183. 塔群の夕景
戦闘後に治療・回復の処置を受けたとはいえ、三人の中で身体の状態がもっともマシになっていたのが、戦闘中に手首と指が砕け折れ、肩をバッサリと裂かれていたわたしだというのは自分の事ながら妙な話だった。
「ユリウス、お前身体は大丈夫なのか?」
「そうだよ! バッサリいったって聞いて……うち……」
どこからか聞こえる鈴――霧の出現を告げる霧の探知機――の音がか細く鳴り続ける中で、兄妹でもないのにそっくりの髪色の二人が言う。
「霧があるとなんだか治りが早いんだ。
大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
そう話すとコルネリウスは安心をしたようだったが、ビヨンの方は俯いたままだ。
「ビヨン、歯噛みしてどうしたの?」と、話を向けると彼女はエメラルドグリーンの瞳を左右に彷徨わせ、それから「あー」だとか「うー」とためらいを見せてから、少しだけ突き出した唇の隙間から声を発した。
「……ごめんね。
首がビリっとしたら気絶しちゃって、戦えない状態になっちゃったから……」
「ビヨン……」
「悔しいなって、すごく思った。はあぁぁ……」
重たげな溜息が足元に落ち、周りに立ち込める霧の灰に混ざっていく。
これが普段なら調子の上がるような言葉のひとつやふたつを掛けるのだが、パステルナークとの戦いで自分の至らなさと不甲斐なさ、覚悟の不足を思い知った今のわたしからはそれらの言葉が出てこなかった。
三人の間ではあまり無い、妙に気まずい静寂を打ち破ったのはコルネリウスだった。
「俺だって思うところはあるがよ、霧が出てる中で反省会はやめとこうぜ」
手にまとわりつく霧を指ですくい、渦を描きながら言う。
「王宮塔だったか? さっさと俺らを呼んでる場所へ行った方が良い」
「そうだね」
「だろ? そんでもってどうにも本調子じゃないから歩きづらいんだわ。
悪いけど肩貸してくれないか?」
「ん。分かった。じゃあ僕の首に腕を回して」
「あっ、じゃあうちも!」
「『じゃあ』ってなんだよ」
そうしてわたしはビヨンとコルネリウスの二人に肩を貸して、塔の壁面に築かれた<ファイデン>の街を歩いた。
先ほど出現した霧は相変わらずだ。
高空を渡る風が吹きつけようとも僅かに揺らぐばかりで、街に静寂をもたらしている。
寒々しい光景だった。温もりを覚える色といえば、霧にぼやけて見える人家の明かりぐらいのものだ。
通り過ぎる際に視線を向けた窓の中、カーテンに映る人影を見たわたしは、今はもう失われた故郷が霧に閉ざされた時のことを思い出した。
霧が出るということは魔物が出没するということに他ならない。
森に潜む獣の類とは比べ物にならない脅威に襲われる事態に備え、故郷では大半の人間が家屋に閉じこもり、父フレデリックをはじめとした戦える人間だけが警戒と対応にあたっていた。
旅の中で訪れたあちこちの村や町も同じ調子だったので、てっきり他の国々も――ルヴェルタリアは除く――そうなのだろうと考えていた。
「――そう考えていたんだけれど……、」
どうやら誤った考えだったらしい。
少なくともここ、ファイデンという王国ではどうやら事情が違う。
危険に晒されているということを理解して恐る恐るの様子ではあったが、決して少なくない数の人間が街中を出歩いていた。
みな、一般の人々だ。武器や防具で武装してはいない。
彼らが握るのは買い物バッグだったり紙袋だったり、親しい人の手だった。
「リルムの村で霧が出たらすぐに家に入って戸締りするってのが鉄則だったよな」
「うん、学校でもそう教えられたね」
「そういえば学校の友達は『あたしの家は霧が出たらアツアツのカボチャのスープを作るんだ』なんて言ってたなぁ」
真横でビヨンがぽつりとそんなことを言った。
自分たちを取り巻く霧をぼんやりと見つめるビヨンの視線は、遠い過去を向くように細められている。
そんな横顔にはまだ気落ちした色が残っているように見え、「どうしてだろ?」と話の先を促す言葉をわたしは自然と口にしていた。
「どうしてって、そういうのは大概が迷信かなんかじゃねえの?
