043 老練なる冴え
この一刀は決して受けてはならない。
わたしの経験と直感が叫ぶ。『受ければ死ぬぞ』、と。
心臓の音が冗談みたいに大きく聞こえる。自分の呼吸が浅く、早くなっているのがよく分かる。雑魚を相手にした時にはまず感じない、格上と対峙をした時に特有の緊張と焦燥が意識を焦がす。
剣客へ視線を向け、わたしは自身が持ちうる集中のすべてを注いだ。見逃すことは即ち死に繋がる。奴はそれほどの相手だと、経験の中に生きる父の教えが吼えているのだ。
軽やかに跳躍をした剣客の軌道は鋭角的だった。
白コートの裾をたなびかせた隙のない着地。互いの距離はおよそ十メートル。
わたしも、恐らくは相手も、剣による攻撃が及ばない距離だ。肉薄と表現する間合いからは随分遠い。
それだというのに。
剣客は腰を落とし、静かに構えをとった。
鞘に納めたままの剣に指を添え、左手にて鞘を掴み、右手で柄を握りしめる。
腰溜めの構え。速く、力強い利き足の踏み込み。
強烈な既視感が身の内に走る。驚きに焦りを覚えた。
わたしは……あの一連の構えを、動作の流れをよく見知っている。
「あれは……父さんの」
わたしは父の姿をそこに見た。
時に懇願し、時に父が自ら見せた、一子相伝の必殺の太刀<瞬影剣>。鞘に納めた剣を、裂帛の気合と研ぎ澄ませた集中の二者をもって抜き放つ、ひとたび放てば巨岩であろうと容易く引き裂く鋭い刃。
剣客の姿と、技を放たんとする父の姿が視界の中で重なった。
モーションは同じだ。だが、違う。何故ならば<瞬影剣>を放つには自らと対象との距離があまりにも開き過ぎている。
およそ自身の刃が届かないほどに距離が開いていた場合、距離を一気に詰めるために、わたしと父は特殊な歩法をもって大きく素早い一歩を踏むが、わたしを睨む剣客は前へとわずかも進まない。
「進まない……違う、あれは」
奴の踏み込みは前進ではない。あれは安定のためだ。自身がバランスを失さぬための楔の役割。それは今まさに放とうとする必殺の一刀の筋を歪ませず、鋭く正確な軌道をもって相手を両断せんがための踏鳴。
細い言葉がわたしの耳を打つ。おそらくは死の名前、刃の銘。
「――……尽ッッ!」
予感。
理解。
死。
三者が閃光となって頭の内側で閃いた刹那、なりふり構わずにわたしは真横へと弾けるように跳んだ。いや、倒れ伏したが正しいか。
直前までわたしの影があった地面を死の暴威が薙いだ。床材を抉り、穿ち、背を向けていた壁が轟音をあげて割り砕けた。
壁の破壊跡へ視線を向けると、耳に甘皮を際限なく引っ張ったような痛みが走り、籠手をはめたままの指先で恐る恐るに触れ、見てみると赤黒い液体が付着をしていた。確かめないでも分かる。……血だ。
「遠間からの斬撃……冗談だろ、人間技じゃない」
もう一瞬でも回避が遅れていればわたしの首と胴体は分かれていたに違いない。首を失うような怪我――怪我と表現するには大きすぎる傷だが――を負えば、人間種族の限界とされる第四階位の回復魔法でも回復、および蘇生は不可能であることをわたしは知っている。
この一分足らずのあいだに口の中がひどく乾いていた。
たった一度。一度の攻撃を受けただけだがしかし、この剣客には己の技は届かないと悟ってしまった。
練達した太刀の運び、鋼鉄製だろう外壁を一撃で破砕する怪物染みた剣圧。
