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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
二章『忘れ得ぬ紅』
29/193

029 緋眼の記憶

 

 乱入者の声が岩陰に身を隠したわたしのすぐ横で聞こえた。

 外国語だろうか。黒板を爪で引っ掻くような甲高い音と小鳥のさえずりのように細かい声でぺちゃくちゃと何事かを話している。

 

 わたしは岩陰でじっと息を潜めていた。自分の心臓の鼓動だけがばかにうるさくて、すぐ真横を歩いている相手に聞こえてしまわないかと心配を覚える。

 相手の背中が見えた。小さく、華奢な背中目にした時、わたしは相手を人間の子供だと思った。だが、そうではない。常識に寄っている考えは次の瞬間には消え失せた。

 

 焦り、緊張、恐怖。様々な感情を伴った細い息がわたしの唇の隙間からふっと漏れ出た。薄ぼんやりとした明かりの灯る洞窟から現れたのは人ではなかったのだ。

 

 大きなわし鼻が横顔からうかがえた。

 剥きだしの腹部や脚は暗い緑色の肌をしている。

 ぎょろりとした大きな目は病気なのか生来のものなのか。

 眼球は黄ばんでいて、縦長の黒い瞳がせわしなく広間を見回している。

 そして側頭部から伸びる、針金を捻じ曲げでもしたように歪んだ長い耳が、彼らが人間では無いことを自ら証明していた。

 

「小鬼……ゴブリンだ……」

 

 どうしてここに、という疑問は抱かなかった。

 ここは人里で無ければ警備の人間も居ない。荒れ野を生きる小鬼が洞窟へ現れるのは無理のない話だ。


 彼らは二人組だった。

 目当ては薬草ではないらしい。薬草の生えた区画は横目にちらりと見ただけだ。

 ゴブリンは二手に別れ、わたしの知らない言葉で会話をしながら何かを探している。大きな目玉をせわしなく動かし、薬草の生える小さな畑をずかずかと踏み鳴らす。

 そうこうしていると彼らの内の一匹。拾い物だろう、黒く汚れたハンチングキャップを被っている方の小鬼が、枯れ枝のように細っこい指先を小屋へと向けた。

 まさか、とわたしの心臓が高鳴る。

 

 小屋にはコルネリウスとアーデルロールの二人が眠っている。

 外から見る限りでは二人が目を覚ましているようには見えなかった。


 合図を受けた片割れ、黒マスクで顔を覆ったゴブリンが帽子を被った相方へとうなずき、了解と思われる返事を短く返すと気だるそうに歩きはじめた。

 ため息を吐き、小鬼は後ろに手を回すと腰に携えた手斧をすらりと抜いた。その行動を目にした途端にわたしの血が一瞬で冷めた。

 

 小鬼の一歩が、世界のめぐりがやけに遅く感じられる。

 息を飲み、胸の鼓動が跳ねる一方で思考は鋭く冴えていた。思考するべきことはそう多くはない。行き着く答えがたったひとつであることも分かっている。連中を始末しなくてはならない。


 ゴブリンは正しく言えば獣人に分類をされる。彼らは普段は森に隠れ住んでいるが、時折付近を通りがかった人間を襲う習性がある。身ぐるみを剥ぐどころではない。彼らが暴力を振るい、人間を容赦なく殺すことをわたしは知識として知っていた。

 

 細く、しかし深く息を吐く。

 黒マスクの小鬼が斧を抜いた目的は明確だ。

 人の匂いがする小屋へと踏み入り、わたしの友人を手に掛けるのだろう。


 この手足の震えは戦いの喜びを感じての武者震いでは決してない。

 自身ひとりで己とさしたる体格の違いもない獣人を殺すことへの恐怖に震えていた。

 

