027 歪む運命、霧の魔物
『私は私の道を行く。だけれど二つの足では心細い。
どうか君も私の傍にいておくれ。共に並び、共に運命を回そう』
かつて〝霧払い〟が仲間へと向けた言葉。
特別に意識を向けたわけではなかったが、この短い言葉はわたしの心の中に長く残っていた。
運命は回る。
勇者が滅びに瀕した世界を救い、世界を新たな陽射しで照らしたように、また何者かが目には見えぬ運命の車輪をいつか――しかし確かに回すのだろう。
夏がもうすぐ立ち去ろうとし、ひと夏を必死に生きたセミの亡骸を目にするころ。魔物が現われる恐ろしい霧はもうしばらくわたしの周囲には出ておらず、このまま平穏無事であるのならばそれ以上を望むべくもないとさえ思う日だった。
◆
村の広場でコルネリウスらと他愛も無い話にふけっていたときのことだ。その中にはアーデルロール王女もおり、わたしたちは軽いジョギングを終え、気持ちの良い汗をかいていた。頬に吹き付ける風はぬるかったがそれでも多少の清涼感はある。
「薬草を採ってきちゃくれんか?」
村で唯一の雑貨屋。その店主がわたしたちへと唐突にそう声を掛けた。
「薬草?」 驚きを噛み潰し、わたしは聞き返す。
「ああ。旅の冒険者が今朝も早くに訪ねてきてな。きっと駆け出しだろうな、奴さん、三十枚近くもまとめて買い上げていったんだ。滅多に数が動く商品じゃないから俺も『古いもんをやっと処分出来たぜ!』なんつって喜んだんだが、それでも在庫が無いのは不安でね。仕入を頼もうにもキャラバンが次にいつ来るかは分からんし、採取を頼もうにも若い連中は農作業。頼みのフレデリックの旦那は巡回中ときたもんだ」
丸々と太った店主は笑顔を浮かべたままに語る。
彼はわたしの父と知己の仲であるらしい。だが、わたしはこの男の上辺だけの笑顔がどうにも好きになれなかった。
「どうしようかと悩んでいたら坊主らを見つけてな。お前ら、剣術を学んでるだろう? どうだ、腕試しってことで。小さい冒険してみねえか?」 手を揉みながらに店主が言う。
わたしはコルネリウスへと視線をやった。話を聞き、己の冒険心をくすぐられないはずはないと思っていた。しかし意外なことに彼は思案顔をしていた。彼にはこのところ驚かされる場面が続いている。
「どう思う?」 わたしは神妙な面持ちのコルネリウスへ尋ねた。
「あまり気乗りしねえな」
「何でだ? コルネリウス、お前なら一番に飛びつくと思ったんだがよ」 店主の男は驚きを隠さずに言う。
「親父さん……フレデリックのおっさんとの約束がある。俺はもう勢いに任せて無茶はしねえんだ」
彼は昨年に起こった牛頭の怪物と遭遇した事件の呼び水になってしまった、自身の強い好奇心を恐れていた。
叱責をされたあの日、彼はわたしの父へと向かい、これからは無茶はせず自分なりに頭を使って考えると誓っていた。
「ま……まあまあ! 何も魔物とやり合うってわけじゃないんだ。場所はここからそう遠くも無いし、今が丁度昼だから……夕方までには帰ってこれるぐらいの距離だ。それに何か生き物が居るったっても、野ねずみや巨大化したミミズぐらいのもんだ。あぶなっかしい魔物は居やしねえよ。なあ、どうだ? 仕事の駄賃はしっかり払う。な?」
下卑た顏を浮かべ、片手の人差し指と親指で輪っかを作った。商人が三度の飯や場合によっては人命よりも重視をする物。それすなわち金のハンドサイン。
「あんた、なんでそんなに必死なのよ?」 鋭い声が割り込んだ。
腕組みをし、男を鋭く睨みつけるアーデルロール王女が食い下がる店主へと厳しい声で言った。見てくれはわたしと同じような子供だが、王家の血の為し得るわざか、それとも勇者の末裔だという誇りからか。彼女の言葉には強い力がある。
店主の男も言葉の魔力を感じたらしく、たじたじと一歩をさがる。
「い、いやあ……これはほら、商売だから」 中年の男が口ごもりながらに答えた。
「なら自力で採ってくればいいじゃないのよ」
「俺は運動向きじゃない……んだよなあ。いてて、膝とか腰が……な?」
