177. 銀と酒
<オランピア>という街は一部を除き、端から端までガレキの山だった。
居住区は軒並み倒壊し、公園は蹂躙され、市場にはまだ流血の気配が残る。
戦う力をもたない人々が大勢避難をしていた闘技場が潰されていなかったのは不幸中の幸いだった。
だが戦いが終わり、自分たちが暮らしていた街の有様を目にした時の心中を思うと、とてもじゃないが素直に『良かった』と感じることはできなかった。
道すがらに酒樽を転がしている男たちの集団に遭遇した。
シラエアが口にしていたのはこれだろう。鼻歌交じりに更新する彼らに話を聞くと、酒宴の広場にまで酒を運んでいるのだという。
「酒場は全部ぶっ潰れちまったがよ、地下の蔵は無事だったんだ」
「とてもじゃないが持って運べねえからさあ。
こうやってゴロゴロゴロゴロ転がしてるわけよ」
そうなんですね、とわたしは同行しつつ返事を返した。
彼らは平原で戦っていた戦士たちへの感謝を何度も口にし、〝霧払い〟の噂については特に熱を上げて語っていた。
「戦いで街が壊れてしまったのは残念です。すみません」
言葉を受けて男たちは笑った。
逆境をものともせず、明日を向いて立ち上がる者の声だ。
どうしてか、わたしはドルゲルバドルがあげる胸がすくようなあの豪快な笑い声を思い出した。
「いいんだいいんだ。生きてるってのが大事なんだよ」
「また作ればいいだけだかんよぉ。
これを機にデッカい家でも作っちまおうかな俺は」
「死ぬほど苦しい税金が平気なら好きにしろよ。ははは!」
やがて道の先から笑い声、それから歌声や楽器の音色が聞こえてきた。
灰色のガレキの山の中に多くの色が見える。
赤やオレンジにピンク、黄金色といったまばゆいばかりの人々の心の熱……さまざまな色が酒宴の広場を彩るのをわたしは目にした。
「じゃあな! 辛いも痛いもあったろうが、今この場は飲んで忘れてくれ!」
「ほどほどになぁ。あんまり飲むと血が巡り過ぎて傷が開いちまうからよ」
物珍しいものを見に集まってきた子供や、追加の酒を待ち望んでいた酔いどれたちの声を受けながら酒樽は広場の奥へ奥へと転がされていく。
その背を見送り、わたしは広場をあらためて見まわした。
一般市民よりも戦士や剣士といった割合が随分多いように見受ける。ルヴェルタリア騎士の銀鎧は見当たらなかったが、代わりにファイデン竜王国からやってきた<ラビール>の竜騎士たちが一角を陣取って賑やかに酒をやっていた。
賑やかな場ではあったが全員が全員、酒に手を付けているわけではなかった。
誰しもが陽気で心に射した影を吹き飛ばせはしないからだ。
実際、場の隅では顔を手で覆って俯く人が居た。
そしてその悲しみを和らげようと背を撫で、涙に耳を澄ます者が傍に居る。
悲しいがしかし、人の情を感じるその二つの背中からわたしは視線を外せなかった。
自分がそれに見入っていると自覚したのは仲間の声が耳を打ったからだ。
「ユーリくーん! こっちこっち!」
振り返ると広場のど真ん中あたりの丸卓で金髪の娘――ビヨンがピョンピョンと飛び跳ねながらわたしの名前を呼んでいた。
近付いて顔を見て見るとおでこから耳まで真っ赤だ。
両手に握っているのは空のジョッキ。もうとっくに酔いが回ってしまっている。
「これは二日酔い間違いなしだね」
言いながら椅子を引く。コルネリウスとアーデルロールはどこに行ったのだろう?
あまり期待せずに酔っ払いに訊くと
「えぇ~? なんてぇ?」
とだらだらとした声が返ってくるだけだった。
口元を緩めながら小首をかしげるビヨンはなんというかもうダメそうだ。
ドルゲルバドルのもとから外へと帰還し、アーデルロールの背を追いながら強力な魔法を詠唱・行使していた勇姿はどこにも無い。
「よわったな。酒が抜けたら戻るといいけど……」
「そうだねえ、そうだねえ」
ゆらゆら揺れるビヨンの背後へとなんとなく視線を向けると、少し離れた賑やかな席に快笑するギュスターヴの姿があった。こういう時にはメルグリッドじゃないが……背が高いととにかく目立って良い。
そばにはコルネリウスも居る。初対面の戦士や民間の人々と肩を組み、背を仰け反らせるぐらいに大きく笑うと巨大なジョッキの中身をあっという間に空にしている。
「どこ見てるの? ねえねえ」
ぬっと酔っ払いが身を乗り出してわたしの視界を埋め尽くした。
「いや、コールとギュスターヴさんと見つけて――酒臭っ!
