031 朝焼けの騎士
「治療は終わりました。ほとんどの傷は内外共に完治しましたが、胸の傷だけはどうにもならず、そのままになってしまって……」
翌日の朝、倦怠感も晴れたわたしへ向けて、王宮仕えの医療術師が言った。
くの字に曲げた人差し指をあごに添え、術師が納得のいかなそうな顔をする。
「いったい何故その傷が治らないのか私には不思議でなりません。もしかすれば、強力な呪いや魔法と共に負った傷のようにも思えます。私の扱える第三階位程度の魔法では完全な治癒は叶わないようです。私の技術が至らないこと、重ね重ねに申し訳ありません」
「気にしないでください。それよりも治療してくださって助かりました。お礼を言うのは僕の方ですよ」
礼を口にする傍ら、他人に傷を晒したことによる焦りと緊張から、わたしの内心は酷く乱れていた。その動揺たるや春の嵐のようでいて、許されることならば今すぐ逃げ出したいほどであった。
「ユリウス。オレらはルヴェルタリアに引き上げるぞ」 治療を見守っていたギュスターヴが言う。
「引き上げるって、王女もですか?」
「ああ。アーデルロール第ニ王女からヴィルヘルム王子、この家とその従者、皿の一枚に到るまでルヴェルタリア由来のものは丸ごとな。早くて明後日、遅くても三日後には発つ」
「随分と急ですね」 わたしは驚きを隠さずに言った。
「本国から連絡があってな。文面はかなりシンプルだぜ? 『急ぎ、戻れ』ってそれだけだ。ま、お互い生きてりゃまた会えんだろうよ。しっかし、フレデリックのせがれに稽古をつけてやれなかったってのだけは心残りだぜ。ああ、チクショウ。どうせだから今この場で軽くやってくか? ん?」
「いやいや。まだ病み上がりですし、心の準備が……あの、目が物凄いですけど本気じゃないですよね」
当たり前だろうが! と、豪快に笑いながらギュスターヴがわたしの背をばんばんと叩く。子供の顔ほどもある大きな手で無遠慮に叩かれるのは相当痛かったが、あまりイヤな気持ちがしないのはどうしてだろうか。
ひとしきり笑うとギュスターヴが獰猛な顔をにやりとさせ、
「お前、将来デカくなった時にゃルヴェルタリアに遊びにこいよな。武勇に誇り、剣の鋭さを重んじる、〝霧払い〟のルヴェルタリア古王国は強いヤツをいつだって歓迎するぜ」
「はっはは、分かりました。前向きに考えておきます。友達も連れていって構いませんよね」
「当たりめえだ。なんなら全員連れてこい」
彼はポケットに突っ込んでいた片手を取り出し、大きな拳をぎゅっと握り込むとわたしへと向けた。
「よお、ユリウス。昨日も言ったが、赤い眼は――〝紋章〟は極力使うなよ。強い力は災いを呼び、災いは総じて死を招く。死んだら元も子も無い、命に代えはねえんだからな。無茶をせず、フレッドとリディアの言うことを聞いてしっかりと懸命に、必死に生きろ。おっと、あの槍好きの金髪坊主にも同じことを伝えておいてくれよ? あいつは懐かしい我が息子にそっくりでな。だからかね、ちと気になる」
わたしは手を上げ、彼の固く太い指に自分の拳を重ねた。
岩のように硬く、わたしの手の何倍も大きい、屈強な戦士の手。
「この拳にかけてしっかりと覚えておきます。コルネリウス、物覚えの悪い彼も槍の英雄の言葉なら忘れないでしょう」
「おう、確かに頼んだ。ユリウス、我が朋友フレデリックの息子よ。大きく成長したお前にまた会える日を楽しみに待ってるぜ。『人生に色を』。またな、元気にしてろよ」
◆
わたしは鏡のごとくに磨き上げられた鉄の剣を手に握った。
受け取った剣は剥き出しではなく黒い鞘に収められている。ログハウスに住むルヴェルタリア王国の従者が見繕ってくれたのだろう。
近頃はお守り代わりに持ち歩いている、小さなオレンジ色の小石がポケットの中に収まっているのを確かめた。