いたわってくれ。丸餅みたいな顏をした店主がにっかりと笑う。しかしアーデルロールはそんな顏に騙されるような純真な少女でなければ慈悲を持つ女でもない。
「そんなの知らんわ。あたしたちが行く理由になんないし。そりゃ腕を試したい気持ちはあるけれど、それはここに居る二人のぼんくらを相手にしてもいいわけだし」
店主はいよいよ困ったようで、難しい顔でうめいている。わたしは『ぼんくら』と一括りにされた背高の友人の顏をもう一度覗き見て、コルネリウスも行こうか行くまいか、やはりどうにも決めあぐねている心の機微を読み取った。
どうしたものかな。……まあ、構わないか。
「魔物が現われないのであれば僕は行っても大丈夫だと思うけど」
わたしはぽつりと言った。
わたし以外の三人がその目を丸くしている。特にコルネリウスの驚き顏ったらない。
「おいおい……おいおいおい。本気で言ってんのか? 考え無しで動いたらどうなるかよく知ってんだろ?」 俺を見ろ、とコルネリウスが自分を指差す。
「うん。けど、お陰でどこに踏み込めば危険な目に遭うかは少しは分かったつもりだよ。それにやっぱり腕を試してはみたい。去年のコールの気持ちが今なら少しだけ分かる」
「お前……親父さんにはなんて説明するつもりだ?」 コルネリウスが心配そうな顔をする。普段は見せない、兄貴分の顏だった。
「夕方までに戻れば大丈夫だよ。それか……この道具屋のおじさんに話を通しておいてもらうとか。どうですか?」
店主の男はしきりにうなずいている。話がうまく転び、喜色満面といった具合だ。
「そこら辺は、おう、俺に任せてくれ。手八丁に口八丁で上手く丸め込むからよ」
「いえ、丸め込めなくていいので上手く説明を……」
「あたしも行くわよ」 アーデルロール王女が腕組みのままでわたしを見る。相変わらず憮然というか自信に満ちた顔つきだ。
「勝手をして大丈夫なんですか?」 恐る恐るにわたしは訊いた。
「別に。散歩だと思えば大したこっちゃないわよ。夕方までとは言わず、お茶の時間までには戻れるかもね。なんてったって、このあたしが居るんだから!」
上体を反らせ、王女が勝ち誇るように言った。西から吹く風にポニーテールが揺れている。
確かに彼女の力があれば、予想外の戦闘が生じた場合にもわたしとコルネリウスの二人よりもずっと手早く片付くだろう。アーデルロールを同行させるのは良い案だ。
振り返る。一方でコルネリウスはいまだに渋い顔をしている。
「出発はいつなんだ?」 コルネリウスが店主に尋ねた。
「早い方が助かる。場所はここから三十分も歩いたところにある洞窟だ。街道に看板が立ってるから、道に沿って行きゃあすぐに分かるはずだぜ」
「じゃあ、行こうか。あ、でも装備が……」
「その心配は要らねえ。ほらよ」
言って店主が店の中から鉄製の剣を二振りと短剣を一つ。それから木製の丸盾と槍を一本取り出した。わたしたちが了承するのを知っていたかのような用意の良さ。そしてそれぞれの得物まで把握していることに、思わず苦笑をしてしまった。
「準備がいいんですね」 受け取りながらにわたしは言った。
「だろう? ま、ひとつ頼むぜ」
いまや店主の顏に憂いの影は無く、接客用の笑顔が全面に打ち出されていた。
現金な男だ。商人はこうでなくては務まらないのかも知れないが。
「やるわよ、あんたたち」 アーデルロール王女が不敵な笑みで言う。
「まさかユリウスが言いだすなんてな。明日はきっと雪だぜ」
「行って帰るだけだからね。簡単なおつかいだ、さっと終わらせよう」
わたしたち三人は顏を向き合わせ、互いにうなずくと武器を手に握った。
◆
店主の言葉の通り、街道を南へ行くと曇り空の下にぽつりと孤独に立つ看板を見つけた。屈みこんで見てみると『南→野草の洞窟』と記してある。長く風雨にさらされていたからか、字はかすれつつあった。
「こっちで合ってるみたいだな」
「そうだね。三十分もかからないと言っていたからきっとすぐだ」
「ねえ、ちょっと。ビヨンは連れて来なくて良かったの?」 アーデルロール王女がわたしへと問いかけた。
それは……と、わたしは口ごもる。