 道中で殺した小動物が、

 夜の森で出会った兎が、

 霧の森で決死の戦いを挑んだ牛頭の怪物の姿が脳裏に蘇る。


 わたしは戦いを経験こそしたが、ひとつを生き、乗り越える度に強い恐怖を背負っていくように感じた。

 

 一度だけ目をぎゅっと瞑り、冷静さを取り戻した意識で手斧を手にした黒マスクのゴブリンを真っ直ぐに見据えた。鎧どころか丈の短いズボンをしか身につけていない彼は、その緑色の肌を――明確な弱点を剥き出しにしている。

 あの肌に鉄剣の切っ先を思い切り突き立てれば彼がどんな結末を迎えるか。

 わたしは自分の所行とするべき仕事を理解し、一瞬後には意を決した。

 

 身を隠していた岩の影から外へと身を踊らせる。

 二匹のゴブリンと小屋の間にはもう距離の猶予は無かった。彼らが戸口に靴の裏をかけることさえもわたしにとっては嫌悪の対象であり、断固として許せないことだった。


「――身体の強化。いつも通りだ。上手くいく、上手くやれる、僕しか出来ない」


 わたしは駆け出した。

 疾走の二歩目を踏む前に肉体の内側に魔力を巡らせ、三歩目の足を下ろす時には身体の強化は済んでいた。頑強さ、腕力の増強、知覚の強化。戦士としての基礎技能、戦いへの最低限の準備だ。


 革靴の底が砂利を踏み、立てた物音に帽子を被った方のゴブリンが気付いた。振り返ると同時に細い指先をわたしへと向け、甲高い声でギャアギャアとわめく。

 手斧を握ったゴブリンが相棒の声に応え、わたしの姿をその目に認めると手斧を上に振りかぶった。だが、遅い。


 わたしは手斧を持った黒マスクのゴブリンに迫るや、不意を突くように素早く身を屈めると斧を振らんとする小鬼の視界から消えた。アーデルロール王女の得意とする素早い身のこなしの模倣。彼女ほど速くはなかったが、ゴブリンの困惑を空気で感じた。

 

 わたしの握る鈍色の刃が暴力に閃く。

 稽古で日々そうしているように鉄の剣をくるりと回し、中身の詰まった肉袋へと鉄剣の切っ先を向け、突き立てた。


 筋肉と肉を強引に裂き断つ感触が鉄を通してわたしの手に伝わる。

 わたしにしか分からない、わたしだけが受け止めればいい、暴力の震え。

 けたたましい金切声がすぐ真上で聞こえた。

 何かぬるい液体が肌にかかった。

 わたしは取り合わず、また、身をすくめもせず冷徹な心のままに思い切りに剣を押し込んだ。

 傷口からどぷり、と多量の血液が溢れる。


 帽子を被ったゴブリンは何もしてこなかった。あっけに取られているのだろうか、気味が悪いぐらいに大きく黄ばんだ目を見開いて立ち尽くしたままだ。

 

 わたしは剣をさらに押し込み、致命の一撃に達したと判断をすると一息に剣を引いた。引き抜く間際、傷口を広げるように剣先で肉を切り裂くとゴブリンは痛みから手斧を放り投げ、刺突の傷からおびただしい量の血液をこぼしながらその場でよろめき、倒れ、地面の上をのた打ち回った。

 苦悶の声がわたしの耳をつんざくが、わたしのこの青い目は生き残った小鬼をじっと見据えていた。まもなく死に絶えるだろう、肉の独楽こまにもはや関心はない。


 鉄剣のグリップを両手で握り込む。


〝次はお前だ〟


 言葉に出さずとも、己が死地に立っていることをゴブリンははっきりと理解したらしい。懐からナイフをひとつ取り出した。薄汚れたナイフだ。ろくに手入れもしていないものだから刃に錆が浮いている。

 

「ギ……ギギ、アアア! アッアア!」

 