母ちゃんはパーティでもやって賑やかにしたら魔物は来ないって言ってたぜ」
「襲ってください、って自分から言ってるようなものだよそれ!
絶対やっちゃダメダメ。絶対ダメ。ええとね。
確か霧は灰色で寒くて気分が落ち込むから、家族みんなの好物を食べて元気を出しながら晴れるのを待つんだって。
それにスープの色が太陽みたいな色をしてるから、ゲン担ぎしてるんだよ、とも言ってた気がする」
「ふーん……」
「反応薄くない?」
「いや、腹が減ってきたなあって」
「僕もそういえばそうかも」
「もう! うちの話ちゃんと聞いてよ!」
「聞いた聞いた、聞いたって」
「あの、僕の耳元で叫ばないでくれると嬉しい。
コールには普通の声の大きさで聞こえるよ」
話している間にもすれ違う人々――<ラビール>や純人間、亜人たち――の表情や行動を観察する。
忙しない視線、緊張した目元、どこかを凝視した時に起こる眉間のしわ。
どれも安心とは程遠かった。
ある者は引きつった顔のまま周囲をきょろきょろと見まわし、おおきな荷物を抱えたある者は怯えた表情をしたまま霧の奥へと駆けて姿を消した。
「十人十色だな。
あそこのおっさんなんか壁に手をついておっかなびっくり歩いてるぜ。
家でおとなしくしてりゃいいのに」
わたしと同じように歩きながら周りを見ていたらしいコルネリウスが言った。
「そうは言っても生活があるんだよ、コールくん。
ねえ、それよりうちらの行く道ってこっちで合ってるの?」
ビヨンがわたしの左肩の辺りでそうこぼす。
おや、そういえばどうだったか……。
頭の中に地図を描き、二人に合流するまでの道のりを思い出す。
そんなに複雑な道じゃなかったはずだけど。
底の見えない灰色の奥から風が吹く。
きい、きい、とどこかの看板が揺れる軋みの音を聞き、
「合ってる……と思う」
たっぷり間を置いてからわたしはそう答えた。
『本当に大丈夫なんだろうな?』と不安になったのは発言者のわたしだけではなく、二人ともだったらしい。
頼りにならないなあ、なんて視線を左右から注がれながら慌てて言葉を付け加える。
「二人を迎えに来た時の道を遡ってるだけだからね。
すぐだよ、すぐ。難しい道じゃないし。ほら、大通りを歩けば大丈夫だから。
ゴンドラ乗り場に着けばこっちのものだよ」
「ほんとかぁ? 相棒が早口の時ってなんか怪しいんだよな」
「いやいやいや」
「しかし、塔か……イヤァ~な記憶が蘇るぜ。
塔で霧っつったら、アルルと合流する前に入った塔での騒動だ。あれはなかなか忘れられないぜ。
もし今の状態で魔物に出て来られたらヤバいぞ。
あのパステルナークのジジイがやったんだとは思うが、武器を没収された今の俺らは素手でピンチを切り抜けるしかないからな」
腰に慣れ親しんだ重さが無いことを自覚すると、どうにも不安な気持ちが増した気がした。参ったな。
「これは……ビヨンの魔法でどうにかしてもらわないといけない状況かな」
「う、プレッシャー……でもそうなったら責任もって頑張るよ!」
気力が戻ったのか、ビヨンのエメラルドグリーンの瞳に輝きが戻っているように見えた。パステルナークとの戦闘で発揮できなかった分をどこかで取り戻したかったのか、頼られると随分嬉しそうにしている。
よろしくね、とやる気のみなぎる魔法使いに言いつつ再び脳裏にファイデンという王国の構造を描いた。加えてコルネリウスたちと合流するまでに出会い、会話した人々の説明を思い出す。
ファイデン竜王国は八つの塔群から成っている。
それは主たる王宮塔、飛竜塔に兵士塔、それから複数の居住塔に工房塔や交信塔……。後は何だったかな。
とにかくわたしたちが今歩いているのは居住塔だ。間違いない。
この塔では『居住』という字面の通りに、竜王国における一般の人々の大半が暮らしている。
国民の多くは<ラビール>族である。純人間や亜人も居るが、彼らのほとんどは移民や傭兵といった外からの流入者だ。