もうビヨンは飲むのやめた方がいいよ。これは僕が預かるから」
「そんな! 返してよ~!」
「言ったって空っぽじゃないか。もう飲めないよ」
「舐めるから!」
「ビヨンがそんなことを言い出すお酒なんて飲むのが怖いな……ダメダメ。ダメだよ」
おでこに手を当ててビヨンを近づけまいとしていると傍で足音が立った。
革のそれではなく、金属音。戦う者に特有の気配を感じる。
「君は一般市民の持ち物を取り上げたのか? それは彼女に返したまえ」
官憲じみた物言いの主は姉弟子のシェリル・クラースマンだった。
後で一杯やるぞ、とわたしに命じたシラエアの姿はない。彼女ひとりだ。
「シェリルさん。いえ、これは仲間です」
「いおん・おうおーほおうしあす!」
「そうか。宜しく」
銀色の前髪の下にたたえた瞳は冷ややかだ。
あまり感情が見えない、と言えば伝わるだろうか。
よくよく観察すれば声に抑揚が無ければ、喋るに際して頬もあまり動かない。
ついでに人間への興味もそれほど無いのか。
呂律の回らないビヨンの自己紹介は聞けたものじゃなかったが、シェリル・クラースマンはコクリと頷いた。
「……聞き取れましたか?」
「なんとかかんとかさんだろう。ちゃんと聞いた」
「全然聞いてないじゃないですか!
ビヨン・オルトーです。ビヨン、こちらは僕の姉弟子のシェリルさんだよ」
「ぺこり……」
「うん。宜しく」
椅子を引くとシェリルはたおやかに座り、腕を組むとわたしを真っすぐに見つめた。
その視線の鋭さたるや尋問官が持っているべきそれである。
罪人が内に抱える秘密や暗さを見、それを白日の下に必ず晒すという強い意思さえ感じる。
おかしいな。そんな場面じゃないはずなんだけれど……。
「ユリウス」と、第一声。
「君は試練において〝精王〟と戦ったのか?」
「えっ? え、ええ。はい。炎を司る〝精王〟と戦いました」
「そうか。時間はあるか? 詳しく教えて欲しい」
アーデルロールたちが席に寄ってくる様子もない。
別段話すことに問題はないだろうと判断し、わたしは古のヴィントゴア王国での戦いの顛末を姉弟子へ語った。伏せるべきところもまたわたしの判断で決めることにする。
相変わらず表情は動かなかったが、視線がまったくブレずにわたしを射抜き続けていたのを見るに相当聞き入ってるのだろう。
ひとしきり話し終えるとシェリルは頷いた。
その仕草がどうにも変だ。まるで糸人形のようにかくかくとしている。
「そうか。壮絶な戦いだ。
生きて戻るとは、強いな。フレデリック兄の血だろうか。
私は強い者が好きだ。君に興味がある」
「えっ!?」
「この後二人で少しどうだ。平原でなら邪魔も入らないだろう」
「ちょっとちょっちょっちょっと! ちょっと!」
真後ろでよく知った声がよく知った調子に大声をあげる。
知り合いがまたひとり集まったな、と安心をして心がホッとしたのは束の間で、そんな温かみはアーデルロールがこぼしたらしい酒が脳天にぶちまけられるとウソみたいに消えた。
一言言ってやろうかと思い、振り返るがアーデルロールの目もまた酔っ払いのそれだった。喜劇の挿絵ならきっと目がぐるぐると描かれていることだろう。
「人のものに粉かけてんじゃないわよ!」
「僕はものじゃないよ、アルル」
「?……(ユリウスが何か言ってるが反応しないでいいかと決める間)……?
そこの銀髪! どこの誰よあんた!? どっかの引き抜きマン!?」
仲間の物言いを無視した我が剣の主は連邦剣士に指を突き立て吠えた。
いや突き立てたどころじゃない。彼女の指はシェリルの柔らかそうな頬を突き刺さんばかりにぐりぐりと押している。
「私はどこの誰かさんじゃないし、どっかの引き抜きマンさんでもない。
シェリル・クラースマンさんだ。
アーデルロール王女殿下、お初にお目にかかる」
名前を聞いて我が主もハッとした様子だった。
酒がもたらした緩やかな意識の海の中にあっても、正気をわずかに取り戻せるほど彼女に縁深い名前だとは思わなかったが……。
「クラースマン……。ああ、ごめんなさいね、いやちょっと興奮しちゃって。
あっつ、あっつ。はあ。冷静にならなきゃね。お酒って良くないわね」
「ユリウス・フォンクラッドと二人きりになりたいのだが構わないか?」
「構うわ! 超絶に構うわ! 何の権利があってアホ言ってんのよ!」
「権利……」あご先に指をかけたシェリルは数秒考えてから、
「彼は私の弟弟子。姉は弟を好きにして良いから私はそうしたい」
「こ――! いや……もしかして結構お酒を飲んでる? もしかしてだけど」
「? 私は酒は止めら、」
だんっ! と机の上に中身が並々と注がれたジョッキが四つ並べられた。
待たせたなぁ! とよく親しんだ調子の声の主は知らない男だった。誰だ、この人は。
酒宴の場で追加の酒がやってきたら、大概は盛り上がるものだがわたしが居る卓で喜ぶ者は皆無だった。腕をばたつかせるビヨンは数えないものとする。
なんとも言えない間を受け、気まずそうな笑顔を張り付けた男に向けてシェリルが言う。
「なんだこれは。頼んでいないが」
「あれ、そうだったか!?