 怯えた顏をしたゴブリンが何かを言った。わたしは取り合わない。

 前へと一歩を踏み出し、体重を乗せて前進をすると剣を真横へと振り薙いだ。


 返答は血と鉄だけでいい。


………………

…………

……


 彼の抵抗は激しかった。

 ゴブリンは筋もデタラメなままに汚れたナイフを振り回した。それは片腕を突き刺し、肉をえぐり、手酷く痛めつけようとも、彼は残った片腕で再び武器を握り直し、その腕までもが正視に耐え難いほどに切り裂かれるまで彼の生き残るための戦いは続いた。

 

 わたしは浅い傷こそ負ったが日々の稽古の成果だろう、盾を駆使した冷静な立ち回りによってダメージというダメージは無かった。浅い傷など、回復の魔法をかけるまでもない。

 体を無惨に裂かれ、わたしと同じに赤い血液を体の至るところから流しているゴブリンが、使い物にならなくなった両腕をだらりと下げたまま、血の海に転がった仲間のもとへと足を引きずるようにして歩きはじめた。


 最初に刺突を受けたゴブリンはもうぴくりとも動かない。

 わたしの握った剣先から地面へと数滴の血が落ちた。


 遺体は血の池に沈み、生命の気配はまるでなかった。

 帽子を被ったゴブリンが足を引きずり、彼の元に寄ると顏を亡骸のそばで下向けた。少し遅れて鼻をすする音。


 帽子を被ったゴブリンは泣いていた。指を何本か失った手の甲を目元にやり、むせび泣いている。

 彼の言葉は分からなかったが、きっと遺体の名を呼び、どうしてこうなったのかと嘆いているのだろう。わたしはその光景を目にし、冷たく殺していた心に熱が灯るのを感じた。感じてしまったのだ。

 

「……僕が……僕が、やった……」

 

 剣を見る。それは血と脂に濡れていた。

 衣服には返り血がいくつも付着し、シャツで頬を拭うと顔に血がこびりついた。

 今度の手足の震えの原因は分からない。ただ、この目は寄り添う二体のゴブリンからどうしても逸らすことが出来なかった。


 わたしは生き残ったゴブリンを今すぐ楽にすることも出来た。

 けど、そうしなかった。

 死を間近に感じているだろう彼と、既に息絶えた片割れをわたしは声をあげず、呻きさえも漏らさずにただじっと見つめていた。


 心には少しの物悲しさと、人間に近しい生物を殺めてしまったという、もう自分が後戻りを出来ないところへと一歩を踏み出してしまったのだという諦めが確かにあった。

 

 

 

 

 帽子を被った彼は間もなくして息絶えた。

 おそらく失血死だろう。わたしが与えた傷で彼ら二人は死を迎えたのだ。

 

「やらなきゃいけなかったんだ」

 

 考えれば底無しの深みにはまる。

 わたしはその暗闇に気付いてはいたが、影はわたしの内面に芽生えた罪の意識を捉えて離さない。

 遺体から目を離すのには随分な時間と強い意志との両方が必要だった。


 しかめっ面のままに小屋へと足を運ぶ。二人は相変わらず眠りこけていた。


「教えない方がいい……かな。殺したなんて、自慢にならない」


 そのどうしようもないぐらいに呑気な寝顔を見て、仲間を思いやることが出来、それぞれの意見や考えを持つ、人間と姿形が少し異なるだけの、わたしと何ら変わりのない生物を死に追いやったことへの罪悪感が薄らぐのをわたしは感じた。

 

 ……ひどく疲れた。

 わたしは小屋の壁に背中をつくとそのままずるずると体を下ろし、しまいには床に座り込んでしまった。

 肉体の疲労か心の摩耗か。

 子供の細い肩に、重石に似た倦怠感がずしりと覆いかぶさっている。


「このまま眠ってしまうのもいいかも知れない」


 ほんの少しだけ甘い願いを抱いた。しかし、洞窟に響いた大きな地響きにまどろみかけた意識が半ば無理矢理に覚醒する。

 