これは霧で目覚めた最初の日、牛頭の怪物に追われ、死の淵に足をかけた時に偶然手の中で握り込んでいた石だ。内側にきらきらとしたオレンジ色の宝石が覗くきれいな石。父はこれを原石だと言っていた。
わたしにとってこの小石は不屈の象徴であり、起源のようなものに思えてならない。握っていると胸の中に勇気が湧くような気がする。しょせんは錯覚の類であるかも知れないが、それでもかけがえのない物なのだ。
コルネリウスは『男子はそういうのがひとつはあるよな! 俺も拾った木の実を大事にしてるぜ。ただ中から虫が出てきた時は結構ビビったけどよ』なんて言っていたが、全く別の話なんじゃないかと笑ったのを覚えている。
宝物を失っていなかったことから安堵の息を吐き、わたしの看病をしていてくれた医療術師とギュスターヴに礼を伝え、ログハウスの廊下へと出る。
白い窓枠の外には一面に森が広がっている。風に揺れる木々はどれも見慣れたものだった。森などはどれも同じかも知れないが、この目に映る森をわたしは匂いや気配で知っている。
掃除の手の行き届いたフローリングの廊下を歩き、木漏れ日の落ちる階段の踊り場にたどりつくと白髪の少年と出くわした。
「お帰りになられるのですね」
燃ゆる炎の真紅の瞳。ルヴェルタリアのヴィルヘルム王子が言った。
久しぶりに会う彼の顏は青ざめていた。どうやら今日もその体調は優れないらしい。わたしは心配を口にせず、いつもと同じように言葉をつむぐ。
「はい、お世話になりました。王子らも間もなく北に発つと伺いましたが……」
「ええ。レオニダス国王陛下からの直々の召還ですので。ユリウスさんとはもっとお話をしたかったのですが……」 王子が目を伏せる。
「ギュスターヴさんの受け売りですが、生きてさえいればまた機会は何度でも訪れます。その時には心行くまで語らいましょう。それこそ夜更けから朝まででも。ヴィルヘルム王子、どうかお元気で」
雪のように白い頭髪に赤い瞳を持つヴィルヘルム王子の体は弱い。
体は細く、病に冒される度に、彼は王国の擁する医師らの手にかかっていた。
わたしの治療を手掛けた医療術師もそのひとりだ。
運動を制限されている王子は自然や知識を愛した。
このログハウスの外に出ることが滅多に無かった彼とは話す機会はそう多くなかったが、また出会える日を信じ、わたしたちは互いの手を強く握り締める。力を込めれば折れてしまいそうな、花の茎のように弱々しい手だった。
大きな玄関扉を開く。
見送る従者達に今いちど丁寧な礼を伝え、わたしは森へと足を踏み出した。
『ご自宅を目指すのならば南東へと進めばよろしい。あそこに見えます木々の間を真っ直ぐに歩かれますよう』
発つ間際に従者のひとりがわたしにそう言った。言葉の通りの方角へとただ歩く。
鳥が鳴く昼の森を歩きながらに思考に沈んだ。
洞窟で見た影やオークの死体が脳裏に浮かぶ。
考えても仕方のないことではあったが、わたしはおぼろげな自己の記憶にスコップを立てずにはいられなかった。
「あ! ねえ、ちょっと!」
ベッドの上で目覚めた日、自分に得体の知れない力が宿ったと知った夜。わたしは欠落していたはずの自身本来の記憶を思い出していたことに気が付いていた。
洞窟で見た幻視。
腹部に致命傷を負った女が見え、命が霞む中で彼女はただ『恨むな』と言った。腕の中で死にゆく彼女を見て、心に燃え盛った暗い憎悪の熱をわたしは明確に思い出せる。
「ちょっとってば!」
ずかずかと歩み寄る足音と猛々しい自信に満ちた声が真後ろで聞こえ、驚く間もなくわたしの首根っこを何者かの手がむんずと捕まえた。
思いがけない接触だったものだから、口元から情けの無い声がだらしなく漏れ出る。
「っぎゃ! ああああ、だ、誰ですか!? お金ならありません。でも、自宅まで行けばいくらかの用意はあり、あります」
おびえる一方、わたしの頭の中で今こそが好機であるという閃きが走る。