巨大な塔の壁に張り付くようにして建造された街という特殊な性質は、他の国には無い特殊な景観を生んでいるのだという。
「霧が晴れたら観光してごらん」と道を教えてくれた人に言われたので、自体が落ち着いた暁には是非そうしてみたい。
「母さんやミリアに頼りでも送らないとな。ファイデンのポストカードにしよう」
「何を考えてんだお前は。道合ってんのかよ、相棒」
「ごめんごめん。ええと、もうすぐゴンドラ乗り場に着くはずだよ。
どうして分かるのかって往路で傍を通った店がさっき見えたんだ。
もし道を間違えてて、乗り場に全然着かなかったら何か芸でもするよ」
「えっ! じゃあ唐辛子を一気に10本ぐらい食べるあれやってほしいな!」
「こいつが目を見開いたまま失神したのを忘れたのかよ、ビヨン。
ありゃ芸じゃねえ。他のをリクエストしろ。
やれやれ……本当、魔物が出てきたらどうすんだよ。
ああ嫌だ、こういう時の予感って当たるんだぜ、俺」
コルネリウスの予感は本人の言葉通りに当たった。
物陰から飛び出してきた平べったい毒々しい色合いの狼にわたしたちは襲われたのである。
呼吸の度に牙と牙の間から赤い火花をチラチラと散らし、出っ張った眼球をぎょろぎょろと回す姿は一目で霧の魔物だと分かった。
無意識に手が腰へと伸びたがそこに掴む剣は無く、指が空を切る。
隣のコルネリウスも同様で「くそっ」とこぼれた焦りの声がわたしの心と重なった。
ビヨンはと言えば、彼女は事態に対して迅速に対応した。
自由な方の手を突き出すや否や、魔法の詠唱を素早く口にしたのである。
杖でも槍でも構わないが、何か物質を介さずに魔法を発動するのは良くない、と一般には言われている。どうしてかと言えば指向性に難があるのだ。
広範囲に効果を及ぼす魔法であれば大した問題ではないが、雷や炎を直線的に放つ場合は素手での発動は避けた方が良い。
特に手のひらから放とうものなら……ビヨン・オルトーという魔法使いのことをわたしは信用してはいるが、心のどこかではどこへ飛ぶか分かったものじゃないと正直怯えた。
が、結局その魔法が放たれることはなかった。
真上から音もなく飛び降りて来た全身鎧の槍使いが魔物を一撃で仕留めたことで窮地を脱したのだ。
ルヴェルタリア騎士の銀鎧をまとった彼、あるいは彼女は魔物の死亡を確認するとすぐさまに跳躍し、どこかへ消えてしまった。
「手ぇ突き出したまま固まってる場合じゃないぜ、ビヨン」
「あれはうちが一発で倒す場面だったじゃん……!」
「まあまあ、そのうちまた見せてよ。
それより……どうしたんだろ。あちこちから戦闘音が急に起こり出したね」
「急ごうぜ。とっとと移動だ」
途端に増えた魔物とそれを掃討する強力過ぎるルヴェルタリア騎士の戦いを横目にして、わたしたちは灰色の中を早足で歩き進んだ。
塔と塔を結ぶゴンドラの駅舎が近い、と確信したのはにぎやかに騒ぎながら走る<ラビール>の集団を目にした時だった。彼らは「ゴンドラで王宮塔に行こう」「動いてるかなあ?」と口々に話していた。
たどり着いたゴンドラの待機列は随分混雑していた。
高い角の生えた大柄な種族、<ヴァ―リン>の駅員が掲げた手書きのメッセージボードを読む限りでは、敵性飛竜が山の方から飛来してきているのだという。
塔から塔へと渡すゴンドラのケーブルが切断される可能性が大いにあるので運行は見合わせ、と書かれていた。
「相棒はよく乗れたな」
「ギリギリだったみたいだね。良かった」
前後を大量の二足歩行ウサギに挟まれながら待つこと十数分。
母親が背負った赤ん坊の<ラビール>とビヨンが触れあっていると、霧の変化を感じた。
薄らぎ、消えていく。沸き起こった歓声と口笛、安堵の言葉を聞きながら回復した世界を念入りに見まわした。
「誰かが霧の主を倒したな。あのジジイだと思うか? 相棒」
「どうかな……」
黒いコート姿を思い出し、湧いた感情を押し殺しながらわたしは言葉を返した。