喉元と背筋を怖気がせり上がり、胃が不快感に震える中でわたしは逃げの算段をすぐさまに巡らせた。やたらと鮮やかで眩い月明かりが憎々しい。
『背を向けるとはな。命を繋ぐは最も尊いと見るか。なるほど、お前らしい』
知らぬ誰かの知らぬ囁きが聞こえる。……負け犬の考えでも構わない。わたしはこんなところで命を終えたくはなかった。
「ばかたれ。避けてんじゃ防御の稽古にならんだろうが」
背後から声を掛けられるがわたしは振り向かず、答えようとも思わなかった。声の主は剣客であることは分かっている。絶対的な強者を前にして、会話による隙を作るつもりはない。
そもそも奴は出会い頭に「死ね」と声も高らかに口にしていたではないか。『フレデリック・フォンクラッド』と――、
またか、またこれなのか。
この剣客もまたわたしを父と見間違え、攻撃を仕掛けてきている。旅立ちの直前に父がわたしへと贈った、『刺客に気をつけろ』という言葉が脳裏にまざまざとよみがえる。当初は旅の無事を祈る言葉だと思っていたが、今ここにきてその気持ちは欠片ひとつも残っていない。もはや父の過去を恨むばかりだ。
「父さん、あなたはどれだけ……」
恨みを買っていたのだ。首都へ着いた途端にこの有様だ、帰ったら文句のひとつふたつを言い放ち、事情を根ほり葉ほりに聞きただす資格は十分すぎるぐらいに得ただろう。
「いつまでへたり込んでんだい。しゃんとしな」
衣擦れの音。意を決し、ようやく剣客へ視線を向けると、奴は顔を覆う白フードに指をかけるところだった。
片刃の剣は抜かれたままでいて、肩叩きの棒のようにして峰の部分で首元をとんとんと叩いている。気だるげに重心を傾けた姿勢。一瞬前に鬼気迫る剣圧を放った人物と同一とは思えない脱力具合。
大きく砕けた壁の穴からは満月の月明かりが射し込んでいて、小じんまりとした体躯をした剣客の顔が光に照らされる。
わたしは正体を目にして息を飲み、
「老人?」 眉をひそめ、呟いた。
「誰がババアだコラ。うちを辞めて外でブイブイ言わせてるうちに調子に乗ったか?」
茶と白の入り混じった頭髪。目尻は下がり、法令線と口元に見える溝は間違いなく老齢によるしわだろう。背丈はビヨンより一回り小さい――140センチほどか――が、背筋はシャンと張っており、ありふれた老人のように丸まった背中では決してない。
そして特筆すべきは身にまとう威圧。奉公人や農夫といった、所謂ホワイトカラーの職務で生を送ってきたとは思えない。彼女は剣と死の世界で生きてきたとしか、今のわたしには考えられなかった。
茶色の瞳は鋭い眼差しをもってわたしを睨んでおり、蛇を前にしたカエルの心持ちになってしまう。相手は変わらず脱力した姿勢のままだというのに、その姿にはわずかの隙も見いだせなかった。
怒気を含んだ声のままで老婆が革靴のかかとで武道場の床をどかり、と力強く蹴りつけた。身をすくませたわたしへ向け、吼える。
「立てっ! 次だ!」
「いやだからひとっ――」
――違いです!
そう言い返す前には老婆の手元より飛ぶ斬撃が既に放たれていて、回避以外の行動の選択肢は存在しない。
汗が珠となって額に浮かび、まばたきさえも許されない窮地の中であっても、わたしは目を見開き、老婆のひとつひとつの動作を読みとろうと努力をした。
剣を握る手元のブレは攻撃の前兆。十メートル以上の遠間に立つ彼女の立ち位置から繰り出されるのは、彼我の距離をものともしない、化け物じみた威力を誇る剣の圧!
