188. 竜の奸計
「始まったか……」
事の始まりに気づき、呟いた男、ルイルは<トールエルフ>という長命種の中ではまだ50歳を過ぎたばかりの年若い青年だった。
愛と豊穣の神ルピスの伝説が深く根付いた竜王国に生きる彼は愛神に憧れを抱いて育ち、やがて成人の日を迎えると神殿入りを希望した。愛神の伝承を保持し、研究をおこない、信仰をつなぐ神官となることが夢だった。
だが神殿は汚れていた。
王宮の決定に干渉することさえもが可能な神殿という組織は権力と金にまみれていたのだ。
欲の怪物は肥大化を好み、より大きくなろうと仲間を探す性質をもつ。竜王国の中でも名家の一端であるルイルが欲の怪物に目を付けられるのは避けられないことだった。
それからしばしの時を経た今もルイルは悔いている。
自分が拳を置くテーブルと杯に満ちる茶の表面が揺れるたび、抜け出ることのかなわない沼に浸かった身と背徳の罪悪感に胸が詰まった。
いましがた王宮全体をかすかに震わせた振動。このささやかな揺れに気が付いた者は大半が、いやほぼ全員がとても程度の低い地震だと思うだろう。実際のところ揺れがおさまれば数秒で忘れてしまうようなものだった。
王宮に用意された小さな一室。暗い一室に集う老エルフどもにとっては違う。
彼らはこの揺れを期待していた。もっと言えば彼らはこれが起こることを知っていたのだ。古木のような<トールエルフ>らにしてみれば、自らが発生を仕向けたこの揺れは変革のはじまりを告げる号砲だった。
「客人の寝室が崩れ落ちたようで」
「王宮を崩すことを許すなど大胆な……。〝霧払い〟の連れを手にかけるとんだ悪徳に比べれば小事でしょうけれど」
書棚の背表紙がかろうじて読める程度のぼんやりとした灯りに照らされながら木々が言う。
灯りの明度が低いのは参加者の身分を明かさぬためだろうが、そう顔ぶれの変わらない集いにあってはさして意味も効果も無い。おおよその背格好がわかれば名も分かる。そも名前など意味は無いとルイルは思った。今この場にいる誰しもが裏切り者の一言で区別できる。
「確かに。しかし悪徳とはやはり甘い。癖になりそうだ」
言葉をあわせたルイルの顔は苦々しい。自分もこの企みに加担していると、そう自覚をすればこその険しい表情だった。
父母に妻子。そして家と血。それらに害がもたらされる遠くない未来と信仰への裏切りを天秤にかけ、彼は前者を守る道を選んだ。
人は想像の及ばぬ大よりも、近しく見知った小を尊ぶという父の言葉を思い出しながら。
「しかし本当に良かったのか? 私はこの行いのすべてを肯定できません」
「大戦の戦友たる魔術院からの要請なれば無視はできん。それも誓約の印を使用してのことだぞ?
拒否をすればどうなることか。古来より連中は手段を問わぬのだ。塔の運用に干渉する可能性さえある」
「干渉されたとてどうということもあるまい。王宮外部や市街のような継ぎ足しは崩れもしようが、塔自体を崩せるわけではないのだ」
「制御を奪われる可能性もあるが……」
「魔術院は良い。好きにやらせておけ。
それより諸君はあれらの先行きに期待をもてたかね?
