閑話001 手記1
二章と三章のあいだに入るお話です。読まなくてもきっと問題ないです。
私にはひとつ違いの兄が居る。
もし、互いの年齢がいくつも離れていたならば自意識の違いもあり、私は目上を慕う妹らしく、兄は妹の世話を甲斐甲斐しく焼く兄のように振る舞ったのだろうが、四つや五つのころは互いに子犬がじゃれつくような、非常に子供らしい関係だった。
深く考えることなど何もない毎日。
母の食事の匂いに目を覚まし、父の読み聞かせが終わると眠る。いつ触れても温かい兄の手が、眠い目をこする私の手を引いて寝室まで連れて行ってくれたことを今でもよく覚えている。
兄は気の毒なほどに気を回す、良く言えば優しい男だった。彼はやや考えが浅い部分が確かにあったが、人を思いやることが出来、弱者のために立ち上がることが出来る清い心根をもっていた。
名も知らぬ他人を相手にした場合にどう動くは分からないが、少なくとも兄は身近な者のためにならば、自身の身を呈すことなどまるで構わなかったようだ。
いつかの昔、両親らが軽い口論を皮切りにして、大声が飛び交うような喧嘩にまで発展をしたことがある。それは滅多に起こることではなく、今こうして記憶を振り返っても両親の喧嘩などおそらく三度と無かっただろう。
幼い私は居間の隅でしゃがみ込み、大声の嵐が早く過ぎ去らないかと身を縮こまらせていた。震える私の背中を撫でる兄が言い聞かせるようにゆっくりと、落ち着いた声で言う。「大丈夫。僕がどうにかしてくるからね」、と。
兄は言葉という鋭い暴力を互いに振るう両親らのあいだに割り入った。面を喰らい、束の間の冷静さを取り戻した二人へ向け、妹が怖がっているからもう止めてほしい。と兄は深々と頭を下げたのだ。
今でもあの時のことははっきりと覚えている。
兄がまだ七つの時だった。男子とはいえ、大人である両親らは随分と大きく見えただろう、飛び交う声に怯みもしただろう。それでも兄は『私が怯えているから』、たったそれだけの理由で一歩を進み出てくれた。
他人からすればただの喧嘩の仲裁だが、私にとっては妹のために行動を起こしてくれた兄であり、彼の背中とその心根がとても愛おしく、私は好きだった。
私が七つになると、年齢を追いつかれるのを嫌うようにして兄は八つになった。
この頃の彼は、世の男児がそうであるように剣士になるという将来を夢に描いた。
体が特別強いわけでもなく、背高の親友のように優れた身体能力があるわけでもない、普通の男子。
もし他人より秀でた部分があるというのなら、先にあげた心根の優しさと、一度交わした約束はどれだけ不細工な形であっても守るということだろう。……義理堅いのだ、あの男は。
世間には商人や農家、商会での勤め人、銀行員、国家勤めの騎士、猟師、とても一度に挙げきれるものではない、将来の夢として描けるであろう職業は無数にあった。私にはやはり理解が出来なかった(今でもそう思うのだから、一生を通してもきっと無理な話だろう)が、年頃の男子というものはやはり剣を振るい、名声を得る将来を夢に見るらしい。
父は兄に剣の技を教えはじめた。二人はそっくりのくしゃくしゃの黒髪をしていて、きっと兄が二十歳に成長をすればまるで生き写しのようにそっくりの二人の姿が見れるだろうと幼いころの私は思ったものだ。
歴史とそれに連なる知識を得るうちに、私は父が非常に優れた剣士だったということに気が付いた。
父は己の名前と来歴を決して表の世界には出さず、マールウィンド連邦領内の僻地で家族とともに暮らした。人や都会を嫌っているのかと、まだ十にもならない私は考えていたが、実際にはマールウィンド連邦の上層部と父の近辺の人間らによる工作や配慮だったと知ったのは随分と後になってからのことだ。
