033 飛翔する世界
まるで祭りの渦中の騒々しさだ。
酒場は足の踏み場も無いほどの人出にごった返し、ホール担当の店員は黄金色の酒が注がれたジョッキを戦士の勝鬨さながらに上へと掲げ、品を知らない騒々しい客の隙間を縫うようにして前へ前へと器用に足を運んでいく。
ドーム型の天井には煙草の煙で変色した巨大な世界地図が張りつけられている。
壁面には荒々しい字で品名を書かれた木札がずらりと並び、キッチンカウンターの上には大きなアゴを開いた竜の頭骨が鎮座していて、恐ろしい火焔の息を吐かぬ代わりに火の灯ったカンテラが収まっていた。
酒場は決して広くはなく、よくもまあこれだけの人数が入れたものだと感心する。
だがこの時代、とある職業で身を立てる人間にとっては、この程度の騒ぎなどさほど珍しいことではない。
〝冒険者〟
彼らの集う酒場では祭りの賑わいは当たり前の光景であり、それが自然のことだった。冒険者は金の匂いにきわめて敏感であり、ウマい話の集まる酒場へは火に集う蛾のように足を運ぶものなのだ。
数十年前、さる冒険者は酒場を指して『種族の見本市』であると嘯いた。
言葉の通り、ここは世界をひとところに集めたような活気だが、実際の世界は想像の翼さえもが到底及ばないほどに広いことは、ここに居る客の誰もが知っている。
ここはマールウィンド連邦に星の数ほどもある酒場のひとつ。
名は<火竜の恩讐>。
とあるテーブルでは剣や槍を背負った二足歩行のウサギの亜人<ラビール族>が顔を寄せ、ひそひそと何事かの相談話をしている。
こめかみや額から大きな角を生やした男たち。
彼らは樫の棍棒のように太くたくましい腕を互いに組み、故郷の大砂漠に伝わる炎の歌を声も高らかに歌い、琥珀色の酒が注がれた樽のジョッキを次々に空にしていく。男たちは<ヴァーリン族>、砂に生まれ、砂に死ぬ、屈強なる砂漠の民。
また別のテーブルでは、背丈の低いドワーフたちが豊かにたくわえた髭に埋もれた口で葉巻の先を咥え、『これ以上の快楽はこの世にゃ無いよ』と、それほどに気持ちがよさそうな恍惚の顏で紫煙を吐きだしていた。
右手では強面の冒険者の荒れだった怒声が響き、左手では瀟洒な佇まいの麗人が冷ややかに笑う。
流しの吟遊詩人の歌声が酒場の喧騒に溶け、消える。
………………
…………
……
「っぶぁっはぁ~~~っ! だあっ、肉に! ビール! この組み合わせは最高過ぎる! なあ、おい、美人のあんた! よお、これと同じのをもう一杯持ってきてくれ!」
酒場の隅のどうにも暗ったい丸テーブルに若い男の姿がある。愛用の槍は壁に立てかけられていて、彼が槍の代わりに今現在手にしているのは、黄金色の液体が注がれた樽ジョッキ。中身は言うまでもなく酒である。
次の瞬間に訪れる快楽を想像した男は黄色い目をキラキラと輝かせ、期待に喉をごくりと鳴らす。口をつけ、ぐいっと一息に煽った。
ごくごくと喉を鳴らして瞬く間に飲み干した若い男は痛快な声でまたもや呻き、「こんなにウマい飲み物があるなんて知らなかった!」と感嘆の声を惜しげもなく漏らすのであった。
男の金色の髪は短く、つんつんと尖った髪形はさながらハリネズミのようだ。幼いころから汗を流し続けた顏には無駄な肉付きは無く、精悍そのもの。また、その整った顏は一定の女性にとって魅力的に映るらしい。
早くも次の酒の注文を口にする快男児を見つめる女の姿が、周囲の席にいくつか見えた。誰もかれもがとろんとした惚けた顏で視線を送っている。
いや、見つめる女の中でもたったひとり例外があった。
それは心を奪われた桃色の瞳ではなく、彼女の視線は怒りの燃ゆる炎の気迫。
じっとりとした目つきの彼女は明確にイラついている。
「ちょっと! コールくん!」 女がテーブルを平手でぶっ叩き、叫ぶ。
「うちが計算してる時におかわりを注文しないでって前も言ったよね!? 目を離した隙に次から次にじゃんじゃんじゃんじゃんじゃんじゃんと、ほんっとにもう……!」
「今日のお前はすげえ口が回るな。『じゃん』って何回言ったんだ?」
「ええと、一、二……六回。もう! バカやらせないでよ! あのね、大事な話をするよ、バカネリウス。いい? うちらは決してお金持ちじゃないの。むしろ家計は火の車なの。依頼を一度成功させる度にやる打ち上げでいくら使ってると思ってるの? お金は無限じゃないんだよ。湯水のように使うのだけはお願いだからやめてよね」
ああ、またこれかよ。若い男が気だるげに天井へ視線を送り、溜息を吐いた。
「また稼げばいいだけだろ? ケチなこと言うなよ」
視線を逸らされた女の中で不穏なスイッチが確かに入り、おもむろに机へ身を乗り出し、細指で男のあごを引っ掴むと無理矢理に顏を正対させた。
温情などこれっぽっちもない、冷たい目線が男を見据える。瞳に光が無い。
