032 夕焼けの英雄
白いイリル大陸に存在する暗黒の大空洞。またの名を〝イリルの大穴〟。
そこはかつて〝霧の大魔〟が死した土地として伝えられる忌み地。
千年が経過をした現代にも霧は底の知れぬ大穴よりあらわれ続け、伝説や神話に語られるような尋常ならざる魔物が跋扈する人界の外。
大穴の周辺の霧の濃度はきわめて濃く、それはもはや壁と呼んでも間違いではないほどの厚みを有している。常人が触れればたちどころに正気を失い、肉体は瞬時に事切れ、魂が輪廻の輪に戻ることは永劫に無い。
千年の時間において限られた数名だけが通ることの出来た濃霧。霧を抜けた先には奇妙な空間が広がっている。
城や街に緑の丘。火口、湖、板張りの廊下、純白の雪山、散らかりっぱなしの本棚が並ぶ書庫。様々な景色がそこでは溶け合っている。まるで世界のすべてをひとつに集め、無垢な子供がぐちゃぐちゃにひっ掻き回したようなデタラメな世界。異界と言った方がきっと正鵠を得ている。
異界の外周には海がある。時間の静止した大海原。海面には白波が立ってはいるが、宙を舞う波しぶきが海へ戻ることは二度とない。
この世界の光源はただひとつ。城の鋭い頂上部と草葉が茂る平原とが溶け合う奇妙な建築物の向こうに浮かぶ、いびつに歪んだ深紅の太陽だけが異界を照らしている。
今、この場に生物の姿があった。
それはひとりの騎士と一体の巨躯の魔人。魔人の背丈はまるで空にまたたく星をも掴めるだろうと思えるほどに巨大でいて、六本三対の腕を組み、己の足下で無言のままに立つ騎士を睥睨している。
騎士が鞘に納めたままの剣に指をかけ、身をよじる。抜刀の構え。
魔人が六本の腕を広げ、それぞれの手のひらに六元素の魔力を練る。ひとたび放たれれば山を砕き、大地を裂く第五と第六階位の複合魔法。万の軍さえもを打ち破るであろう一体の魔人に立ち向かうはたったひとりの騎士だった。
両者のあいだに言葉はない。
巨躯の魔人の手より放たれた濃密な魔力の渦が始まりの鐘だった。
重力を加算する黒い球が騎士の足下に現れ、壮健な脚を縛り付ける。続けて放たれる大雷の槍。天を往く大竜のように長く、壮大な槍の穂先が騎士を向き、一息に振り下ろされた。
暗い枷など意に介さず、騎士は半身をよじり、腰に溜めた剣を一息に振るう。
ひとつめ。居合による斬撃が重力球を割り、雷を真っ正面から二分し、魔人の片足をもいだ。
ふたつめ。袈裟斬りが魔人の六本の巨腕を断ち、黒々とした血しぶきが雨のごとくに降り落ちる中で魔人が地に倒れ伏した。
みっつめ。何事かを口にしようとした魔人の厳めしい鼻先に刺突が繰り出され、小山のような巨体を貫き、肉体の大半を消し飛ばした。
大穴の最奥を囲う濃霧の外に広がる人界へとひとたび歩み出れば、一国を軽々と焦土と変えるであろう魔人を容易く葬った騎士の体が幽鬼のように揺れ、直前まで相対していた死骸にうずもれるようにして倒れ込む。
騎士が着用をしているのは銀色の騎士鎧。ルヴェルタリアという古い国で騎士として任じられた者が最初に与えられる、〝霧払い〟に連なる象徴としての銀鎧。
それは北の少年たちのあこがれであり、父祖らの魂でさえある。
騎士は身動きひとつしない。周囲に音は無く、墓地を彷彿とさせた。この場に辿り着ける人間がもし居るならば、倒れ込んだ騎士を見て、戦いの果てに事切れた遺体だと思うだろう。
だが騎士は――男は生きていた。
鎧の中の胸は呼吸に浅く上下し、顔面を覆う騎士兜の下では疲れ切った瞳で異界を見据えている。固く引き結んだ唇は開かれず、彼が最後に言葉を発したのがいつのことだったか、彼自身、おぼろげにさえ覚えてはいない。
男の精神はすり減り、疲弊していた。
無数の傷、無数の罪、無数の願い。ひとりの背中には重すぎる荷を背負った男の心はしかし、どのような苦難や窮地にあっても不壊を貫いた。
目を覆う絶望でも、滅びの際でも、醜い裏切りにあっても男は剣を握り続けた。
彼を突き動かし続けたものはひとつの言葉。
己が存在し続ける理由は古い夕焼けの誓い。
数えきれない時間のあいだ、男はじっと耳を澄ませていた。
この異界に音は生じない。それでもなお、いつか生じるかも知れない大事な音を聞き逃すまいとし、耳を傾け続けた。
「……聞こえた」
やがて騎士がゆっくりと身を起こした。背中を預けていた魔人の死骸はとうに腐り、極大の骨格だけが残されている。
「友よ。お前が覚えておらずとも、互いがかつて誓った言葉を私は果たそう」
かすれた声が木霊した。
世に最も鋭き剣の主。
〝ウル〟だけが着用を許された深紅の外套が男の背にひるがえる。
二章『忘れ得ぬ紅』 了
次回より三章となります。更新再開は7月中旬前後の予定です、詳細は活動報告にて。
☻読んでくれて本当にありがとうございます☻




