175. 古きは新たに
吟遊詩人が歌って語り継ぐような物語が生まれる瞬間にいつか立ち会ってやるんだ、とガキの頃はよく考えていた。
なんなら俺が伝説を作ってやるとも考えていたっけ。
その実現が実は難しく、多少の実力とかなりの幸運が必要なのだとようやく理解したのは、身ぎれいな兵士の身分から傭兵に落っこちてからだ。
同じような身なり、同じような稼業で日銭を稼いでいる奴らと安酒を飲みながら何度も話してきた持論を紹介しよう。
人間には生まれ持った星や運命ってもんがあり、それに従い生きるのが当人にとってベストだっていう話だ。
英雄は英雄になるべくして生まれ、牛飼いの人間はなるべくして生まれ、育つ。
人間が進む道ってものは無限の選択肢があるようでいて、その実はあらかじめに決まっているのだ。
田舎のガキが冒険譚に憧れて外の世界へ飛び出すのはいいが、身の丈に合わない夢を追いかけたところで大した成果は得られやしない。
さっさと田舎に戻って牛の面倒を見てりゃいいのだ。
そうすりゃ年頃には嫁さんと出会い、ヒゲが似合う頃には子供の一人か二人でも出来ていて、歳を食うにつれて拳骨をかます元気が無くなってきた親父とお袋の面倒を見る。
そんな穏やかで、身の丈にあった人生があったに違いないのだから。
「くそったれ……そうだとも。
こんな戦場で無駄に死ぬこともない……くそっ! ふざけるな、俺は死なねえ!」
感情を喉から吐き出し、俺は吠えた。
怪物の拳を躱し、返す刃で喉笛を切り裂くと頭部を潰してトドメを刺す。
訳の分からない濃霧の中で戦ってどれだけ経った?
山ほどいたルヴェルタリアの騎士連中はだいぶ減っちまった。
覚悟のない連中の心の拠り所だった銀鎧をもう随分見ていない。
まさか全滅したのか? とも思ったが、そんなことはあり得ないとよぎった嫌な考えを散らした。
斬っても斬っても……何度倒しても霧の魔物は減りやしない。
どころか増えてくる始末だ。
最初は自分よりも小さい小鬼が相手だったが、次第に人間ぐらいの大きさから俺よりもデカい鬼がずらりと並び、しまいにゃ腐った肉を身体からぼとぼと落っことす家みたいな大きさの虎まで出てきやがった。
握力がだいぶ無くなってきた。脇腹に受けた一撃がやたらにズキズキと痛む。
呼吸も整わないし眼もかすむ。一度下がるにはちょうどいい頃合いだ。
近くの名前も知らないヒゲ面の肩を叩き、俺は言った。
「悪いが……ちっと下がる」
「おい逃げるんじゃねえだろうな!?」
馬鹿言え。精も根もつき果てそうな状態でどこに逃げるんだ。
そう返してやるとそいつはどこか諦めた顔で笑った。余計な一言だったかな。
這う這うの体でどうにか下がると、とうとう守るべき街である<オランピア>の壁に辿り着いちまった。戦闘中もずるずると戦線が下がってる予感はあったが、ここまで後退していたとは。
「しかし……本陣があると思ったんだが誰もいやしねえ。
くそっ、とんずらはかましちゃいないと思うが……どこで回復を受けりゃいいんだよ」
篭手を外し、素手で顔を拭うと汗と返り血、それから泥が混ざった最悪な粘液がこびりついて思わず悪態を吐く。
「……こんなはずじゃなかった。
俺の人生はこんな、歴史の教科書に名前も残らないような小さい戦いで終わるようなもんじゃ……」
震える指を睨む。こんな状態で戦えるのか?