「なんだ……?」


 もうこれ以上の試練も苦難も一切欲しくはなかった。

 地響きは洞窟の入り口へと続く横穴から聞こえる。

 腹に響く、その重く物々しい騒音に、わたしは瞬時に牛頭の怪物と血錆びの浮いた暴虐の斧を思い浮かべた。

 

「嘘だ……霧は無かったはずだ。くそ、くそっ、くそっ……」


 不安と恐怖の記憶に、母や父、妹と過ごした穏やかな記憶が塗りつぶされていく。それはまるで虫食いのように静かに、確実に消える。


 汗が噴き出していた。思わずして、普段は決してつかない悪態が口をついて出る。

 視線を洞窟の入り口から逸らせない。

 豚のような鳴き声が聞こえる。複数だ。金具を打ち鳴らす音が重そうな足音に混ざって聞こえた。


 わたしは疲れ切った体を引きずり、小屋から苦労して這い出た。

 この倦怠感は未だかつて一度たりとも経験がしたことがないほどに酷いものだった。まぶたは重く、両目には熱した槍を深々と突き刺したような痛みが生じていた。

 尋常ではない痛みだった。

 だが、ここでわたしが膝を突き、意識を手放せばわたしの世界のあらゆるものが消えることは確かだ。


 放っておけばひとりでに閉じそうな目を懸命に見開き、音の方角を睨む。そして、それはすぐに姿を現した。

 

 成人男性ほどもある背丈。粗雑な鉄の鎧に身を包んだ体は筋肉が隆起していて逞しい。出来の悪いヘルメットをかぶった顏は人ではなく、豚の顏だった。

 

「……っ、オーク!?」

 

 わたしは連中の醜い顏を書物で目にしたことがあった。

 ゴブリンやオークなど、人に危害を加える亜人デミは《獣人》と呼称されている。彼らの知能は高いものだと識者は評価をしていたが、内心でわたしは侮っていた。感情も知能も動物に近しく、人には劣るだろうと。


 だが、今はそのおごった考えは無く、生涯において二度と思わないだろう。

 ゴブリンの友の喪失を嘆く場面を目にしたわたしは、彼らが人と何ら変わらぬ生物であると認めていたのだ。

 

 あの小さなゴブリンには確かに感情があり、温情もあった。しかしオークはどうだろうか? 彼らの有する凶暴性は、他の獣人とは一線を画してあまりあると評されている。

 襲撃した人里への徹底的な破壊、資源の減少に伴っての多種族への急襲、奴隷の売買、オーク特有の凄惨な拷問。

 枚挙に暇がない。


 豚と全く同一の上向き、つぶれた鼻をひくつかせ、洞窟に現れた三体のうちの一体がわたしをちらりと一瞥いちべつした。

 路肩の石やごみを見るような目だ。


「グルブ、ブグ、オア、ゴ」

 

 金の首飾りをぶら下げたオークが他の二体に指示を出した。

 粗悪な鎧に身を包んだ二体が歩きだし、ゆうゆうとした態度でわたしの真横を通り過ぎる。まるで散歩のように。

 ニ体がどこへ向かうかは振り返らなくても分かった。きっと二人が眠る小屋だろう。

 

「待て……ごほ、それ以上……歩くな」


 わたしは力を振り絞り、剣を握り締めた。

 痛みに頭が割れそうだ。だが、体の不調程度で無二の友の命を諦めていいわけが当然ない。

 胸の前で指先で小さく円を描き、ぎゅっと握り締める。父が戦いの前に自分を奮い立たせる所作であるとわたしに教えてくれていた。

 

 父との稽古を思い出す。

 春の丘で倒れ込んだわたしに向けた剣の先を、夏の川辺で父が見せた素早い身のこなしを、秋の庭先で伝えてくれた一子相伝の技、そして――冬の森で見た、わたしを救った父フレデリックの背を。