ビヨン。きっと彼女はコルネリウスかわたしの妹か、そのどちらかから今日の冒険のことを聞かされるだろう。そうして羨み、次の瞬間には「どうして誘ってくれなかったんだろう」と考え込むか、わたしの家に駆け込み、冒険について質問の津波を浴びせてくるに違いない。
「悩んだけど……。僕はあまりビヨンを危険に連れ出したくはないんだ」
「なんでよ?」 王女が不思議そうに言う。
「ビヨンはとっさの時に身を守れないから」 わたしは首を傾げる王女に言葉を返した。
「あいつは魔法を勉強してんだろ? 身を守れないってこた無いはずだぜ」
「……はっ! ははあん。分かったわよ」
アーデルロール王女がにやりとし、革製の手袋で覆った右手の指先でわたしを指す。
「あの子が心配なのね。大事な女の子がケガをすんのを見たくないんでしょう」
「それはそうだよ。ビヨンは大事な友達だ。霧の日の森で味わった死にかけるような思いはもう二度として欲しくない」
「俺はどうなんだよ?」 たくましい友人が自分を示して言った。
「コールは強いから大体の場合は逞しく生き残るでしょ」
「強い!? いやあ、相棒は見る目があるな。誉められると照れるぜ」
「あたしより弱いけどね」 王女がぼそりと言う。
「うるせえうるせえ。聞こえねえよ」
「聞こえてるじゃないか」 わたしは笑った。
「そもそも魔法はインチキだぜ。戦士なら戦士らしく、鍛えた体だけで勝負するべきだろ」
「前も言ったと思うけど、切れるカードは多いに越したことないわよ。それにガリアン様の時代から騎士や剣士は魔力で身体強化をするっていうのが常識だったんだから、あんたがおかしいのよ、コール。頑張って魔法を覚えることね。死んでからやっとけばよかった~、は遅いわよ」
「……けっ、気が向いたらな」
街へと進むのとは全くの真逆の方向に街道を進み、点々と設置された立て看板の指示に従い歩く。視界の先には背の低い山があり、半ばより崩れ落ちた古代の塔が木々に埋もれていた。
他愛も無い話に耽っていて正確なところは覚えていなかったが、確かに道具屋の店主の言葉のとおり、三十分前後で到着したように思う。
「着いたみたいね。ところであれ何?」 王女が遺跡の塔を指していった。
「遺跡みたいですね」
「はーん……こっちにもあるのね。ああいうのってパッと見じゃいつの時代の代物か分からないけど、ロマンがあるわよね」
「同感。僕は歴史が好きだな」
「語ってないでいこうぜ、相棒」
剥きだしの山肌に洞窟の口がぽっかりと開いている。
入口には『野草の洞窟』と記された板が張り付けられていて、内部の壁には等間隔で明かりが灯っていた。ろうそくではない、光魔法による照明だった。それらは細長い形状をしていて淡い光を放っている。
すぐ傍で金具の音がした。コルネリウスとアーデルロール王女が武器を手に握ったのだ。
「さあ、やるぜ」 コルネリウスがいよいよ闘志をむき出しにした。
「倒した数で勝負よ」 王女が短剣を素振りする。
「二人とも、これは薬草を持って帰る仕事だよ。疲れ切って僕だけが運ぶのは嫌だからね」
口をとがらせて念を押すわたしへ二人は向き直り、口を揃えて「おう!」と元気のよい返事をしてくれた。
しかして、あらゆるすべての面倒をわたしが引き受けることになる予感がどうにもしてならない。
「まったく……頼んだからね、もう」
腰のベルトに差していた鉄の剣を抜き、わたしは左腕に盾を固定する革のベルトを通した。と、不意に、頭の奥で誰かが呼ぶ声がした。
◆
肉を――筋繊維を裂く、一瞬の強い抵抗と分かちがたい塊を無理矢理に二分する暴力の感触が、鉄製の剣を通して伝わる。
短い悲鳴をあげ、ねずみと呼ぶには随分大きな獣が地面に倒れた。わたしが切り裂いた傷口から赤い液体がどろり、と流れ始める。
一年前の霧の日。牛頭の怪物と戦ったあの時に比べれば、これらの小動物を相手にしての戦闘など全く問題がないものだった。
わたしが驚いたのは巨大化した野生動物ではなく、愛想笑いとごますりの手で近寄ってきた道具屋店主の話と実際の洞窟内部の様相がまるで違うことだった。
「次から次へと出てきやがるな、とっ!」
