034 薄明りの五年
アーデルロール王女と出会った十歳の夏から五年の歳月が経った。
コルネリウスやビヨン、妹のミリア、それにわたし。
それぞれの心身は成長期と重なり、劇的な変化を迎え、もう無邪気なままの子供ではないのだという自覚がわたしたちの胸の内には確かにあった。
時が過ぎれば、取り巻く環境も大きく変わり、わたしたちは〝五神教〟の教会が運営する教会学校の卒業を間近に控えていた。
「ユリウスくん、そろそろお別れが近いですね。あなたは進路を定めていませんでしたが、この後はどうするのですか? お父様の口利きで連邦の騎士の道に入るので? もしあなたさえ良ければ〝五神教〟の門戸に入るという道も……」
白い教会衣をまとった若い女教師が言う。初対面のころには教員になりたての、いかにも初々しい顔をしていた彼女だが、五年も教師を続けていれば慣れるものらしく、今ではすっかり垢抜け、場慣れをした様子だった。
わたしは質問に対して、「まだ考えていません」と短い返事をしたが、実のところ、腹の中では進む道はとっくに決まっていたのだ。実に不義理で薄情な教え子であると自分でも思う。
コルネリウス・ヴィッケバイン。
ビヨン・オルトー。
そしてわたし、ユリウス・フォンクラッド。
わたしたち三人は未知の世界を歩き、誰もが知らぬ神秘を目にし、星の輝きにも劣らぬ宝を手にする〝冒険者〟になる未来を夢に描いていたのだ。
………………
…………
……
「学校を出たら冒険者になろうと思う。メンバーは僕とコール、ビヨンの三人」
ある晩の食事の席でわたしは父と母に向け、単刀直入にそう切り出した。前触れも脈絡もない、何てことのない会話の隙間を突くようにしてわたしは胸中を吐き出した。
「そうか」
短く答えたのは、息子とそっくりの外観を持つ父だった。言葉は続かず、肉を切り分ける食器の音が何度か響いた。わたしは何も口にせず、父は口へ運ぶだけの食事を見つめている。
「まったくもう。しょうがないわね、どっちが子供よ」
沈黙を払うようにして母が笑った。
「やっぱり血なのねえ。ま、そりゃそうか。私と父さんの息子だものね、いつかは家を出るって言いだすと思っていたわ」
エプロンをつけたままの母が肩を軽くすくめ、やれやれと微笑んだ。
一方でミリアはひどくごねた。妹は衝撃から立ち直るや否や、
「何それ! 前から決めてたの!?」
「三人で前から話してたんだよ。僕たちは村の外の世界を知りたいんだ」
「あたしはどうするのよ!?」
「あたしはって……ミリアはまだ学校があるだろ? それに今生の別れってわけじゃないから心配しないでよ。僕たちはずっと旅に出るわけじゃないから。そうだな、一年も経ったら戻ってくるよ。そう、多分十六歳の誕生日までに。土産話をたくさん持って帰ってくるからさ。ね?」
「……信じらんない。兄さんのバカ! バカ兄!」
「同じ意味だよ」
「もう知んない!」
妹は平手で勢いよく机をたたき、憤然とした足取りのままに食器を流しへ運び、「ごちそうさま!」と一応は挨拶を口にすると、相変わらず居候を続けているイルミナが住処と定めたサンルームへと引っ込んでしまった。
「ユリウス、座ってちょっと待ってな」
続けて父が席を立ち、二階へ続く階段へと姿を消した。頭上で響く足音がどの部屋を目指しているか、ぼんやりとだが予想がつく。
夕食の席にはわたしと母だけが残され、ここで初めてわたしは居心地の悪さを身に感じた。
『家を出る』
その一言は前々から考えていた言葉だ。それを口にすることが目的でありゴールであると心の中で決めてかかっていた。そして発言を達成した今、わたしは両親と妹の反応にきわめて敏感になっていた。
息子の旅立ちを家族がどう受け取るか。まず妹の反応が芳しいものではなかったのは明らかだ。
母の穏やかな顔を見たままで、わたしは言葉を細く吐いた。自信のない声色だったと思う。
「……母さん、急な話でごめん。卒業までもう一月も無いのに」
