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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
一章『灰のルヴェリア』
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004 父の手


 わたしを救った黒髪の男はフレデリックという人物であると名乗り、ついでわたしの肉体の名前……ユリウス少年の父であると、そう、簡単な自己紹介をした。


 フレデリックに手を引かれ、粘着質な泥を踏みつけながら前へと進む。彼はこの森をよく知っているようだ。足取りに迷いはなく、わたしが散々に迷ったこの森の出口を把握しているらしい。

 彼は歩きながらに何度もこちらを振り返る。当惑を押し殺した顔でフレデリックは微笑みを向け、わたしの名が『ユリウス』であるのだと優しげな口調でゆっくりと教えてくれた。

 それはまるで幼子に根気強く言い聞かせるような穏やかな声だった。それでもいくら表情を抑えようとも、その内面のすべてを隠しきることは出来ない。記憶を失った我が子を悲しむ心情がフレデリックの顏に現れていて、それはわたしの心を締め付けた。


 辺りの霧は薄くなっているようだ。時間的なものか、何かの切っ掛けがあったのか。

 再び怪物が現われるのではないかとわたしは内心で怯え、周囲をきょろきょろと眺め見ていた。一方のフレデリックはまるで警戒をしていない。いや、もしかすれば彼はあからさまな警戒を必要としないほどに冒険に熟達した男であるのかもしれない。

 フレデリックが配げなこちらへ顔を向け、

 

「ユリウス、お前は……。

 霧に気に入られてしまったのかも知れないな。

 ……大丈夫、記憶はすぐに戻るよ。父さんがどうにかするからな」

 

 父性に満ちた声音でフレデリックが言う。

 彼は薄暗い森を歩きながら、わたしが霧に何かをされ、記憶と言葉を一時的に失ったのだという答えに到ったようだ。フレデリックの主張を聞いたわたしは彼へ向けてうなずきを返した。言葉での返答は彼の心の傷を抉ることに繋がる。彼に頭をくしゃくしゃに撫でまわされながらも、わたしは内心ではまるで納得をしていなかった。

 霧は直接の原因ではないという強い確信があった。今もわたしたちを取り囲む陰鬱な霧は間接的な……なにかを結ぶ……。駄目だ……。

 記憶を掘り進もうと意識をすると、こめかみを刺すような鋭い頭痛がした。まるで予想をしていなかったものだから思わずに呻く。

 

「大丈夫か?」


 わたしの顏を覗きこみながらに言うフレデリックに対し、こくりと一度うなずく。彼は了解のサインだと受け取ったようで顏を上げ、再び歩きはじめた。しかし、言葉が伝わらないというのは極めて不便だ。生きる上で言語は必須であるのは自明であり、いち早い言語の習得をするにはどう行動をすべきか。考えに耽りながら、わたしは黙々と森を歩いた。



 これは推測に過ぎないが、どうやらフレデリックというこの男は長年にわたって剣を握り、振るい続けてきた人物であるようだ。彼の手の平に出来ているいくつもの硬いタコに触れた感触からわたしはそう感じた。

 

 どこか懐かしくも思えるフレデリックの手を頼りにして寒々しい森の中を歩んだ。

 時間にして十分あまりだろうか? 体感で計る限りにその程度の時間を進んだところでようやく森を抜けることが出来た。この程度の距離ならわたしでも楽に踏破を出来たはずだが……どうしてわたしは森から出れなかったのだろう。


 必死に逃げ走った時とフレデリックと共に歩いた時との歩数に大した差はなかったはずだ。根本的な問題、まるで見当違いの方角へと進んでいただけかも知れないが、どうしてか腑に落ちない。

 

 ほら、とフレデリックがわたしの肩を叩く。言葉で応じる代わりに顏をあげ、辺りを眺め見た。

 ここもか、と無意識に顔をしかめる。気の滅入る陰鬱な霧は森を抜けた先にもやはりというべきか広がっていた。

 だが目の前の霧は、森に満ちていたものと比較すればまるで問題にならないほどに薄い。強風が吹きこめばすぐさまに消え去りそうなほどだ。

 フレデリックは霧を見据え、

 

「森の霧はばかに濃かった。こんな濃霧は……滅多にあることじゃない。何か悪いことの前触れじゃないといいんだけどね」


 独り言ではないことには気づいていた。

 彼は息子……わたしに語りかけているのだ。言葉を失おうとも血を分けた息子にはかわりはない。彼は常日頃からそうであるように向けて言葉を発した。

 わたしは気遣いから口をつぐんでいた。しかし、だからと言ってまるで無反応というわけにもいかない。

 目的地までの道程も所要時間も分からないが、この場にはわたしと彼の二人しか居ないのだ。わたしにとって沈黙は気まずいものだった。


 わたしはやや考えて、どうあっても伝わらない言葉の代わりに彼の硬い手をぎゅっと握り返すことにした。

 どうやらこの返答の仕方は正解だったらしい。フレデリックは随分と嬉しかったようで、その暗い顏を一転させ、子供のような笑顔を返し、

 

「ほら、見えたよ。俺たちの家がある村だ」


 フレデリックが手を引くとわたしの体がわずかに浮き、彼の真横に立たされる。風が吹き、霧がほんの少し吹き散ると視界が開けた。

 小高い丘にわたしは立っていた。眼前に木々は無く、視界を阻む霧は随分と薄い。それは灰色がほとんどの世界ではあったがわたしは強い感動を感じていた。まるで赤子が世界を初めて知ったような尊い美しさが空虚な胸に満ちる。

 

 わたしはずっと、ずっとこれが見たかったのかも知れない。

 遠い誰かが祈り、願いを抱いて戦った道は続いていたのだと。そんな喜ばしさが胸に湧いた。


 視界を回す。

 舗装のされていない土色の街道。

 なだらかな山の裾に際限なく広がる豊かな森。

 やや遠い場所にはオレンジ色の光の大きな群れが見えた。人の生活の気配がする。

 それから平野のど真ん中には小さな村がぽつりとあった。遠くに見える光の集合体には遠く及ばないが、こちらにもいくつかの明かりが灯っている。


 おそらくは家々の窓からだろう。窓辺より漏れている明かりは大きく、それ以外にも小さな光がぽつぽつと見え、それらは村を取り巻くように広がっていた。

 わたしは遠景までを眺めながら様々な想像と想いを巡らせた。胸にある喜びをどう言葉にすればいいのか分からない。

 

 ふと、横に立つフレデリックを見上げると彼は微笑みを浮かべた顏でわたしを見下ろしていた。彼はその場に屈み、わたしと同じ視線の高さをとり、視界の中の小さな集落を指で示す。

 

「家はあそこだよ」


 霧の中にぽつりと浮かぶ孤島。

 それがわたしの生まれ育った村。

 リムルという名の、小さく、静かな、大切な村だ。

 

 

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