壁面の照明の明かりで牙を閃かせ、こちらへ向けて一直線に駆け走る小型犬ほどもあるねずみの横腹へとコルネリウスが手に持つ槍の刃先を突き刺した。
鱗もなく頑丈な外皮を持たないねずみが甲高い声を立て、びくりと大きく震えると動かなくなった。
「あたしは退屈しないからいいけどね」
アーデルロールは右手に握った直剣だけで獣を相手にしている。左手に握る短剣はリーチが短く、当然として獣と肉薄をよぎなくされる。それは彼女にとってはどうにかして避けたいらしい。嫌悪の顔のまま、直剣を上下左右と自在に操り、迫り来る獣の急所へとほぼ的確に攻撃を加えていた。「ああ、やだ、何よあれ」
突然に王女が引きつった顔をする。視線の先に馬の脚ほどの幅のある物体がうねうねと身を揺らせていた。棒のような胴体は長く、足らしき部分は地中に埋まっていて目には見えない。頭頂部では数本の触手が胴体同様にぐねぐねと蠢いていた。
「おええ……気持ち悪い……」アーデルロールが率直な感想を口にする
「あれはミミズですよ」 わたしは見たままを彼女に伝えた。
「見ればわかるわよ! 大きくて気持ち悪い、何であんなのが生きてんのよ。冗談でしょ」
嫌そうに目を細めながらも、王女は片手に握った剣を器用に振るい、幅広く巨大なミミズを葬った。緑色の体液が散り、アーデルロールが「ぎゃああ! 最悪、もう最悪!」と足をばたつかせて距離をとる。
ふと、魔物と野生の獣を区別するものとは何だろうか。
わたしは今になってその疑問に思い至った。霧の中より現れる異形を<魔物>と呼び、こうした人里離れた土地に元より巣食う生物は違うという。
人に害をなすのであれば、獣も魔物も同一ではないか?
洞窟を進んで三分も経たないうちに、彼らはわたしたちへ襲い掛かってきた。
武器の扱いを知らぬ者であれば即座に逃げ出しただろうが、剣を知っているわたしたちは獣を蹴散らし、壁に備え付けられた魔法の明かりを頼りに洞窟を進んだ。
内部はひたすらに一本道。言うなれば原住民であった獣たちは壁に空いた細々とした小さな穴から現れるようだった。こうしている今も暗がりで黄色い瞳がわたしたちをじっと見つめている。
そんな彼らもようやく、自分たちでは敵わない相手だといい加減に気付いたのだろう。仲間の遺体のそばで鼻をひくつかせた個体がキイキイと甲高い鳴き声をあげると、それっきり襲い掛かってくることはなかった。
「十匹はやったわね」 誇らしげに王女が言う。
「俺は十一匹だ。へ、勝ったな」 コルネリウスは自慢げだ。
「あら。数え直したら十五匹だったわ、ごめんなさいね」
「てめえ、そういうのは無しだろ! 無し!」
「着いたみたいだよ」
ゆるやかなカーブを曲がると開けた場所に出た。ドーム状の空間でいて、地面に作られた長方形の区画に緑色の野草が生い茂っている。きっとあれが薬草だろう。
広間を見渡すと小さな小屋が見える。中を覗くと仮眠用の寝袋に保存のきく食糧、それに自衛用だろう剣や斧に盾といった装備があった。ここは緊急時に使用をする小屋らしい。
わたしはその中の鉄製の盾に注意を引かれ、腕に装備した木製の盾と交換をしようかとも考えたが、この少年の体では自由に振り回せないだろうと思いとどまった。
「ユリウス、川があるぜ! こっちに来いよ!」
コルネリウスの呼び声が聞こえた。彼の方へと歩くとさらさらとした流水の涼やかな音が耳に届き、もう数歩を進むと確かに小川が流れていた。
「これ……飲めるのかな。どこかの排水だったりしない? ……ってああ、もう」
飲み水に適しているのだろうかと疑問に思ったが、わたしがそれを口にする前には王女とショートヘアの快活な少年は川の水で喉を潤していた。
「ぶぁっはぁ~~っ! 生き返るわねぇ! 喉が渇いていたからもう最高よ!」
「お腹を壊しても知りませんよ」
「平気よ、平気。王家の胃袋をなめんじゃないわよ」 王女は再び川の水をすくうと無心でその細い喉を鳴らしている。
微笑ましい。そう思った時、不意にずきり、と疼くような痛みを頭に感じた。
洞窟に入った時にもわずかに感じた痛みだったが、痛覚がひらめく度にそれは鋭く、明確になっていく。