老婆の振るう刃より放たれる斬撃の風はそのどれもが必殺の一撃を有している。回避に奔走するわたしの巻き添えを食らい、甲高い破壊音が響くに合わせて次第に原型を失っていく壁や床がその証明だ。
この老婆は強い。いや『強い』という言葉では表現できぬ高みの存在だ。
わたしが今まで目にした中で最も強い男である父フレデリックの剣よりも、この老婆は遥かに鋭く――そして、迅い。
「腑抜けたなあ!? 身で受けるか剣で返すかどっちか決めな!」
無茶を言う老婆は涼しい顔で攻撃を繰り出し続けている。対するわたしはまるで刃の結界に閉じこめられたかのようだ。
斬撃は空間をなめるようにして迸り、わたしは完全な回避は終止において一度も出来ず、父譲りの防具に身を包んでいなければ今頃は血みどろで倒れているだろうことは疑いない。
ピアノ線を指先で弾いたような甲高い音が連続をしている。冷たく、凛とした音は死の呼び声だ。頬に血筋が浮く中で目を凝らした。老婆は最初の位置を動いていない。定位置より圧倒的な火力を放ち続ける様は砲台のようではないか。
運が良いのかどうかはさておき、斬撃の直撃は未だに受けてはいないが、まともに貰えば行動不能に陥るのは確かだ。常識レベルの相手であらば、手元と目線から攻撃の軌道はある程度読みとれるが、この老婆の手元はまったく見えない。出会ったばかりの格上をこう断じるのは安易だろうが、わたしには達人の域にある技術に思えてならなかった。
足下に感じた殺気を跳躍で避けた。だがグリーヴはひび割れ、『次は耐えられない』と訴えを起こす。
胸から突っ伏すようにして床上に倒れ込んだ。だが止まってはいられず、無様に転がると、直前までこの身があった場所がぞぶり、とえぐり取られた。
「さっさと起きな! そら、そらそらそらあ! それでもあたしの門弟かあ、アァン!?」
老婆が年齢にあるまじき嬉々とした調子で笑い声混じりに吠える。
ふざけるな、と文句のひとつも今すぐに言ってやりたい。それと人違いであることも。
この場を借りてはっきりと言うが、この攻撃はたったの一撃でも剣で受けるわけにはいかない。
先にも言ったが壁を容易く割り砕くような威力なのだ。良くて一撃で剣身にひびが走り、間髪をおかない二撃目で砕け、あり余る攻撃の威力はわたしの首だか胸をあっさりと両断するだろう。
「ごみくず、みたい、にっ! 殺されるのは、ごめん、だっ!」
ほんの少し前へと踏み出す。わずかに前進しただけのつまさきを削らんとし、床が半月状に深々と削られる。
――今だ。
急速転換、わたしは背を向けて走り出した。とっさの弱腰を見逃されるわけもなく、直前までかかとがあった場所へと次々に斬撃が放たれる。一歩を進めば破砕音が背中に轟き、生半可な悪夢よりもずっと性質の悪いひどい恐怖が背後にはあった。
卑怯者。
背を見せるとは恥だと教えたろうが。
さっさと戻ってこい。
黙って殺されろ。
いくつもの言葉が矢継ぎ早に掛けられるが、殺されるとわかっていて立ち止まるような間抜けは存在しない。
ここが何階なのか、どれほどの高さなのかはまるで分からない。
砕けた壁の向こうには首都<ウィンドパリス>の夜景が広がっており、わたしは苦労の果てに思考を押し殺し、中空へと一思いに飛び出した。
………………
…………
……
「う、おおおああああああっ!」
夜風が死の恐怖に冷め切った肌を撫でる。真下に視線を向けた。
何本もの大通りの形にオレンジ色の光の筋が走るのが俯瞰で見え、夜の街並みは夕焼けの色に光る蜘蛛の巣のようであった。
眼下には往来の人々が多く見える。これは目算だが、どうやら二階建ての実家よりも倍は高いらしい。
しゃらり、と剣を抜き放ち、落着までの限られた時間の中でわたしは真横を流れる建物の外壁に剣を突き立てた。歯の浮く音が耳を犯し、無様に弾かれる。
「くそっ、硬い!」
切っ先がレンガとレンガのあいだに入り込むが、ねじ穴をドライバーがなめるようにして剣は外れてしまう。その度に火花が少しだけ夜に浮かんで消える。
地上部分、建物の一階に夜間営業をしている商店の店頭テントが見えた。落下の勢いは収まらず、停止も出来なかった。こうなれば運に任せるより他にないだろう、まともに地面に落ちれば骨折は免れず、身動きが出来ないうちに鬼神のごとくに恐ろしいあの老婆が追ってくるのは明白だ。