「――<瞬影剣しゅんえいけん>!」


 腰に剣を構え、腕に力を込める。子供の身であろうが、魔力で強めた一刀ならば生半可な金属鎧程度は叩ききれる自信があった。

 細く息を吐き、振り向きざまに剣を横に薙ぎ、オークの肉体を狙った。鉄製の籠手にぶち当たり、刃先がわずかに沈む。だが、そこまでだった。


「……っ、通らない……!」


 渾身の一撃は浅い。がぎり、と無様に弾かれる。

 オークは気怠そうに振り返るとわたしを見て、それからリーダー格のオークへと視線をやった。対処を仰いでいるようだ。

 腕を組んで様子を見ているリーダー格が豚の鳴き声をあげ、一度うなずいた。


 オークが片手に持った棍棒を振りかぶる。

 暴力の予感を全身で感じたわたしは、自衛の為に習得した魔法の詠唱を口にする。


「土塊の守護よ、ここに……。《アースシールド》……!」


 力任せに振られた棍棒が、瞬時に中空に現れた土塊を一撃で破砕した。

 身を守るために産んだ盾はあまりにも脆く、鋭い破片に変わった土くれはわたしを刺し、続けざまに棍棒がわたしの体を強烈に打ち付ける。


 わたしの全身を重い衝撃が走る。落雷を受け止めたかのようだ。細い体はどうしようもなく吹き飛ばされ、土の地面を無様に何度ももんどりうって転がる。

 肋骨の辺りに熱い波が起こり、まるで全身が引き裂かれるような、苦悶の声さえもあげられない痛みが至るところで沸騰のように沸き立った。

 

「う、あ……がっ、ああああ……っ、いった……い、嘘だ……」

 

 どうにか目だけを動かすと木の棍棒を振り抜いたオークの姿が見えた。

 わたしの手や腕には無数の傷。小石が散らばる地面の上をぼろ雑巾のように転がった際に傷ついたのだろう。

 殴打の鈍痛と切り傷の痛み。そして身を割るような眼痛。幾重もの痛みがわたしを苛み、思考を白熱させる。とうとうこの窮地を脱する考えどころか、まとまった考えを浮かべることも困難になりはじめた。

 傷を癒す魔法を唱えようとするが、口の中が針を噛んだように鋭く痛み、顔をしかめた。脅威の姿に視線が強制的に引き寄せられる。

 

「ゴ、ドゥル、ウグ、ダ」


 棍棒を持った下っ端のオークがゆっくりと歩み寄ってきた。醜い面だ。

 地べたに頭を擦りつけたまま視線だけを動かすと小屋の中にオークの片割れが踏み入ったのが見え、わたしの心に激しい怒りの波が起こる。

 自分の中にこれだけの感情が眠っていたのかと驚くような激情が迸った。

 怒り、苦痛、恐怖、諦観。

 今のわたしはかつてないほどに人間的だと自覚する。


「やめろ……やめろ、やめろ」

 

 間もなく自身の身に振りかかるであろう暴力よりも、かけがえのない友人を救えない方が骨を折られることや命を失うことよりもわたしにはよっぽど恐ろしかった。

 コルネリウスやアーデルロールがどのような目に遭うのか。二人がオークの幅広い肩に担がれているのを目にしたら、この身は膨張を続ける強烈な感情の嵐に引き裂かれるに違いない。

 

 ゆっくりと踏み寄るオークの脚よりも、その後ろに見える小屋の様子から目を離せなかった。

 頭の激しい痛みは相変わらずわたしを苛み、苦痛はとうとうわたしに幻聴と幻覚を見せつけた。

 

………………

…………

……


 朦朧とした意識の中に女の姿が見えた。三十半ばの女だ。

 腹部から血を流し、蒼白な顔をしている。

 わたしは彼女を抱きかかえ、やり場のない深い悲しみと自身の骨の髄までもを焼き尽くす憎悪の炎を身のうちに感じていた。

 この感情が、幻覚か本物かはわからなかった。

 この女が間もなく死ぬだろうことがどうしても悲しかった。

 