必死に別のことを考えた。薬草を持って帰った報酬、イルミナに与えられた課題、父より学んだ素早い剣技<瞬影剣>のコツ、母のオムレツのにおい。そうして頭痛を意識の外へと追いやり、わたしは背後の薬草の山を振り返る。
「さ、僕は仕事を早く終わらせたいな。人里離れた場所で見る川には良い思い出がひとつも無いんだ」
牛頭の怪物、ミノタウロスの巨大な体と閃く暴力が脳裏に浮かぶ。
濃霧に覆われた灰色の世界はしばらく見たくない。
「ここには怪物は出やしねえから大丈夫だろ。やたらにでかいミミズは出るけどよ」 コルネリウスが勇気づけでもするように、わたしの背中に声をかけてくれた。
「ところで魔物と獣の違いってなんだ? 獣人ってのも居るんだよな?」
「さあ、僕もさっきそれを考えたけどやっぱり分からなかったよ」
わたしは小屋に保管されていた大きなリュックを二つ持ち出し、野草の群生するそばでリュックの口を開くと状態の良い薬草を引き抜き、中に放り込んだ。
こういった野草の知識はわたしには無かったが、植物が欠損しないように採取をしておけば大丈夫だろうと考える。『状態の良い』なんて枕においたが、正直言えば当てずっぽうだ。ぶちぶちと次々に引き抜く中、わたしは根を張った大地より引き抜かれると同時におぞましい悲鳴をあげるマンドラゴラという植物があるのだという今朝の新聞の見出しを思い出していた。
………………
…………
……
「魔物ってのはね、何かこう、自然にいなさそうなやつよ」
「あん? 曖昧でよく分かんねえよ、それ」
後ろではコルネリウスとアーデルロールが魔物について言葉を交わしている。わたしも参加をしたかったが、薬草を採取しないことには大手を振って街へと帰れない気がしたものだからわたしは一心不乱に採り続けていた。
ぶちり、ぶちり。
「だからあ……あんたらが戦ったっていうミノタウロスが居るでしょ? あれは魔物よ。霧の中で突然に現れたっていう報告は他でもいくつもあるし、魔物の図鑑にも載ってる」
「そりゃ図鑑は見てるさ。丸暗記ってわけじゃねえけど、あの牛野郎が載ってたのは覚えてる。ただ……見てくれは言っちまえば、亜人だとか獣人とそっくりじゃねえか」
「あんた、それを町中で絶対言うんじゃないわよ。誰が何を聞いてるんだか分からないんだからね、差別だ! って言って怒られるわよ」
なら怒られねえように説明してくれ、とコルネリウスが拳を鳴らす。
「亜人は私たち、純人間の種族と〝霧払い〟の時代に同盟を結んだ種族よ。目立ったのだと、そうね……。
ウサギの体に強靱な戦士の肉体をもつ<ラビール族>、
強い魔力と賢さをもった長命の <エルフ族>、
治金に製鉄技術はお手の物 <ドワーフ族>、
大きさに大小はあるけど <巨人族>、
砂漠のオアシスで暮らす大角の種族 <ヴァーリン族>。
こんぐらいかしらね? あ、他にもいっぱい居るわよ。馬頭に人間の体をした人に、木漏れ日に隠れる人たちに水棲種族……」
「わかった、わかったよ。人間と仲良くしてるのが亜人で、敵対してんのが獣人ってことか?」
「ま、そんな感じね。亜人以外の……これ、内緒にしてよ? ごほん、半人間や文明を持った種族のうち、純人間と亜人と敵対をしているのをひとまとめに獣人って呼ぶわ。ま……差別だな、って思うけど」
「なんつうか人間の見方ひとつっつうか、仲間の輪に居ないから敵と見てるって感じか」
「間違っちゃいないと思うわ。お互いに殺し殺されて千年も経ってるから、今更仲良しこよしは絶対にムリね。獣人は、豚面の<オーク>に水中に潜む<サハギン>……。さっきに挙げた亜人も、細かく見れば――例えば巨人族の一種族は人間と敵対しているって場合もあるから判断がムズイわよ」
なるほどな、とコルネリウス。
「率直に言って、覚えんのが難しい」
「何それ? ああ、黒髪のマネ? あいつ、よくそれ言うわよね」
言う言う、と笑う声がする。人でからかうのなら作業を手伝って欲しい。率直に言って腰が痛い。
「でね、魔物に話を戻すけど、要は図鑑に登録をされてなかったり、その土地土地の生態系を無視してそこに居るような……つまり不自然なやつのことよ」