と――、
「待てコラアッ!」
頭上より叫びが降り落ちる。あまりにも恐ろしく、正体は分かっているのに上を見上げることが出来ない。
背中からテントにぶつかった。骨組みが軋み、突然の出来事に大勢の客の悲鳴がわたしに罪悪感をもたらすが構ってはいられない。
骨組みはゆがみ、ひしゃげ、あっけなく倒壊した。わたしは路上に転がり落ち、潰れた果実や倒壊した商品棚を尻目にして人通りの多い道を見据え、逃げ出した。
「顔は見られてないはずだ。逃げおおせれば問題ない……多分」
五秒ほどを走ると背後でひときわに大きな声が聞こえた。歓声と指笛が混じっていたようにも思うが、どうだろうか。
ちらりと肩越しに視線をやると、やはりというべきか、白コートの老婆が鬼の形相でわたしを追おうと走り出すところであった。
彼女を非難する声が盛大にあがる。
「ババア! あんた派手にやりすぎだ! 修理代置いてきやがれ!」
「黙りな、ジャリ! あたしゃ忙しい!」
老婆には落着の衝撃を殺す必要は無いらしい。彼女は地上を踏みつけるようにして思い切りの良い着地を果たし、身を粉砕せんと襲い来る衝撃をどういう理屈かは分からないが、それらまるごとを推進力へと見事に昇華させ、そして前方へ――わたしを追うべく、走り出したのだ。
超人的だ。人外的だ。どっちでもいい。超人的な老人が叫ぶ。
「フレッド、貴様! 敵に背中を見せるな! そこに直れ!」
「死ぬのはごめんだし人違いですってほんとにほんとにほんとに!」
焦るわたしには逃走の算段があった。老婆の飛ぶ斬撃は強力無比ではあるが、それと同時に人の往来で放てば関係のない民間人を巻き込む危険過ぎるものでもある。
マールウィンド連邦の最重要都市であるこの連邦首都には、その本部を置く連邦騎士らが常時において警戒と哨戒を維持しており、ひとたび騒動が起これば三十秒と経たずに現れ、不審者を、この場合はわたしと老婆を捕らえるだろう。
しかし……連邦騎士がこの怪物を取り押さえられることが出来れば、の話だな。
「ここは……通りか。くそっ、姑息な。正々堂々やらんか!」
「闇討ちを仕掛けてきたのはそっちだ。すみません、失礼します、ほんと、通ります、すみません」
入り込んだのは賑わいに湧く大通りだった。こうなればしめたものだ。体がぶつかった人間はわたしを睨みつけるような荒くれ者ばかりであったが、わたしの背後より迫る圧力を感じるとすぐさまに自ら身を引き、ここを通れと言うように道をあけていく。
そして、逃げるわたしの背を狙う剣撃はいくら歩を進めようとも一向に放たれない。やはり思った通りに老婆は剣を抜けないのだ。
追うことには慣れているが、一方的な逃走の経験はそう多くはない。逃げきれるかどうかの緊迫感と焦りに口の中は乾き切り、胸は早鐘を打っている。
懐かしいな、と狭まりつつある思考の片隅で苦笑した。
霧の森で出会ったミノタウロスに追われ、泥だらけになって走った幼い日を思い出す。無力な子供のころに比べれば随分と成長した自負はあったが、しかし自らを大きく上回る力量の相手に追われるのは身震いをする。
今のわたしは弱者の立場だ。現実には己に対して上に立つ存在が常に在り、摂理とも言うべき常識を決して無視してはならないという戒めが胸をしばる。
祭りさながらに混み入っている人の波に押され、老婆とわたしとの距離は少なからずに開いたらしい。あの身を強張らせる声は聞こえない。
このまま人混みに紛れ続け、適当な商店を走り抜けてしばらく息を潜めた後に冒険者ギルドへ戻り、コルネリウスらと合流をしよう。
そう算段をつけたところで通行人の何人かがわたしに声を掛けはじめた。人波をかき分けるようにして走るわたしに返事を返す余裕はなく、どれも流し聞きだ。
「坊主、生きろよ。それにしても運が無い」
「バケモノに目を付けられたな。なにしたんだ、お前?」
「シラエアの勝ちに賭けるぜ。こいつに見込みはねえよ」
不吉な物言いが走り続けるわたしの横から後ろへと流れていく。彼らの言葉が意味するところとは? 考えを巡らそうとしたところで、背後の人々がわっと沸いた。