いつか暴漢に捕まったのならば、相手をどうにかして我が家の虎口へと連れ込み、家族総出で返り討ちにしてやろうと常々にわたしは考えていたのだ。
今こそ実行のときだ。覚悟するがいい、犯罪者め。豚箱が似合いだ。
「呆れた……。あんた、本当に剣士? よくもそんな情けない言葉がつらつらと出るわね」
耳のすぐ後ろで、今や親しい友人と呼べるまでになった人物の声がした。
正体を思い浮かべたわたしは卑怯な考えを心の奥底に仕舞い込み、振り返る。
「王女! 無事で良かった」
「そういうあんたはポンコツ黒髪。アルルでいいって前に言ったでしょ? ふん、元気になったのね」
陽光の落ちる森の中、彼女は口元を微笑ませて親密な仕草で首を小さく傾けた。
その見慣れない落ち着いた雰囲気に、わたしは胸の辺りに奇妙な疼きを覚える。
「ログハウスの……ルヴェルタリア王国の方々には良くしていただきました」
王女が口元を微笑ませる。その仕草に言葉をつけるならば『やれやれ』だ。
「あたしはツバつけときゃ治るって言ったんだけどね……って、駄目駄目」 王女が気を取り直すように深く息を吸う。
「あんた、時間ある?」
真剣な目だった。
意志が強くこもった目でアーデルロールがわたしを見据えている。
わたしは「構わないですよ」と短い返事とうなずきを返した。
すると間髪をおかずに王女がわたしの片手をがっしりと掴み、森の奥へとずかずかと歩きはじめた。
「あの、村とは逆方向みたいですけど」
力任せに引かれるままでわたしは声をあげた。ログハウスの従者が教えてくれた道は一歩目ではずれてしまっていた。
「いいのよ。人が居ない場所の方が都合がいいわ」
王女は取り合わない。もしやわたしは闇討ちやらなにやらでとうとう私刑を受けるのだろうか。ギュスターヴさん、すみません。使うなと言われた〝紋章〟を使ってしまうかもしれません。
後頭部でひっつめたポニーテールが揺れている。
わたしの前を歩く彼女の姿が目に映る。
耳の端が赤く見えるのは気のせいだろうか。いつかの昔にわたしの手を引いた父フレデリックとは違い、王女は道中に一度も振り向かなかった。
逃げるつもりなどは毛頭無いのだが、彼女はわたしの手を固く握り締め続ける。
森を歩き、やがて目の前に現れた川にアーデルロールは目もくれない。
湿った岩のあいだや黒ずんだ木の根を踏みつけ、川の流れをさかのぼるようにして森の奥を目指す。
見覚えがある道だ。もしや、この先にあるのは。
そう思っていると不意に視界がひらけた。
透き通った青空に波の立たぬ水面。
かつて父と共に訪れたあの美しい泉に、わたしたちはふたたび辿り着いた。
「綺麗でしょ、ここ」
「ええ、とても」 背中を向けたままに言う彼女へと言葉を返した。
細い鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。
風が木々を揺らす音はさざなみのようで、緑の草葉はまだ青々としていた。
泉の水面はどこまでも穏やかだ。
飛び石の先にある小さな島には、かつて見たときと変わらずに大きな木が孤独にそびえ、木の根の又には苔むした石碑がそのままにある。
「ほら、行くわよ」
王女はそう言うや否や、数歩を駆けると泉の飛び石へと器用に跳び移った。
そのまま迷いもせずに一つ、二つと跳ねていく。
彼女はあっという間に泉に浮かぶ孤島へと移動した。
野生の動物じゃあるまいし、大した身のこなしだと関心する。
「もう体は治ったんでしょ? あんまり待たせないでよね! さ、早く早く!」
両手を筒のようにして口元に添え、王女が声を張り上げてわたしを呼ぶ。
「まったく……王女の言葉には逆らえないな」
わたしは自分だけに聞こえる声で小さくぼやき、少しだけ助走をつけるといくつかの石の上を跳んだ。
◆