「例えば?」
「あんたは例を聞くのが好きね。そうねえ……例えば、あんたらの住む<リムルの村>の近くにあるあの森。霧が出たとして、あの森にいきなり鉄の巨人が現れたとする。そんなの今まで居たことなかったでしょ? それが魔物よ。馬鹿でかい虎でも、頭が猫で体がヘビの化け物でもいいけど、その場にそぐわないやつ」
「確かにそりゃあ滅多に居ねえな。……居ないはずの場所に現れて、不自然で不気味な見てくれをしていやがったらそいつは魔物ってわけか」
「常日頃からその生き物がそこに居るって世間で認識をされてるんなら、そいつはそこに暮らしてる生き物だって判断されるから魔物じゃないわよ? 結構難しい話なのよ、学者でさえ『こいつを魔物として見るべきか、いやしかし……』なんて、うんうん唸ってるんだから」
わたしは一息をついた。少しは話に加わりたいと思い、汗みずくの顔で振り返る。
「その場に存在しないような生き物や架空の生き物を出現させる……『霧』っていったいなんなんだろうね?」
「それが分かったらこの世界の誰もが苦労してないっての。あんたはせっせと薬草を集めてなさい。ほれ、しっしっ」
……やれやれ。
◆
「ご苦労さん」
すっかり活力を取り戻した二人が額に汗を浮かべるわたしを見下ろしている。
「荷物は俺と……ユリウスが持つんだよな」 不満げな顔のコルネリウスがわたしに言う。
「どうしてあたしに聞かないのよ」
「お前は絶対に持つ気が無い」
「よく知ってるじゃない。人の性格を掴むのが上手いわねぇ、金髪のっぽ」
「はいはい、どうも。じゃ、帰ろうぜ」
「うん」
わたしは流水で顏を洗い、入口へと続く洞穴を何気なく見た。
なぜだろう。そこには違和感があった。空気がよどんでいるような、そんな気が、確かに――。
遠目に見える洞窟の照明は薄暗く、通路の突き当りの壁はほとんど暗闇に見えたが何かが動いたように見えたのだ。散々撃退をした野生動物たちだろうか? それにしては随分と大きかったが。
絶え間なく灯っていたはずの照明がぱちぱちと明滅した。胸の中でうずまく違和感と相まって相当に不気味だ。
気付けば音が無い。やけに静かでいて、気持ちも心も恐怖に冷える。
「ねえ、入口の方に何か見えない?」 わたしは不安を殺しきれず、同意を求めるように仲間へ疑問を振った。
「いや? 特に何も見えねえけど……」
「待って。確かに何か居るわ」
王女の言葉にわたしたち三人の身が強張った。
瞬時に腰の剣へと手が行くようになったのは訓練の成果だろう。
視界の中で黒い影が揺れている。
「人かな?」 目を背けないままにわたしが言う。
「大人の男に見えるわね。ちょっと! あんたいったい誰よ!?」
「店主のおっさんだったりしてな」 コルネリウスが楽観的なことを言う。が、彼もまた自分の意見が的外れであることぐらいは分かっているはずだ。
「そんなわけないでしょ。気味が悪いわ。小屋の影に隠れましょ……う……」
どさり、とアーデルロールがその場にくず折れた。
背筋に冷や汗が噴き出した。うつ伏せに王女が倒れ込む。その胸は上下していて、息はあるようだ。
コルネリウスが真剣そのものの顔で入口を睨んだ。
遠目に見えた黒い影は着実にこちらへと近付いており、影の輪郭は人のそれであるとはっきり分かるまでになっていた。
「この野郎! いったい……何だってん……だ……」
影を睨んでいたコルネリウスまでもがどさり、と倒れ伏した。
上下にゆっくりと胸が浮き沈むさまは、まるで眠りに落ちているかのように規則的だ。
「魔物? それとも……獣人?」
薬草を摘んでいた背中で聞いていた話が脳裏をよぎる。あの話が試練の前触れなのだとしたら、どうにも都合が良すぎる。災難だがよく出来た話だ。
「参ったな。信じられない。霧は無かったはずだ」 言葉が口をついて出るが、わたしは決して冷静ではなかった。
わたしの胸が緊張から激しく鼓動している。
洞窟の暗がりから目を逸らせない。人影は巨大だった。何かを引きずっている。風もないのにはためくそれは外套だろうか?