「半月前にお金が底をついたときのこと、もう忘れたのかな」
「あ~……なんだっけ。道ばたの雑草を煮込んで食った時のことか?」
「違う! それはひと月前!」
叫びと共に男の頬を全力で押さえ、精悍な男の顏が痛みと物理に歪む。
「寒い夜にお腹を空かせてひもじい思いをして! あったかそうな酒場の様子を窓の外からじ~っと羨ましげに見るのだけは、うちはもう絶対に金輪際二度とご免なの!」
「分かった、分かったから離せよ。ああ、くそ。相棒、早く戻ってきてくれ……そして新しい酒を……」
「今なんて言った!?」
「いえ、何も……」
凄まじい剣幕でまくし立てる女もまた年若い。藍色に染めた裾長のローブにくるぶしまでを覆い、真っ白のケープを肩に羽織っている。そばの壁に設置されたコートフックに引っ掛けている、つばの広い深緑の帽子もまた彼女の物であり、彼女は駆け出しの魔法使いであった。
もう勘弁してくれといった顔色の男とガミガミとがなり立てる若い女。髪の色は二人とも揃って金色だが、二人は同郷の出ではあれど、兄妹ではない。
◆
「すみません、失礼します。ちょっと通ります。あの……すみません……。どうすれば席に戻れるんだ、これ。さっぱり分からないな」
多種多様な人々が酒と歌に湧く、らんちき騒ぎの酒場の中で黒髪の青年が困った顔をしている。
純人間や亜人の客がひしめき合い、空前絶後の混雑具合を見せる酒場のホールには人間が通れるような隙間はわずかしかなく、その隙間でさえも細身の人間でなくてはどうにも通行できそうにない。
しかしそれらは客側に限った問題らしく、ホール担当の従業員はどうやら話が別だ。彼らにとってこの酒場は勝手知ったる庭であり、どれだけ混雑をしようと自身は通り抜けられることを知っているのだ。それが証拠に店員連中はこれ見よがしにスイスイと通行していく。
店員の挑発染みた視線を受けて、黒髪の男が覚悟を決めた。
自身が押しが弱い性格であると知っている彼は、今こそ目的のためにグイグイと進む場面であると自分を鼓舞し、ひしめく人体で形成されている人垣、いや、肉壁へ向けて敢然と一歩を踏み出す。
進んでみればなんてことはない。やたらに汗臭いシャツや香水をつけすぎた甘ったるい匂いはひどいものだったが、一過性のものだと自分に言い聞かせれば耐えられた。
自分は一体どのテーブルから来たのか。仲間が座っているであろう席はどこなのか。方角は合っているはずだ。
どうにかこうにかと暑苦しい人垣の中を必死に前へと進んでいると、丁度よく乾杯の音頭で沸いた酔客の背中が男の肩に強くぶつかった。
「いつっ……すみません、怪我は……おや」
振り返った男はひどく赤らんだ顏だった。いったい何杯を飲み干したのだろうか、吐く息は思わず顔をしかめるほどに酒臭い。まったく悪びれていない調子で酔客が言う。
「すまねえなあ、さっぱり見えなかったぜ! ほら、一口やるから許してくれや!」
先を急ぐ黒髪の男の胸に、半分ほどの酒が残るジョッキを押し付けた。手渡した男は喜色満面の顏。周囲の客は期待の目線で黒髪をじっと見つめている。
降参だった。
面倒極まりない話ではあったが、黒髪の男はこれは飲まねば進めないだろうと判断を即座に下し、ジョッキの取っ手を握り締めると口元に近付けた。
すんすんと鼻で嗅ぐ。匂いが強い。まるで火薬のようだ。これはどう考えても生半可な酒ではない。
……意を決する。
「では、失礼して。……っ……っ……ごっ、ぶぇ……! ……っはあ。ごちそうさまでした。ひっく。どうも」
思った通りに相当に度がキツい酒だった。
喉を鳴らし、威勢も良く空にしてみせたが、ひりつく熱さが喉に張りついている。
黒髪の男にとっては大した酒量ではなく、まだまだ許容できるものではあったが、観客の酔っ払いたちにしてみると年若い男が飲み干したことが大いに意外だったようだ。酒の名前は<炎の柱>。生半可な酒では満足がいかなくなった者だけが挑む、あまりにもキツい酒。
礼を口にすると同時にジョッキを突き返した途端、汗臭い男たちが驚きに湧いた。
「若えのにやるなあ! いい飲みっぷりじゃねえか!」
「あんたぁ、名はなんつうんだ? 是非とも聞きてえな、お?」
ドワーフの酔っ払いが紫煙を吐きながらに訊く。
黒髪がため息を吐く。
自身が通ろうとしていた人垣のわずかな隙間へと視線をやれば、<ラビール族>の従業員が列をなしてぞろぞろと歩いている。どうやら大所帯の客が帰ったらしく、洗い場へと向かう行列は途切れそうにない。
再び観念をした。
くしゃくしゃの黒髪をした男が依頼書の束を手の中でくしゃりと丸め、男たちに向き直り、父にそっくりだと言われた青く澄んだ瞳をきらめかせて名乗りを口にする。
「……ユリウス。僕の名前はユリウス・フォンクラッドです。皆さんが酔いから醒めてまだ覚えていたら、どうぞよろしく」