そう不安を感じていると耳が足音を拾い、習慣的に意識が臨戦状態へと移った。
「何だよ、最後の休憩かもしれないってのにもう終わりか?」
霧の向こうを睨むと大勢の人影が走ってきているのが目に入った。
本当ならそいつらが人間なのか人型のバケモノなのか問いただして確認をするのが常識的な対応なのだが、この終わらない戦いに対して心底から気が滅入っていた俺はそんなことは何もしなかった。
それどころか、心の隅っこ辺りでは俺にトドメを刺しにきたバケモノであってくれとさえ思っていたかもしれない。
「お~いっ!」
その正体は人間だった。
くそったれな戦場に居るってのにそいつは他人に手を振る元気が残っているらしい。
一方でもう体力のない俺は「よう」と答えるだけだった。
「元気だな、お前。慌てた顔してどうしたんだ」
「いや、後方に伝令を――すごい顔だな、君。水筒をやろうか?」
俺は手を振って申し出を辞退した。
口を開くのも段々億劫になってきたし、そのうえ脇腹の痛みがひどい。
脂汗までだらだらと流れてきた。
早いところ要件を言ってくれ。俺に話すことじゃないならさっさと行ってほしい。
「巨人が出たんだ」
「巨人だと? ああ、〝巨人公女〟が出たとかって話をそういや誰かしていたな……」
もしホントに居たんなら今頃全員ぶっ殺されてるだろうが、そうなってないんなら幻術にでもかかった奴が不安を言い広めてたんだろうな。
そうこうしている間に男の後ろから走ってきた連中がぞろぞろと追いついてきた。
どいつもこいつも満身創痍の有様だ。
旗は折れ、鎧はひしゃげ、血だらけの兵士を背負った人間が何人も居る。
これじゃ伝令じゃなくってただの敗走だろう。
「メルグリッド・ハールムラングじゃない! もっと馬鹿デカい巨人だ!」
「どのぐらいなんだよ」
「そりゃ雲に届くんじゃないかってぐら、」
突然轟音が聞こえ、次の瞬間には文字通りに自分の身体が宙に浮いた。
大昔に一度だけ体験した大地震の瞬間を思い出し、情けない話で足がすくんだ。
「っっ!?」
衝撃の正体はすぐに知れた。
なるほど、この男の話は何も間違っちゃいなかった。
それは文字通りに雲に届くがごとき大巨人だった。
本当なら濃霧で頭上は見えないはずだが、今しがたの衝撃でいくらか霧が吹っ飛んだおかげでこの怪物の威容がよく見える。
もし拳を振り下ろすなりすれば、大勢の人間が爆弾を放り込まれたみたいに吹っ飛んで死んでしまうだろう。それほどの巨体だった。
人知を超えた存在を目にして俺は心底から震えた。
長年にわたって磨いてきた剣術? 名工が鍛えた武器? 優れた魔法?
そんなものがこの大巨人に通用するのか? そんなわけはない。
金属の光沢を放つ足にいくら斬り込んだって、こいつの足が止まるわけもない。
この巨人はただ粛々と歩くだけだ。
何が目的かは知らないが、道中にある<オランピア>の街と俺たち人間の集団はゴミのように蹴散らされる。
終わった、と敗北を悟り、地面に視線を落とした。
俺だけじゃない。気合を入れて戦場に踏みとどまってた兵士も、飛竜の手綱を握って空を飛んでいた竜騎士連中も、誰しもが思っただろう。
乾いた笑いが思わずこぼれる。
瞬間、またも濃霧の大部分が吹き飛んだ。
巨人が一歩を歩み出したのか、あるいは拳でも振ったのかと思ったが、こいつはまだ何もしちゃいなかった。
じゃあなんだ? 新たな死の使いがやってきたのか?
そう思い、上を見上げるとそこには空があった。
気の滅入る重たい灰色をした世界に生まれたちっぽけな青。
普段目にしていたはずなのに、随分見ていなかったなと場違いなことを思うとどうしてか目の奥が熱くなった。
「誰か居ないか? ほら、空に……」
誰かがそんなことを口にした。
何を馬鹿な、と思い凝視すると確かに何かが居る。あれは……人か?
かろうじて人型に見える黒いそれはおもむろに片手に持つ何かを掲げた。
そしてまばゆい赤色の光が空を満たし、さらに霧を散らしていく。
どこかから魔物の悲鳴が聞こえるが俺の視線は空中に釘付けだった。
この場に居る魔物や人間の誰もが――足を止めていたこの大巨人さえもこの赤い光に視線を向けていただろう。
うっすらと聞こえていた剣戟の音が不思議とすべて止んだことに気が付いた俺にはそうとしか思えなかった。
期待と興奮の種火が胸の暗がりに宿った気がした。
すべてを投げ出し、輝きを失っていた心に火がともり、希望を抱き始めてしまう。
大空に炎の筋が現れた。それらは互いに寄り集まり、ひとつのおおきな渦となって空を焼き焦がすようにうねり始める。
その炎は繋がろうとゆるやかに揺れ、寄ってくる濃霧をも燃やした。
まるで一切の邪悪を焼き消そうとする正義の火だ。
戦場が注視する中で炎の渦はやがて一際力強くうねると巨大な人間の上半身をかたどり、炎の男の姿に変わった。
「ヌッフフフフハァハハハ! 魔物どもぉ!
余の王地を霧で汚れた足で踏み荒らすとは、かつての敗北を忘れたようだなァ!?」
天空から聞こえる馬鹿でかい声が辺り一帯に降り注いだ。
炎の巨人の腕先でふたたび炎がうねり、まるで槌を持つ手の形に変わる。
途端に巨大な魔力流が足元に生まれたのを肌で感じた。
砂利や砕けた壁の欠片、濃霧までもがあの炎の槌に引き寄せられて浮き始めていた。
「ならばドルゲルバドルのこの炎槌をもって思い出させてやろう!