声にひかれてほんの少しだけ背後を振り返る。ひっ、と情けのない悲鳴をわたしは必死に飲み込んだ。それというのも、白コートを羽織った老婆が剣を抜き放ち、通りに連なる建物の壁面を蹴って移動をしているのだ。常識を覆す現実を目の当たりにして驚かない人間はそう多くないだろう。
「しゃらくさいことをしやがって! そこで待ってなぁっ!」
驚くべき光景だ。わたしが重力にひかれながらに地上を懸命に蹴り走る一方で、眼光鋭き老婆は店の看板や建物の窓や壁を『出来て当然』といった調子で駆けているではないか。
何もかもがわたしの常識を上回っている。彼女の行動も、その移動の速度も。
人混みという物理的な制限から解き放たれた彼女は、ツバメのごとき速度をもってあっという間にわたしに追いつき、悲鳴をあげるわたしの腕をしわがれた手でつかむと真横の路地へと連れ込み、放り投げた。
「っだ、いっ、……くそ、なんなんですか、あなた……」
もんどりを打って路上を転がる。明かりはなく、通りより漏れ入る光だけが頼りの薄暗い路地だ。左右は背の高い建物に囲まれ、背後は区画を仕切る壁。
「……退路はない。でも、詰んではないはずだ」 希望を捨てずにわたしは言う。
「いいや、詰みだね」
老婆がまたも剣で首根っこを叩きながらに言う。通りの明かりを背負った彼女の姿はわたしの目には逆光で暗く見え、死の通告を突きつける死神を想像した。
「あたしを知らない、なんざ笑えもしないジョークだ。記憶でもいじられたのか? まあいい。マンツーマンであの世の川でも見せりゃちっとはスッキリするだろうよ」
しゅらり、と剣を鞘に納めると老婆が片手をあげ、指先をちょいちょいと揺らせてわたしを誘う。完全な素手の体勢による明確な挑発。
コルネリウスならばプライドを傷つけられたと憤激し、すぐさまに飛びかかるだろうが、わたしは――、
「やらなきゃならん時に剣を抜かないのは腰抜けでも腑抜けでもない。ただのグズだよ」
無言で剣を抜き、老婆を見据えた。わたしは……わたし自身を通し、経験と技術の中で生きる父を愚弄されたように思え、それがどうにも我慢がならなかった。
自分でも不思議だがこの瞬間の怒りの猛りは瞬間でピークを越えた。身体能力を高める魔力は瞬時に身体を巡り、必殺の太刀を繰りださんと一歩を踏み、大地を蹴った。
「――瞬影……ッ!」
速度を乗せた抜剣術を振り切ろうとしたその瞬間、老婆の手刀が柄を握るわたしの手を強かに打ち据え、刹那の後に激痛が雷となって身を走った。
「っあ……! いっ、ま、だいける!」
痛みを噛み潰し、取り落としそうな剣を握りしめ、下段からの切り上げ。
弾かれる。
胸と腹部を狙う二段の刺突。
逸らされる。
足下を狙った横振りを見せかけたフェイント。
反応もされない。
袈裟、逆袈裟。技も何もない無様な振り回し。
すべての攻撃は的確につぶされ、殴られた身体に痛みが蓄積していく。
為す術もない現実を前にして、わたしは根拠も形もない何かに必死に願った。どこでもいい、一撃、一撃でいいから――、
「ガキのままごとかい? あんたに時間を割いたのは無駄だったね」
「死――」
老婆の手元がぶれる。気配からして恐らくはわたしの首筋を打つ軌道。老婆の手刀でわたしの剣には幾筋ものヒビが刻まれている。それだけの威力を首にまともに受ければ頸椎が軋み、最悪の場合は折れる。再起不能は間違いない。死だってあり得る。
反射的に両目の奥に、わたしが宿した〝紋章〟に己の魔力を注いだ。
詠唱を口走る刹那の隙も無い。発動に必要な魔力が十分に巡るかも分からない。
意識に何者かが浮上する兆しを感じた。
だめだ、間に合わない。
わたしの肉体は意識よりも正直に、的確に行動をした。それは意識に宿る何者かの技だったのかもしれない。
致命的な一撃となる手刀を阻止すべく、わたしは下段から切り上げた。今までよりも遙かに鋭く、速い、圧を伴った剣の筋。
――間に合わない。
ざんっ、と分厚い肉を一息に断つイヤな音。
続けて氷を押しつけられたような一瞬の冷たさ、灼熱の舌が肉を舐めたと思うような不快感、そして痛覚に食い込む茨の痛み。