『これは……なるべくしてなったことだ。やつを、恨むなよ』


 瀕死の女が血濡れの手を差し出して言う。幻視の中に居るわたしの耳にその言葉は届いていない。


「これは……」


 これは、記憶だ。

 わたしの欠け落ちた記憶。

 自分の中にかつてあり、しかし、霧の森での目覚めと同時に永遠に無くしたと考えていた記憶のかけらが、わたしの中で眩く輝きその存在を声高に主張している。

 まだ消えてはいない。確かにここにいて、ただ霧が隠しているだけなのだと。


 わたしの心の暗がりにいつの間にか入り込んでいた影がそっと言う。

 それは洞窟に現れた不吉な影の姿をしている気がした。


〝愚かな男よ。友を救いたいのだろう?〟


「救いたい」


〝懐かしき男よ。あの醜い豚共を殺したいのだろう?〟


「殺したい」


〝空虚な男よ。お前は自分を知りたいのだろう?〟


「僕は僕を……知りたい」


 影が黄色い歯をむき出して笑った。

 心の中にある小さく白い丘にたくさんの人影がずらりと現れ、みんながわたしをじっと静かに見つめている。

 丘は音がよく響くみたいで、いやな影の笑い声が悲鳴みたいに響いてる。


〝余とお前ならば全てが叶う。

 太陽の瞳の担い手よ、霧にまどろむ世界の運命を回すは今ぞ。

 お前は既に知っている。宵闇を照らすその瞳の意味を。暁を呼ぶ言の葉を。

 この瞬間より全ては変わる。お前も、私も、呪わしき双子の月さえも。

 さあ、今こそ――〟


「……運命を、回そう」


………………

…………

……



 幽鬼のようにゆらりとわたしは立ちあがった。

 四肢にはこれっぽっちも力が入らなかったが、見えざる力と何者かの手がわたしを立ち上がらせたような気がした。

 

 わたしにとどめを刺そうとしていたオークが歩みを止める。死に体だった人間の子供が立ちあがったことに不審を覚えているのが明らかな表情。小屋のそばに二人の子供が投げ出されているのが視界の端に見えた。

 

 幻視はとうに去りもはや何も聞こえない。けれど、わたしが口にするべき言葉は心に深く刻まれている。

 全身を苛んでいた苦痛の波はもはや失せた。

 今この身に感じる感覚は、この両の瞳に自身全ての魔力が集う、強い力のみ。

 

「……払暁ふつぎょうの瞳が、汝が名を結ぶ」

 

 一度も口にしたことのない言葉。わずかも噛みもせず、それは当然のように紡がれる。まるで何千回と口にした詩のように。

 

「白星の瞬き……。無二の迅剣、世に最も鋭き刃をここに……。来い……ッ! 《セリス・ウル・トラインナーグ》!」

 

 わたしの視界が赤い光で満たされる。まるで、夕暮れのような赤を、確かに見た。

 

 

 

 

 わたしがわたしでは無いと感じた。

 自分の視界だが、それを一歩を引いた後ろで眺めているような感覚。

 

「いつの世も戦か」

 

 聞き慣れた声がそう言った。少し眠そうでいて、優しい声音。わたしの声だ。

 豚面の獣人は三匹で並び立っていた。いつの間にかそれぞれの武器を抜き、わたしの様子をうかがっている。豚そっくりの顏には焦りの色が浮かび、その腰は引けていた。人間の子供を相手に何を怯えている?