いざ受けよ!〝炎精王〟たる余が放つ必殺の一撃!〝地殻鳴動〟をなァァア!」
男が吼え、その手に握られた槌にともった炎の色は赤から藍に変わり、他にもなにやら星のようにまばゆい細かな光を帯びていた。
そして槌が振り下ろされる。
その一撃は金属の巨人の脳天を強烈に打ち据え、どういう理屈かその総体を――頭の先からつま先までを一瞬で燃やし尽くして灰に変えてしまった。
打撃の余波は俺たち人間や魔物で埋め尽くされた平原にさえ及んだ。
地表を渡った衝撃波は霧を吹き散らしつつ小型の魔物を焼き尽くし、中型の魔物にいたっては空中から落ちる灰に触れた途端に炎上し、息絶えていく。
魔物にとっては恐ろしい死でしかないこの灰は、一方で人間にとっては癒しの作用があった。
こわばっていた身体がほぐれ、出血は止まり、痛みがやわらいでいく。
俺にはこれが――安っぽい表現で悪いが――奇跡にしか思えなかった。
「なんだ、こりゃ……何がどうなってる?」
多くの感情がない交ぜになったどよめきが広がる中、燃える空からひとりの人間が落ちてきた。
そいつは軽やかに着地を果たすと振り返りもせずに走り出した。
誰しもが呆然としたままその背中を見送った。
すると、ふと、どこかの誰かがアホなことを口にした。
「あれはガリアンか?」、と。
「馬鹿を……馬鹿を言うな、伝説にすがってないで剣を握って敵に備えろよ!」
叫ぶ怒号の声はもっともだったが、それよりも伝説に興奮する連中の声の方が数も大きさも勝ってしまっていた。
「見たぞ……! 俺は見た! 剣を持った赤い目の剣士を見た!」
「まさか。本当にガリアンが来たのか?」
「あり得ねえ! 千年も昔の話だぞ!?」
「いや、だが――……」
「……〝霧払い〟がこの時代に? そんなの……伝説の再来じゃないか……」
群衆の視線の先。この場の集団の最先頭にそいつは居た。
若草色の髪だ。
燃え尽きた白い外套を片腕の肩にかけ、ボロボロの装備を着込んだ女。
ガリアンではない。
ガリアンではなかったが、こちらを振り返る瞳は夕陽のようなオレンジ色に染まり、そて手には一振りの剣があった。
「――聞け! 神々が愛し、我らが守るべき世界、ルヴェリアに生きる命よ!」
まだ命を保つ霧の軍勢の前に立ち、異形どもへ視線を向け直すと女は声を張り上げた。
若い女の声だ。だがその声は震えておらず、怯えもない。
どころかその声は俺たち人間の心に熱する何かがあった。
「我が名はアーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリア!
父祖にして霧を払いし英雄、ガリアンより緋と使命を継ぎし宿命の娘!
我は剣を以って霧を払い、この世に蘇りし〝霧の大魔〟を討つ救世の騎士である!」
言葉とともに振るわれた剣は確かに霧を払った。
今しがた見た炎の槌や巨人のような超常ではなく、人間の女が振るった剣が霧を払ったのだ。
「我と共に古い霧へと挑む、この世界、ルヴェリアの勇者よ! 出でよ!」
緋色の瞳が自らの役割を口にした直後、群衆の中から四人の人物が歩み出ると彼女の剣とならんとするかのように、それぞれが得物を音も高らかに抜き放った。
雷を纏う二人の男が。杖を握る魔導の娘が。剣を掲げた青年が走る。
「あ――あの剣に続け!」
「我ら、ルヴェリアの霧を晴らす光とならん!」
誰かがそう叫び、言葉の熱にあてられたのか、誰からともなく走り出した。
「……くぞ……行くぞ!〝霧払い〟に続け!」
「ルヴェリアに勝利を!」
一人分の足音は二人になり、やがて百に登り、地鳴りをともなった。
人々は走る。かつて世を救い、この時代にふたたび現れた〝霧払い〟の背を追って。
………………
…………
……
■後日
ルヴェリア日報へ寄せられた文より
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結果を語れば。
<オランピア>の平原でおこなわれた戦では、人間が戦況を覆して勝利した。
魔物を無尽蔵に呼び出し続けていた濃霧は霧の主であった巨人が炎の槌で討たれた途端
に薄くなり、戦闘が終わる頃には跡形も無く消え去っていた。
戦いの後に残されたのは多くの悲しみや怒り、おびただしい数の死と傷。
だが、暗いものばかりが残ったわけではない。
どれだけ深く長い夜であろうともやがて朝が来るように、人類には緋色の希望が与えられた。
アーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリア。
朝焼けの瞳を持つ北の娘。
そして彼女とともに歩む四人の勇者。
あの日、伝説は新生した。
古きは新たに。〝霧払い〟よ、汝の道行きに幸有れかし。
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