「ここなら聞かれる心配は無いわね。い、いやあ、いい景色ね。ほんと!」
大きな木の根にわたしと王女は二人で並んで腰を下ろした。
石の灰色と苔の緑とが入り混じる石碑の上では名も知らぬ小鳥が尾を振っている。
「珍しいですね」 わたしは言った。
「な、何があ!?」
「王女が話を切り出せずにいるのが。いつもなら単刀直入に言うのに」
「……何よ、うっさいわね」
下向いた王女の顏は見間違いではなく赤い。
彼女が拳の先でわたしの脚を叩いた。
「洞窟では……世話になったわね」 水面を見つめたままで王女が言う。
「助けなきゃって一心だったので。それに……記憶が所々抜けているから、助けたのが本当に僕かも怪しいですよ」
「バァカ。体中を傷だらけにしたあんたが血に汚れた剣を強く握っているのを見たら、ああ、こいつが体を張ったんだなって赤ん坊でも分かるわよ」
「いや流石に赤ちゃんは……」
苦笑しながらに彼女の顔を見ると、驚いたことに彼女は笑っていた。
取り繕ったものではない、年頃の友人に見せるあどけない笑顔でけらけらと。
言葉と口調に刺々しさはわずかも無かった。
泉の水面に葉が落ち、波紋が起こった。
会話が途切れる。
わたしは何か言葉を口にしようか考えたが、少ししてこの沈黙が嫌いではないことに気がついた。
「あんたさ、将来の夢とかあるの?」 不意に王女が言った。
「唐突ですね」 わたしは水面を見たままに返事をする。
「いいから。フレデリックさんみたいな剣士になりたいとか?」
「それもいいですね。父のような剣士や世界を回る旅をする冒険者にも憧れますけど……僕は誰かを守る騎士になりたいと、今はよく思い、考えています」
風が吹き抜けた。王女の髪が揺れる。
「あっそ。……ねえ、もし今、騎士になれるとしたらあんたは受ける?」
雲を眺めたままでアーデルロール王女が言う。目元は見えず、本気かどうか分からない。
「どういうことですか?」
「騎士にしてあげてもいいわよ。今、この場で」 何でもないことのように平然とした顏で彼女が言う。
「ルヴェルタリアの王族はね、自分だけの騎士を一人だけ選べる権利があるの。普通の騎士じゃないわよ? たしか……近衛騎士ってやつ」
王女の方へと顔を向けると、彼女もまたこちらを見るところだった。
力強い夕焼けの色の瞳とわたしの青い瞳が交差する。
アーデルロール王女は言葉を続けた。
「一度しか言わないわよ」
鳥の鳴き声が止んだ。奇妙なことに風も凪いでいる。
「あたしは、あんたを騎士にしたいの。出会ったばかりの人間だとか、憧れた剣士の息子だからだなんて、そんな細かいことは関係ないわ。誰に頼まれたわけでもないのに、自分の体を張って他人を助けた行動に、真っ直ぐな清い心を確かに見たの」
彼女の目が潤んだように見えた。気のせいだろうか。
「……あたしはもうすぐ国へ帰る。もう数年もすれば近衛になろうと擦り寄ってくる貴族の騎士なんかがきっと現われるわ。それこそ何人もね。下手をしたら帰ったらすぐにかも。そういうのが……あたしはキライ。ごま擦りなんて最悪だわ。王家と貴族の力関係なんて知らない。あたしは、あたし自身が選んだ人に近くに居て欲しいし、盾を掲げてほしい。ねえ、ユリウス。ユリウス・フォンクラッド。私は、貴方を選びます」
最後に言葉を正した王女の声音は力強かった。
頭上に揺れる葉の間から落ちる陽光が二人の間に落ちた。
彼女の顏は赤く、わたしも自身の顏に赤熱したものを感じている。
「この誘いを受けるも受けないも貴方の自由。けれどこれだけは覚えていて。私は貴方が欲しい。お願い、どうか私の剣と盾になって下さい、ユリウス」
彼女は返事を求めていた。
そういえば、彼女がわたしの名を呼ぶのはこれが初めてのことだ。
わたしは……迷わなかった。
心の内面は嵐にかき乱される森のようでいて、まとまりが無い。