「いいのよいいのよ。自立はむしろ誇らしいもんだからね。ま、ミリアに言わなかったのは失敗だったわね」
「どうして?」
「あの子、あんたが好きなのよ。アルルちゃんが来てからは剣術にズブズブのめり込んでまるで構ってやってなかったみたいだけど、それでも私と二人きりの時には『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って言ってたわよ。ほっぽってたのによくもまあ懐いたもんね。母娘ってことで黒髪の寝癖頭には無条件に弱いのかしら」
「本当に? ……知らなかったな」
あ、だめだめだめ。母が手をつきだしてわたしの言葉を先制して止める。
「やっぱりミリアを連れていくってのはダメよ。学校は出さないと色々損なんだから。あんたが一年間の旅に出て、帰ってきた時に初めてあの子を連れて行くか決めなさい」
「僕もミリアも居なくなったらこの家は随分寂しくなるよ。イルミナだっていつ居なくなるか分からないのに、それに跡継ぎや働き手だって……」
「そんな心配は必要ないない。惚れた男と一緒なのよ? 飽きたり寂しがることなんて一生無いってもんよ。金の心配も無いからあんたは心配すんな! 息子よ、伸び伸びと好きにやるが良いぞ~!」
会心の笑みでそう口にする母に合わせて笑うと、ちょうど良く父が二階から降りてくるところだった。腕に大きな木箱を抱き抱えていて、ダイニングテーブルの上に置かれた箱の中身をあらためると防具の一式が収まっていた。
新品はひとつもない。
無数の傷のついた籠手、焼け焦げた鎖帷子、歪んだすね当て。
「これは父さんがお前とそう変わらない頃に身につけていた装備だ。あー……」
ちらりと父が妻の顔をうかがう。母はうなずくだけ。
「〝悪竜殺し〟なんて名前を貰う時の……<ミストフォール>の冒険で使った装備だ。もっとも、酸やら炎やら電撃やらと散々な目に遭って今じゃぼろぼろだが、こいつらは頑丈だぞ。必ずお前の身を守る」
試しに籠手を右手にはめた。不思議な一体感が腕を包み、若い頃の父と自分が重なるような錯覚を覚える。
「あらやだ……」
「母さん?」
「こうして見ると十八の頃のフレッドそっくりね。鏡みたい。ねえ、あなた?」
「俺は自分の格好をそんなに覚えてないよ。鏡なんて無かったろ?」
「そりゃそうだけど。いやあ、似てる似てると思っていたけど、生き写しじゃないの。なんか怖くなってきたわね」
「怖いって、息子へ向けた誉め言葉としてはどうなの?」
毎朝毎晩の鏡で見る、わたしとそっくりの瞳の色をした父が名を呼ぶ。
「ユリウス」
「……うん」
「旅はつらく、険しい。嫌な思いも随分とするだろう。そういうしんどい時には周りを見ろ。お前はひとりじゃないってことを思い出せ。仲間と話し、仲間の手を取れ。周りにバカだの愚かだのといくら笑われたっていいんだ。とにかく自分の信じた道を信じることだ。忘れるな、息子よ。……『人生に色を』。上手くやれよ」
………………
…………
……
ある明け方、わたしたちは故郷の小村を望む丘の上に立ち、親許を離れた。
「いよいよだね。二人とも、忘れ物はない?」
「寝る前と起きた時に二回も確認したからな、万全だぜ。干し肉にダンベルに水筒、寝袋……おう、大丈夫だ。で、そういうお前はどうなんだよ、ビヨン?」
「うちもバッチリ。イルミナ師匠から貰った本と杖に道具の詰まったバッグ。お金もあるよ。……ちょっと待ってよ、ダンベル!? うちとユーリくんより二つも年上なのに、どうしてそんなにバカなの!?」
わたしは東の山脈の稜線を赤く染める朝日をにらみ、首に掛けた緋色のネックレスに触れ、一日たりとも忘れたことのない誓いを思い出す。
再会の日まで決して死なず、弱きを助け、魔と霧を払うために剣を振るう。
「じゃあ二人とも」
「おう」
「うん」
「――そろそろ、行こうか」
春の日の旅立ち。十五歳の朝のことだった。