まあ折角だから飲んでってくれよ、死んだ連中を弔うつもりでゴクっと! な!」
それだけ言葉を残すと男は卓と卓、人のあいだを巧みな足さばきで抜け、去っていって卓の上には四杯の酒が残された。
黄金色の誘惑にはまずビヨンが屈した。両手でジョッキを握って真っ赤な顔で香りを嗅いでいる。
なんだか犬じみた動きのビヨンをチラっとだけ横目で見ると、我が姉弟子は、
「そうか。では飲まなければ無作法だな」
と手に取りながら言った。
「ユリウス、君は酒はいけるか」
「はい、大丈夫ですよ。それに好きな方です」
「うん。では勝利と出逢いを祝うということで一杯付き合ってほしい」
「了解です。では」
ごくごくごく、と喉を鳴らして黄金色の酒を飲み干した。
細かな泡立ちが爽快な感覚をもたらし、同時に湧きおこる苦味がなんとも言えない幸福感が腹の奥底から頭の先まで突き抜けた。
「っぷは! これは美味しい!」
「っぶはあああ~む、うまいうまいうまぁい!」
「えっ」
別人が現れたのかと思った。
「ほれは良いぽさけだねえ、なあ! あっははは! うまいっ!」
信じられないことにただの一口でシェリル・クラースマンの人は変わった。
まだ胃が酒を吸収してもいないだろうに、何がどうなっているんだ。
「あははは! あはは!」
「――(絶句)」
呆気にとられたわたしとアーデルロールの視線が重なった。
俗にいう以心伝心である。二人のあいだには「この女は大丈夫なのか?」という共通の思いがあった。
背を仰け反らせて額を打ち、「っくあ~」と目を細めてどうにもたまらない、という顔をしているシェリルからは、悲しいことに筆頭剣士が持っていた威風堂々とした気配はすべて失われていた。
「会えて嬉しいです~~~!!
フレデリック兄の息子さんと会えるなんて感激です!
ほんと嬉しくて硬いことばかり言っちゃってすみませんすみませんすみません!
顔を見たら瓜二つでほんとに感動しちゃって……。
あ~~! 似てる、似てるぞ! 貴重な顔が世の中に二つもあるぞぉ!」
気付けばコルネリウスとギュスターヴの二人がやってきている。
二人とも酒に強いのか、顔はちっとも赤くはない。
男たちの四つの瞳がわたし、アーデルロール、それからビヨンとシェリルへと移り、
「なんで変態に絡まれてんだ?」
とごもっともなことをコルネリウスが言った。
いつの間にかわたしの腕にはシェリルの手が伸びており、ぐいぐいと何度も引っ張られ続けている。その上それを阻止しようとアーデルロールの手まで加わっているからもうめちゃくちゃだった。
「おらぁ~っ!
筆頭剣士だかなんだか知らないけどあたしの騎士に触るんじゃないわよ!
くっ、引き剥がせない! なんて馬鹿力……!
ギュスターヴ! ギュスタ~~~ヴ! ちょっとこの女を剥がすの手伝ってよ!」
やってきたのは大男ではなく連邦の兵士たちだった。
彼らはそれぞれに慌てた調子で何かを口にしていたが、その内容は「シェリル様に酒を飲ませてはいかん!」という内容である。
わたしの腕から手を離すと代わりにジョッキを抱え、放してなるものかと抵抗するシェリルだったがしかし、知らずのうちに騒ぎに駆けつけていたシラエアの手刀を首に受けると死体のように大人しくなった。
「師匠!」
「……話す空気じゃなくなっちまったね。
孫娘のこともあるし、残念だけどこれで帰るよ。
ま、湿っぽいのより良かったろ?」
「そう……ですね」
どっちが良かったかはなんとも言えないな……などと思いつつ、にっかりと笑うシラエアへと答えた。
「アーデルロール」
連邦の剣聖が北の娘を呼ぶ。
「旅の成功を祈ってるよ。
そのうちこの孫娘を手伝いに行かせるから、その時はよろしく頼む」
「嬉しいです。
嬉しいですけど、もうちょっと意思疎通が取れる感じだと助かるわね……」
「ははは! 酒を飲ませなきゃ頼りになる娘だよ。
お前たちが戻るまで〝巨人公女〟を食い止めた、って言やあ少しは頼れるだろ?
それじゃあまたな。達者でやりなよ」