だが、強風にさらされる中であってもわたしが口にするべき答えはひとつだけであった。
「受けます」
震える喉で言えたのはそれだけだった。
彼女が唇をわななかせ、横を向いた。「立って」と彼女が短く言う。
アーデルロールが結わえた髪をほどき、若草色の長い髪が風をはらんで柔らかく揺れた。
「騎士の叙任をします。正直言って内容は全然覚えてないけれど、その内ちゃんとしたのをやるから今はこれで我慢をしてね」
髪を下ろした彼女は別人のようだった。
活動的な少女から、窓辺に座り、儚そうな横顔で外界を見つめているような少女へとアーデルロールの印象が一変する。
わたしは言われるままに黒い鞘から剣を抜き、その場にひざまずいた。
片手で柄頭を、もう片手で剣先を持ち、捧げるように上へと掲げると王女が剣を受け取り、回し、わたしの肩の上にそっと剣の先を置く。
鉄色の刃がわたしの細首のすぐ真横にある。
これは自身の命と忠誠を主へと捧げる儀。
心に迷いなどは一切無い。
「ユリウス・フォンクラッド。汝が清き心と剣を主に捧げると誓うか」
「誓います」
王女の問いにわたしは答える。
今更だが、わたしにだって騎士の叙任の正しい所作は分からなかった。
「今、汝が遵守をすべき騎士の誓いを述べる。
誠実たれ。
清貧たれ。
弱者に手を差し伸べ、
強者には勇をもって臨み、
霧と悪には眩き剣先を向けよ。
汝が身は主を庇う盾。
汝が身は主を守る剣。
騎士である身を夢忘れるな。……誓いの口付けをここに」
言葉の最後。首筋から剣が離れ、木漏れ日に輝く先端が目の前に差し出される。
わたしはそこへ顔を寄せ、口付けを乗せる。
鋼は冷たく、胸の内は熱い。
「ユリウス・フォンクラッド。汝をここに、アーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリアの騎士に任ずる。騎士の誓いとその心、夢忘れるな。……はああ……ちゃんと出来たかな……」
凛とした声は遠くへ消え、代わりに王女は溜息を吐きだし、その場で膝を抱えるように小さく丸まった。わたしはその落差に微笑ましいものを感じ、笑い混じりに息を小さく吐いた。
何よ、と恨みがましい目をした彼女が下からわたしを見上げる。
「上手でしたよ。雰囲気は相当ありました」
「なによ、雰囲気って。それにもう丁寧な言葉じゃなくていいわよ。そうね……あんたの主が命ずるわ」
いつもの彼女の声だ。王女然とした彼女も悪くはないが、わたしにとってはこちらのほうがアーデルロールらしい。
「権利はあまり乱用しない方が……ええと、いいと思うけど」
「いいのよ。あんたの主なんだから」
わたしは楽しそうに笑う彼女の目を見た。
夕焼けの色の瞳を。
わたしを選んだ彼女の目を。
「君の目は……本当に綺麗な色だね。僕が持っている石みたいだ」
「急に何よ。……バカね。石ってどんなの?」
彼女に乞われ、ポケットからお守り代わりの小石を取り出す。
わたしの手の平の上にある石を彼女はひょいと摘まみあげ、陽光へと向けると吟味するように眺めた。
「綺麗な石ね。名前は分からないけれど」
彼女の顏にオレンジがかった光がかかる。
宝石を通して陽光が射したのだ。眩い光の化粧を彼女は気に留めてもいない。
「ユリウス、あのね。私とあなたはしばらく会えないわ。それが何年のものになるかも分からない。ひょっとしたら、次に会う時にはおじさんとおばさんになってるかも。けれど私はあなたを忘れない。あんたも忘れないでよ? それで……だからってわけじゃないけど、再会の約束の証をここに贈るわ」
ごめんね、と、王女の手の中に突然に風が起こった。
原石の灰黒色の石部分が見る見るうちに削ぎ落され、オレンジ色の宝石が露わになって行く。アーデルロールは魔法を巧みに操り、原石を飴玉ほどの大きさに削り、ひもを通らせるだけの穴を穿つとどこに持っていたのか、そこに細糸を通した。