 

「豚が三匹とは、つまらんな。〝ウル〟の名が汚れるようではないか……しかし、この身はとうの昔に救世とあの男の瞳に捧げている。では今一度、世に我が剣を知らしめようぞ」

 

 右腕がひとりでに動く。

 わたしの意思とは関係も無く、この手は眼前に剣を構えた。

 見覚えのない奇妙な剣だった。鍔は無く、柄の先からは三本の薄い鋼が伸び、それぞれが絡み合うようにして規則正しい螺旋を描いている。

 

「この身は随分と疲弊をしているが、なに、オークを瞬きの間に葬ることなど容易いことよ。それこそ万軍であってもな。〝ウル〟である私と……この宝剣トリニティに断てぬものは勇神の盾のみ」


 わたしではない、わたしの声がそう言う。

 螺旋の剣が突然にその形状を変えた。螺旋の内の一本が直剣のように鋭く伸び立ち、残る二本は翼の形状をした鍔へと形を変えた。

 剣の雰囲気が明確に変じる。内に秘めたる神秘は見る者を威圧させるに十分なものだった。

 

 足が一歩を踏もうと、己の足がわたしの意思とは関係なく、少しだけ浮いた。

 その足のつまさきが地面をとん、と軽く踏むと、眼前に立ち尽くしていたオーク達の背後へと回っている。自身の体が起こした行動に対して理解が追いつかなかった。

 わたしの意思を無視した体が背後を振り向き、尋常ならざる行動の結果をありありとわたしに見せつけた。

 

 三体のオークの首から上は無く、それぞれが両腕を断たれている。

 切断面は非常に美しく、肉体が死を遅れて理解したかのように、少ししてから傷口から血が勢いよく噴き出した。

 飛び散るしぶきが舞い、この身を赤で汚そうとするが身に触れる寸前で消え失せていく。まるでわたしの周囲に膜があるかのようだ。

 

「ふむ……少し遅いか。子供の身では我が冴えも十全に振るえんな……」

 

 気付けば剣は元の螺旋の集合体に戻っていた。

 それは一見して鉄のように思えたが、よく見れば淡い燐光を発している。耳を澄ませばわずかに甲高い音が聞こえた。ただの剣でないことは今や明らかだ。

 

 不意に。

 心臓が、瞳が、炎の中へと放り込まれたような熱さを感じた。

 どくん、と、四肢の先端までを震わせるような重い鼓動が聞こえる。

 

「……お前かと思っていたが……少し違うのか? 何をした?」


 わたしがわたしを訝しむ。問いかけの意味が分からない。答えが無い。


「紋章をぎょせないのか? 馬鹿が、それでは魂を焼き尽くし死ぬるだけだろうが」


 叱責を言い放つと体が何かに反応をした。右手の剣が再び掲げられるが、その警戒はすぐさまに解かれる。


「……この気配は……ルーヴランスか? ふ、気高き女狼めろう、久しい名だな。……私は刻限が近い、後は奴に任せるとしよう。では、また会おう。死ぬなよ、懐かしき担い手よ」

 

 意識が白熱し、わたしではないわたしがどこかへと徐々に消え去っていく。

 手に握った剣は光の粒子となって溶けて消え、焦熱の苦痛だけがわたしの中に残された。

 

「う、あああ! あっ、が、あああ、だめだ、だめだ、燃える、僕が燃える、わたしが、わたしが灼き消える。だめだ、だめだだめだだめだ。守らなきゃ、守らなきゃ守らなきゃ」


 白熱する視界の中、わたしは二人の友人の姿を見た。

 はっきりと確かめられはしなかったが、生きているだろうことを祈る。

 引き換えにわたしが煉獄の炎に飲まれ死んだとしても、守ることが出来たのならば安いものだった。

 

「消える……消える消える消える……」

 

 自我の消失する苦痛に耐えきれず、膝を突き、身を折った。

 どこかから聞こえた男の野太い叫びが耳を打つ。

 けれどその声に心当たりは無く、続けて発生した落雷の轟音と雷光に似た眩い稲光を目にし、わたしは意識を落とした。

 


 

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