運行を再開したゴンドラは待機客を飲み込むように次々に受け入れ、わたしたちも濃茶色の箱に詰められていった。
人間はわたしとコルネリウス、ビヨンの三人だけだ。他はすべて<ラビール>族で占められている。
おおきな窓ガラスから見える塔群はファイデンを初めて訪れたわたしたちにとっては絶景そのものなのだが、住人たちにとってはもう見飽きた光景らしい。
大半のウサギは我先にと座席に座ったり隅に集まると思い思いの時間つぶしを開始した。つまり居眠りに雑談、読書、その他諸々である。
時刻はいつの間にか夕暮れ時。
空には藍や赤、オレンジが混ざり合った昼夜の境の色が映っていた。
ファイデン竜王国は南方大陸の最西端の国であり、その西には大洋が広がる。
期待を込めて視線を向けるとそこには大地が造り出す芸術が存在した。
かすかな曲線を描く世界の淵に沈む太陽が大海原を真っ赤に染め上げ、これ以上ない美しさを見せていたのだ。
ファイデンの低地に存在する農耕地帯や丘や山肌、小さな集落やおそらく港までもが鮮やかな赤に照らされている。
思わず息をのむわたしの横でビヨンがわっと声をあげた。
「うわーっ! すごいね! こんなに綺麗な景色見たことないよ!」
そんな様子が気になったのか、くしゃくしゃの新聞を真剣に眺めていた老いた<ラビール>の男は顔を上げ、「そりゃルピス様があらわれた土地だからな、ここは。神様が愛すぐらいだから、ファイデンは世界で一番美しいんだよ。」と得意げに口にした。
「ルピス様って愛神ルピス様のことですか?」
わたしたちの顔や体を染めていた夕陽の赤が不意に失われた。
外を見ればゴンドラの進行によって、これまで見えていた夕陽が他の塔の影に隠れたらしい。
夕陽を隠す塔の軸自体は逆光で真っ暗だったが、壁面にくっついた街の輪郭は落ちゆく夕陽の赤に照らされていた。
「そうさ。この国にはほんとの神様がお出でになったことがあるんだよ」
「えーっ!?」
「マジかよそれ。いつ頃の話なんだ?」
「想像もできないぐらいの大昔だよ」
コルネリウスの疑問に答えたのは眼鏡をかけ、かぎ針で帽子を縫う<ラビール>だった。
「あたしらの先祖が塔に辿り着いた頃の話だねえ。
ゴンドラなんか必要なかった時代。
塔と塔を繋ぐ光の橋がまだあって、今じゃ真っ暗な塔の根本がまだ見えていた頃だって教えられたよ」
するとまた別の<ラビール>が声をあげる。声はひとつからふたつやみっつ、次第にたくさんの声が起こってゴンドラの内部を満たした。
「ルピス様は王様にネックレスをプレゼントしたんだよ!」
「虹色の貝殻を繋いだ首輪だ。それはそれは綺麗に輝くんだと」
「あれこそファイデンの国宝だよなぁ」
「馬鹿言え、星の海から落っこちて来た槍の方が宝物だ!」
なんだか収集がつかなくなってきたな、とわたしたちは三人で笑い合った。
もともとが賑やか好きの<ラビール>だが故郷の話となると興奮が限度を越えてしまうのかも知れない。
「アルルにも見せてやりたかったな」
「そうだね。あっ! そういえばアルルちゃんの瞳の色とさっきの夕陽の色、やっぱり似てなかった?」
「ああ、確かに」
そういえば、と美しかった記憶を思い出す。
子供の頃だ。わたしがアーデルロールに向けて、夕焼けみたいな瞳の色だと伝えると彼女は「新しい一日が始まる夜明けの色よ」と言っていた。
そのことを二人に伝えるとコルネリウスは「アルルにしては上手いこと言うじゃんか」と本人に聞かれたら塔から宙吊りにされそうなことを口にした。
「今度はギュスターヴさんとアルルちゃんとも一緒に来ようよ」
「おっさんはもう飽きるほど見てんじゃないか?」
「それでも5人なら楽しいよ! 新鮮な気持ちになるかもだし絶対そうしよう!」
「ギュスターヴさんは身長的に乗れないんじゃないかなあ……」
などと、とりとめもない話を続けるわたしたちを乗せてゴンドラはただただ進んだ。
ここのところ、暁月でフィナーレをしていました