〝ウル〟のような剣気はなく、万魔に匹敵する魔も見えぬ若造に。
わしは期待をできんかった。そうとも、あれが英雄なものかよ。破棄すべきだ」
「神官長閣下……」
その<トールエルフ>は指を曲げればぎしぎしと樹木のきしむ音が関節から鳴り、乾いた唇がつむぐ音はどれも枝葉のざわめきのようにか細い老体だった。
名はフレシャスビル老。竜王国に座す神殿の長、神官長の席に数世紀にわたって座り続ける汚れた欲の怪物の頭。
時に巫女の手綱さえもを握る彼はガリアンが霧を払った時期には既に生まれていたという。
当時はまだファイデンは無く、塔群を占拠していたのはフィッツランド王国だった。
あの霧の時代。いくつもの国が滅び、無数の命が散ったあの熱狂を生きたのだ。
彼の中に芽生えた『英雄かくあるべし』という理想像は確固たるものなのだろう。
でなければ、ふたたびこの世界を覆う脅威の霧を払える可能性をもつアーデルロールをはじめとした一行を堂々と否定する言葉はでなかろう、とルイルは思う。
フレシャスビルも若い頃は賢者とされた。かつては他者の意見を聞き入れる柔軟さもあっただろうが、老いた今では身のうちに抱えた傲慢があまりに重く大きく育ってしまい、時代の流れに対して頑なに逆らう古い岩だった。
王国において彼は良くも悪くも根を張り過ぎていた。人が刻んだ年輪の数はひいては現在の発言力に結びつくものだ。
「魔術院の刺客ですが闇討ちを果たせますでしょうか?
相手は仮にも精王の試練を超えた男とききます。王宮ごと崩して落下させるという話でしたが、途中で飛竜に拾われて生き延びるのでは……」
「それこそ万が一であろう。普通の人間はそう幸運に恵まれはしない。
仮にしくじったとて刺客は数で攻める。それでも命を拾うのなら二重三重と罠を仕掛けて狙えば良い。どうせ魔術院の仕業としか思わんよ」
老獪な彼は竜王国のあらゆる場所・人・事態に対して口が利く。
これまで交わした貸しと義理、それから少しの力と悪徳で暗い欲望を何度も満たし、また同時に身の危機を乗り越えてきた。
たとえば神官長の椅子を狙う候補者の始末や権力者への強請り、あるいは他国との関係の構築。
とりわけ蜜月の関係である〝五神教〟本拠地の神聖国とはルピスとの縁もあり、長い人生をかけて丁寧に、かつ、密に仲を育んできた。
「おっしゃる通りです、老」賛同の声が続いた。
「まずはみすぼらしい連れからという点も流石の慧眼。お見事かと」
「なにやら耳にしたところでは槍使いの若者はあのパステルナーク卿と渡り合ったとか。
そして魔法使いは厄介なイルミナ・クラドリンの弟子という話。とんだ爆弾だ」
「であればあの出自の無い田舎剣士から事を始めるのが妥当ですな。なるほど」
「しかし精王の試練など……。ふっ、本当に存在するのですかね?
精王はこれまで語り継がれるだけで誰も姿を見たことがなかったではないですか。
南の地では炎の槌が振るわれたと聞きましたが集団幻覚では?」
「いや、精王は居る。伝説は確かにある」
老木の言葉に嘲笑がしずまった。
「ガリアンや初代の〝四騎士〟、精王らは決して空想のものではない。
この世に実際におった者らだ。
わしは彼らに対して今なお深い敬意を変わらず抱いておる。だからこそ現状が許せぬのだ。あの娘……アーデルロール・ロイアラート。
がさつな物言い、立ち振る舞い。いかにも霧臭い北の人間だ。
やつの祖父、あのレオニダスを彷彿とさせる。まったく忌々しい。
そも、ガリアンが振るった〝聖剣〟が北の者の手中にあることをわしは認めていない。
直系の血がなんだというのか? 大魔を討ったのは奴らの初代王であろうが」
室内に魔力が満ち、ぱちりぱちりと冷たい色の光が火花となって弾ける。源は老人の感情だった。
握り込んだ拳は怒りに震え、唇は神経質そうにひきつっている。
フレシャスビル老の落ち窪んだ目元をちらと盗み見たルイルはそれを冷酷な目だ、と思った。この老人がこうして苛立った後には決まって誰かが姿を消すことを彼は知っていた。
飛竜隊の密偵、帝国の調査団、ルヴェルタリアの冒険騎士、ファイデンの神官。今回はあの黒髪の剣士が消される。若い命が失われることを思い、心中で静かに十字を切った。
「そも人間が神具を扱うなど土台無理な話だ。命にはそれぞれ身の丈というものがある。
〝聖剣〟は神に選ばれし英雄の手にあってこそ価値を発揮する。
教皇殿の提案を我らは呑む。彼女から剣を奪い、神聖国に譲ろうではないか」
「譲るとは? 神聖国には〝聖剣〟を扱える人間が居るのですか?