「あっ? あっ、ぐ、おお……ああああぁぁあああぁ!?」
見慣れた短い塊が宙を舞い、断面からはあまり見ていたくない液体が流れていて、千切れた鎖帷子の破片が光を跳ね返して雪のようにも見えた。
痛い。痛くて、ひどく熱い。
路上に落ちたのはわたしの右腕で、しっかり見る前からその正体には気付いていて、負け犬を見るような冷たい視線を落とされながらもわたしは必死に路上に落ちた肉をひっつかみ、熱くて仕方がない自分の右腕と、どくどくと大事な赤が漏れ出す手首を押しつけてぶつぶつと呟き続けた。
「くっつけ、くっつけ、くっつけ、くっつけ」
ほんの少しだけ意識に浮上した誰かはもう居ない。きらいな老婆のつまさきが世界の端っこに見えている。
回復魔法の詠唱を口にする余裕はない。ただ「くっつけ」と懇願だけをつぶやいて、回復の輝きと同じ質の魔力を練り、切断面に注ぎ続ける。
――足りない。
魔法の成立に必要な集中が、肉と肉をつなぐ血が、窮地から逃げおおせる自信が決定的に足りない。
血が流れ過ぎた。手首は脈どころか腕そのものを両断され、遭遇から今この場面にいたるまでのあいだに無数の傷を負わされ、血と汗の混じる汚濁にも似た液体が肌の上を滑っていく。
視界が外周から内周へと徐々にぼやけていく。途切れ途切れだった集中の乱れが連続したものに変わる。
意識の途絶の前兆に思えた。
「くっつけ……くっつけ……っ」
「女ひとりを切れない手なんざくっつけて意味があるもんかよ」
枯れ草を編みあげたサンダルが街路を踏む。かさり、と乾いた音をたてる度にわたしの痛みは薄まるが、一矢を報いたいという熱が心をあぶる。
注視をせねばならない老婆の像までもが霞む。彼女の背後でうごめく影と賑わう声は野次馬のものだろうか。
「シラエア。ちとやりすぎじゃろうて」
第三者の足がおぼろげな視界に現れていた。声はしわがれていて、太い。おそらくは中年から老齢の男のものだ。
「あたしの弟子をどうしようとあたしの勝手だろうよ」
「弟子ならば、な。この男はフレデリックの息子だ」
「はあ? ジジイの冗談にはセンスが無いね。面白くない」
「ならば聞くが。あの男は今や三十八になるが、お前の目には彼が中年の男に見えるか?」
サンダルを履いた老婆がわたしの目の前で座り込み、あごを掴むと無理矢理に顏を上向ける。老人とは思えない力の強さは万力のようだ。
茶色の瞳がわたしを見つめる。疑い、思案、驚き。
彼女は視界に入らない男を勢いよく見上げ、
「なんてこった。誰だい、こいつは」 と声を張った。
「勝手に私の警護を離れ、街で騒動を起こし、殺人未遂。とうとう耄碌をしたな、シラエア。お前の技は鋭いが、痴呆老人が持つには危うすぎやしないか?」
「何だと……」
老婆の声に怒気が混じる。しかし男は発言を止めない。
「お前が財布から貨幣を取り出そうと間違い、見知らぬ他人を居合で切り捨てないとも限らない。私の任から離れて野山の奥にでも暮らしてほしいものだな。私でも手に余るのならばこのマールウィンドにお前の居場所はない。……ああ! 猿山で暮らすのはどうだ? お前の組手の相手にはちと力不足だが、話し相手にはなるだろう」
「フラメル……死にたいんなら素直にそう言いな」
銀色の光が閃き、男が笑う。
苛立った老婆が矢継ぎ早に斬撃を繰り出し、壁が割れ、抉られていく様子にはやっぱり現実感がまるでなかった。
まぶたが重い。
「ヌゥハハ! ぬるい! 二つ名を返上しても良いのではないかあ!?」
「ぬかせ! 今すぐボロ雑巾にしてやるよ!」
身を両断する威力の斬撃を受けているはずの男はまるで動じず、むしろ老婆を拳で殴りつけているように見え、わたしは薄れゆく意識の中で「これは酒宴の席で悪酔いをした自分が見ている悪夢なのだろう」と解釈をした。
これが夢ならば、目を醒ませば現実に居るのが道理である。
そう思うと街路の冷たさは心地良く、失血から感じる虚脱の感覚は眠りへ誘う呼び掛けのように思えてならない。
次に目を開いた時にはコルネリウスらが居る酒場か、それとも酔いつぶれたわたしを背負って運んでくれた宿屋に居るのか。
どうしようもない眠気をわたしは受け入れ、二人の老人の声を耳で聞きながらに意識を取り落した。