表舞台に決して足を踏み入れず、時の流れに身を任せる日々。庭先に置いた椅子に腰を掛け、息子と娘の姿を眺める生き方というのはまるで老人のようだった。
その時の父の心中は幸せだったのか、それとも退屈だったのだろうか。
私にはまるで知る由もない。
父はまだ三十になっておらず、身を持て余していた部分は少なからずあったのだろう。そんな時に息子に剣の教えを乞われるのは渡りに船であったに違いない。
父の剣士としての心の熱は冷めてはおらず、磨いた技を朽ちさせるわけにはいかないとばかりに、父は兄とその親友に一心に技を教え続けた。
カレンダーを二回新調した。
ひとつめは西大陸の山岳風景、ふたつめはどこかの海岸の写真。
兄は十歳になり、兄にとって大きな転機がおとずれた。
大海を隔てた彼方の騎士国、ルヴェルタリア古王国より客人が訪ねてきたのだ。
絵本から飛び出してきた巨人のような大男は父を頼って来たと口にして、私も兄も、男の顔を見るには真上を向かねばならないほどに大きな男だった。
狼のように獰猛でいて、けれど気高い顔立ちをした彼は二人の子供を連れていた。
ひとりは悲劇の王子。雪色の白髪に、煉獄の炎を灯した真紅の瞳。
ひとりは宿命の王女。若草色の髪に、霧を払いし男と同一の色を得た瞳。
筆を滑らせる今、私は心より思う。
あの時間こそが私と兄、二人の同郷の友、二人の末裔らにとって、人生最良の時間だったと。
あの春の丘で私の肌に触れた風を知ることはもう二度と出来ず、あの夏の森で目にした夏の日差しはもう無い。
日が陰り、月が夜空を照らす。
星々の巡りは移りゆき、時が思い出から色を抜いていく。
秋になると二人の末裔は北へと戻った。
その頃から兄は王女に貰ったというネックレスを片時も離すことがなくなり、私は何か大事な約束でもしたのだろうと、誰に言うでもなく内心で微笑んでいた。
数年が過ぎ、十四歳になった兄とその親友らは随分としっかりとした体つきになった。背高の男などはもう私の父と同じような背丈になり、父が「二人目の息子みたいだな」などと喜びを口にしていた。
この頃から兄たちは、それほど遠くない野山や森へ出掛けては稽古や修行だとか、呼び名は何でもいいのだが訓練に励むようになった。
父も兄も居ないものだから、私と母は二人きりで家を守り、もうただ幼いだけではなくなっていた私は、自分とそっくりの瞳と髪の色を持つ母と毎晩遅くまで話していた。
美しい時間だった。
叶うことならば、愛に満ちた母の表情をそのままにして私の中に永遠に閉じこめておきたい。
だが、記憶は塗りつぶされていくのだ。日々、決して止まることなく。
兄が十五歳で、私が十四歳の春。
自宅の庭先に広がる芝生の中に立つ兄に寄り添い、私は尋ねたことがある。
「ねえ、兄さん」
「なんだい?」
「兄さんはどうして剣の稽古をがんばるの? もう十分すぎるぐらいに兄さんは強くなったじゃない」
春風の中で兄が笑う。私の手を引いてくれたあの時と変わらない微笑み。
「約束をしたからね」
「約束って、だれと?」
「アーデルロールだよ。僕は彼女に『次に会うときまで絶対に死なない』って約束をしたんだ。だから、守るために強くならなきゃいけない」
「何それ。まるで誓いみたい。兄さんは騎士にでもなっちゃったの?」
ああ、そうだよ。と兄が言う。
やっぱり思った通り、成長した父とそっくりの顔だ。
「僕はアーデルロールの騎士だから。彼女との約束は守らないと、ね」
陽光を通す真っ白なカーテンレースみたいに柔らかい笑顔。
本当に、バカな男だな、と思った。