わたしと眠りに落ちた二人の友人とが居るこの広間へと影はついに足を踏み入れた。左右に大きく肩を揺らし、泥のような闇を引きずり、這うに似た歩みでゆっくりと近付いてくる。
明かりの中に居るというのに、影の顏も姿の詳細もはっきりと見えなかった。
全体がひどく黒ずんでいて目を凝らしても正体が分からないのだ。
「嫌だ……畜生、くそ、来るな……! 来るなよ!」
剣を持つ手は情けなく震えていた。金具の音がかたかたと小刻みに鳴る。
かつて怪物と対峙した時にはあれだけ勇猛果敢に挑めたというのに、どうして今、得体の知れない影を前にしただけのこの手足は震えているのだろう。
いっそ二人のように眠りに落ちれたら。
足の爪先から死霊の手が這い上がるこのおぞましい恐怖は消えてなくなるのに。
そんなことを思うが頭を振って吹き消した。
屈してたまるか。わたしは奥歯をきつく噛み締める。
影は前のめりになり、時折よろつきながらもこちらへ向かって歩いて来る。
ひたり、ひたり、と幽鬼の足取りで近寄るさまが途方も無く恐ろしかった。
真っ黒な影の口が三日月の形に開かれた。
汚らしい歯がにちゃりと粘着質の音を立てる。
影が体を伸ばし、わたしの顏の傍に闇色の頭部を寄せた。
わたしの目の前に人の顏の形をした闇がある。目と鼻の距離に近付いたが影からは呼気を感じなかった。
心臓が恐怖に破裂しそうだ。
わたしの呼吸は乱れ、緊張からだろう、意識が明瞭ではなくなりつつあった。
あるいは無意識のうちに体が意識を途絶させようとしているのだろうか。
この影は途方もなく不気味で、異質だった。
ぼそぼそとわたしの耳元で陰鬱な影が何事かを呟いている。
影はそのおぞましい口を更に近づけてくる。わたしは身動きを取れなかった。聞きたくもないのに、言葉が耳を犯す。
「……った……難い……の……今こそ……」
言葉が徐々にはっきりとしてくる。わたしの手足がひくつきだす。
「永かった……。余……の頭上に瞬く星座は幾度も顏を……変え……。そ……は、凍て空の風の香も忘れるほど……に。さあ……さあ、今こそ」
〝運命を回そうぞ〟
わたしの鼻と影の真っ黒な鼻がぶつかりそうなまでに密着した距離。
闇はその目を突然に見開き、己の持つ鮮やかな夕焼け色の瞳をわたしに向けて晒した。
わたしの意識はわたしの中を覗きこもうとする鮮烈な陽の色に飲まれ、そうしてわたしの世界は終わった。ただ静かに……灰色の音と夜の闇に眠るのだ。
◆
望め、抱け、願え。
あんたの中にはなんにも無いのだから。
あんたは逃げられない。
怯懦と驕慢の糸にがんじがらめにされた、哀れな糸人形。
あんまりにも絡まっているものだから、身動きひとつ出来やしない。
あんたの自由になるのはお日様みたいな綺麗なお目目だけ。
けれどもそれも夕焼け色だ。間もなく夜がやってくる。凍える夜が。
因果、因果、因果。
巡れど巡れど……ふふ、またここなのさ。




