃくしゃの黒髪に青い瞳。背丈は平均よりも高いだろうか。鎖帷子を着込んでいる辺り、仕事を終えたばかりの冒険者――、
「……似てるな」 コルネリウスが言う。ビヨンの視線は写真に釘づけのままだ。
「『似てるな』、じゃないよ! 羊みたいにどうしようもないぼさぼさ髪なんてユーリくん以外に居るわけないでしょ! うちが見間違えるわけないし!」
「おい待てよ。どうどうどう。先に新聞を読もうぜ。まだあいつが犯人と決まったわけじゃない、この妖怪壁走り婆さんにビビってただ騒ぎから遠ざかろうとしているところを撮られた可能性だってある」
「そんなのダサすぎるよ。距離をとるだけならこんな顔すると思う?」
さあな、とコルネリウス。ビヨンはあきれた顔をして彼を見やり、続けて記事の文面に視線を落とす。
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『冒険者ギルド本部ビル三階におさまる武道場の破壊を皮切りにした一連の騒動は、本部ビルよりおよそ二キロメートルを離れたレッドストーン通りの路地裏に決着をみた。
不審人物を追走したのは〝東の剣聖〟シラエア・クラースマン。氏は『侵入者は容赦なく血祭りにあげた』とコメントをしており(※発言そのまま)、現場の検証においても多量の血痕が確認されている。
侵入者は医療施設に運ばれたのち、死亡ーー』
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「死んだ!?」
「そ、そそそ、そう書いてあるよ。でもユーリくんの名前は書いてないし、コールくんの言った通りにただ写真にたまたま写り込んでて、たまたま追われてるように写ってるだけだよね。だって、ユーリくんが犯罪を働くわけなんてないし」
「でも人は殺っちまう可能性はあるぜ、あいつ。たまたま危なっかしいからな」
「お酒を飲んだ勢いでそのまま殺っちゃったってこと? 無い無い。ユーリくんに限ってそれはないよ」
「弾みだろ。肩がぶつかったからとか、たまたま目に付いたからとか……」
「面白がんないでよ! 笑えないし!」
軽口を叩くコルネリウスだが、その手に握る銀食器はカタカタと震えていてあからさまに動揺をしている。ビヨンもコルネリウスも、幼なじみで実力も信頼しているユリウスがそう簡単に死ぬとは思ってはいないし、人違いだろうと心より願っているのだが、世の中には『万が一』というものがある。
はた迷惑きわまりない『万が一』は、そんなものはあるわけないと思っている時に限ってやってくるものであり、ユリウスがそんな不幸に見舞われたと考えられる材料は新聞の一面にすべてそろっている。
どこかでカラカラと鐘が鳴る音がした。女主人の「今行きますね~」という和やかな声が遠く聞こえる。
「確認しにいこう」 深呼吸をしながらにビヨンが言う。
「どこにだよ?」
「新聞社と、冒険者ギルドと、この通り沿いの商店。状況を聞いて、人違いだって確信したい」
「それがユリウスだったら……分かった、もう言わねえよ。睨まないでくれ」
動揺を隠すようにしてビヨンが席を立つ。落ち着いた顔を取り繕ったままに杖をつかみ、ラウンジから玄関へと続く廊下に足を踏み入れ、
「ああ、良かった。この宿で合ってたんだね。昨日は戻れなくってごめん」
黒髪の青年がそこに立っていた。
傷だらけの肌に泥まみれの衣服なんてすぐには目に入らなかった。
「生きてんじゃん!」 ビヨンが喜びに叫び、
「おいマジかよ、幽霊は勘弁してくれ」 一方でコルネリウスは驚きのピークを越え、床に突っ伏した。