「首飾り?」 あっという間の出来事にわたしは驚いていた。
「当たりよ。肌身離さずに身につけてなさい」
「これも命令かな。分かったよ」
彼女が腕を伸ばし、わたしの首にネックレスの紐をかけた。
その姿を変えてしまった原石を惜しいとは少しも思わなかった。
わたしの鎖骨の少し下で緋色の宝石が揺れる。
「あたしの事を忘れたら承知しないからね」
自信に満ちた顔でアーデルロールが、わたしが剣を捧げた主が言う。
忘れるわけがないよ。
そう言おうと思い、しかし止めた。
彼女は王族だ。
わたしのような小さな村の子供がこうして言葉を交わすことなど、本来はまず無かっただろう上位社会の人間。
ここに約束こそ交わしたが、それは子供同士のもので、ましてや口約束でしかない。
もしかをすると冗談ではなく、これが本当に最後かも知れない。
そう思ったわたしは、兼ねてより言いあぐねていたことを口にしようと心に決めた。それは彼女と初めて出会った日に真っ先に抱いた思いだ。
「アルル」
彼女を愛称で呼んだ。
とうの昔に通り過ぎた夏の日に彼女がそう呼んでいいと言ったが、わたし自身は今日までためらっていた名を口に乗せる。
「何?」
アーデルロールを一目見たとき、わたしの中に稲妻が走ったような錯覚がしたのをはっきりと覚えている。
わたしはそれが一目惚れなのだと自覚さえしていなかった。
伝えなければいけなかった。
少し前に同じ言葉を口にしたが、今度は感情を強く込める。
「君の瞳の色はすごく……その、綺麗だ。夕焼けみたいでずっと見ていたくなる」
王女が目を丸くし、小さく笑った。
穏やかな顔だ。
「夕焼けだなんて、随分寂しい表現をするのね、あんたは」
彼女が微笑む。
「……ねえ、この色は物悲しいものじゃないのよ? これは朝焼けの色。新しい一日が始まる夜明けの色よ。世界を救った勇者の瞳が一日の終わりの色だなんて、またすぐに夜が来るみたいじゃない。この目はこれからずっと、ずっと続く明るい朝を導く色よ。覚えておいてね、ユリウス」
わたしは彼女の朝焼け色の目をじっと見つめた。
彼女はわたしの夏の空のような青い目を見ている。
「またいつか会いましょう」
「うん、必ず。約束するよ」
「言ったわね? 私との約束を果たすまで死ぬんじゃないわよ。私のナイト」
差し出された王女の手は柔らかい。
わたしは別れを惜しみ、その手をしばらくずっと、声も無く握っていた。
◆
「陛下」 白い部屋に男の声がする。太く、力強い声だ。
「言わずとも良い」 老いた声が答えた。
その老人は、古い木の幹をくりぬいた玉座に腰を掛けている。
腰には一振りの剣。
鞘は無く、柄や鍔には木目が浮き、剣身の根本には十三個の色とりどりの宝玉が煌めいている。老いた男は言う。
「聖剣と契りを結びし精王の御霊が騒いでおるわ。それで、瞳はどこにあったと?」
「南方の地、リブルスに。亡国には無く、連邦領にて見つかりました」
「担い手は?」
「〝悪竜殺し〟の息子です。彼はまだ十になったばかりの幼子ですが、心根は清く、信用のおける者だとオレは信じます」
「そうか……先生がそう言うのであれば、わしも信じるとしよう」
「陛下。オレはもうあなたの師では……」
大柄な男が所在なさげに頭を掻いた。
狼のように獰猛な顔に当惑の色が浮かぶ。
そんな彼に対し、老人は気に留めてもいないように笑い飛ばした。
この老いたる者はかつて男の弟子であったが、今では男を懐刀に据える王に立場を変えていた。
「よいよい、あなたはいつまでもわしの師じゃ。わしの祖父、そして父がそうしていたようにの。さて……いよいよ始まるのだな」
「ええ。〝霧払い〟が有した〝太陽の瞳の紋章〟が目覚めました。世界がまどろみから覚める時が来たのです」
古い王国の玉座に座る老いた王はその瞳を憂慮げに閉じ、ゆっくりと長い息を吐いた。