失礼ながら〝霧払い〟の直系で扱えないのであればどのような者にでもかなわないと……」
「おらんよ。そのような器の持ち主はこの世のどこにもおりはせん」
老ははっきりと否定した。口元はたくらみを思いついたようににんまりと端が吊られている。
「居ないのであれば呼べば良い。神聖国には門を開く機能がまだあり、そして門の先との縁は剣にある」
「まさか……それは」
「英雄召喚だ。ガリアンをふたたび呼ぶのだよ。彼が、彼しか討てぬ仇敵。大魔の霧が満ちつつあるこの世界にな」
………………
…………
……
「痛……」
口元に大量の埃が触れる不快感で目を覚ました。
額と首がなまぬるい。物騒な具合に周りに散乱した木片を見てきっと血だろうなと思った。
そばにはベッドシーツと服をかけるハンガーによく似た金具。
起き上がりながら直前の出来事をわたしは思い返した。
「ベッドで眠ろうと思ったら部屋ごと切り落とされた。
夢みたいな出来事だけど夢じゃないっていうのがな……事実は小説よりも奇なりというか」
落下の間際に部屋の断面からこちらを見下ろす人影が見えたような気がする。
あくまで『気がする』だ。数と人種まで把握していないが、もし本当に居たのならわたしたちを狙う勢力がこの竜王国に居るということになる。
まさかこんな事が……いや、イルミナが刺客のことを口にしていたじゃないか。予想できた事だ。
「あいつらが例の魔術院の刺客か……? だとすれば合点がいく。
アルルは出発も旅の目的も変えないだろうから、連中への対処は僕たちの役割だ」
首元をさすった手を確かめると血で汚れていた。全身に痛みはあるが動けないほどじゃない。
荒唐無稽な記憶をさらに掘り返す。
眼下に夜の山岳部と他の塔群の表面できらめく市街区をおさめながら高空を落下する最中、少しでも事態に対処をしようとベッドシーツをパラシュート代わりにして滞空を試みたが失敗し、塔の周囲を哨戒していたらしい飛竜の群れの中に頭から突っ込み、いつの間にか手にしていたハンガー型の金具を使って運良く出会ったゴンドラのロープを掴んで器用に滑り落ちたところまでは覚えている。
きっとそこでこのどことも知れない廃屋に突っ込んでしまったのだ。
よく見れば体の下には汚れたマットレスが山と積まれていた。天井の穴から射し込む光で見えた近くのチラシには『オズワルド寝具店 閉店セール』と書かれている。
「幸運なのか頑丈すぎるのかちょっと分からないな。
ん……?」
閉店したとおぼしき建物内に人の気配が突然湧いた。
一般人のそれではないと一瞬で知れる。戦う人間がまとう気配だ。
開いたままの扉、階下へつづく階段、窓枠を乗り越えて姿をあらわしたのは黒いローブで身を隠した人間たち。
裾から覗く手からは金属製の手甲が見えた。
「物騒ですね。死体を確認しにきたのなら残念でした」
彼らから視線を外さず、腰に帯びた剣へと習性的に手を伸ばす。
が、そこには何もなかった。背筋を冷や汗が伝う気持ちのまま何度か手を腰に向けてぱっぱと振ったが何もない。
「──しまった」
そうだ。王宮の使用人らに装備の一切を預けていたんだ。
今の自分は寝巻き姿に素手。相手はこちらを殺す気で姿を晒した刺客たち。
考えるまでもない。どう考えても窮地だ。
「えっと……話し合いませんか?」
剣を抜く音が答えだった。どうやら穏便にはいかないらしい。




