174. 瞳の話
火の匂いが鼻孔をつく。それから薪の匂い。
金槌が鋼を打つ、冷たくも心地よい音でわたしは意識を取り戻した。
いつの間にか横たわっていた身体を起こして周囲を探る。
黒ずんだ石造りの壁が目に入った。
長く使われてきたものらしく、光源に照らされた箇所が艶のある輝きを返している。
「ここは……」
闘技場ではないことに安堵した。
こちらを威圧する気配や、戦場に特有の張り詰めた緊張もこの場にはない。
試練は終わったと考えて良さそうだ。
それからわたしの視線は屋上を支える木の梁から蜘蛛の巣が張った棚や窓枠へと移り、金槌の音の正体へと辿り着く。
小さな椅子に座ったおおきな背中がこちらを向いていた。
掲げられた太い腕が振り下ろされるとカンッ、と快音が石の壁に反響した。
「おう、起きたか小僧」
男の正体はやはりというべきか、ドルゲルバドルだった。
大柄な人間程度のサイズに縮んだ彼のそばにはアーデルロールが立っていた。
装備はボロボロなら身なりもボロボロだ。
髪の端っこは焦げ、吊り目の周りにはくまが浮かんでいたが、元気を装った彼女は「先に話はつけといたわよ」と〝聖剣〟を撫でつつ胸を張って言った。
「炎の〝精王〟との契約は完了したんだね」
身を起こすと両目の奥底、特に両手にひどい痛みが走った。
しまったな、としかめっ面をしながら思う。一度気付くとこの手の痛みはしばらく続くのだ。
「ええ。彼が提示した条件は満たしたんだもの。
これでまだ四の五の言うようだったら訴えてたところよ」
「バッハハハ!〝精王〟たる余をどこの裁定の場に突き出すと言うのだ」
身体を検めると戦いで負った傷はいくらか癒えていた。
傷の大部分だった熱傷は治癒し、〝紋章〟の酷使で潰れたと思った眼も一応視力はある。
「ヴィントゴアの霊薬を貴様ら全員にぶっかけてやった。
効果はてきめんだろう?」
炉へと何かを放り込みながらドルゲルバドルがニヤリと笑い、わたしのそばを顎でしゃくった。
ボロ布の塊かと思って見過ごしていたがそれはコルネリウスとビヨンの二人だった。
二人とも意識はなく、汚れた布山に倒れ込んだまますうすうと穏やかな寝息を立てている。
ビヨンは魔力の循環が正しく回り、快方に向かっているようで血色がかなり良い。
大丈夫だろうかと気をもんでいたコルネリウスも熱傷は癒えているようで、わたしは心底から安心した。
自然と口元が緩んだのはようやく緊張が緩んだからかもしれない。
「こりゃ第四階位の回復魔法以上の効果があるな」
そう声を上げたのは壁に寄りかかっていたギュスターヴだった。
全身に負った熱傷は治癒し、酷使した右腕も十全に動くようだ。
「現代じゃこれだけのものはお目に掛かれない。感謝する、ドルゲルバドル王」
「気にするな。
次代の〝霧払い〟が現れたというのに、当人と連れ合いが傷だらけでは様にならんからな。
余の気まぐれだ」
治療が完了していないのはわたしの両目と両手だけのようだ。
篭手を外し、ちらと左手のひらを見ると、予想していたとはいえ黒ずんでいた。
怪我の輪郭をなぞって火の色が灯った様子は何ともおぞましい。
「〝霧払い〟、か。
あまり実感はなかったし、自分で名乗るのはなんかムズムズして恥ずかしいわね。
おじい様にからかわれたらどうやって答えていいか分からないわ」
「自分から名乗る必要はそうないだろう。
ガリアンの奴も余が知る限りでは、自らを〝霧払い〟だと名乗ったことはなかった」
金槌を振り下ろし続けながらドルゲルバドルがそっけなく言うと、アーデルロールは眉を上げて聞き返した。
「そうなの?」
「そうだ。〝霧払い〟だのと呼び始めたのはどこぞの王だからな。
ガリアン本人は自分のことをよく、「ただのガリアン」と言っておった」
記憶をさらい、懐かしい過去をしみじみと思い出すような口調で王は言ったが、最後には自信が無さそうに、
「……気がする」
と付け加えた。
「何よ、曖昧ね」
「ハッハッハッハ。まあ大昔のことだからな。許せ許せ」
そして金槌の音がまたひとつ立ち、
「おっと。ひとつ訊いておかねばならんことがあったわ。
黒髪の小僧、貴様はガリアンではないのか?」
不意に放られた問いかけは爆弾だった。
さしものアーデルロールも息をのむ。腕を組み、平静を装いつつもこちらに向けられた視線には緊張の色があった。
どう答えたものかと喉が震えた。
絞り出せたのは、「違う……と、思います」という小さく自信の無い声だ。
わたしは自身が時折ガリアンのものだと思われる記憶を垣間見ることを、この鍛冶小屋で起きている三人へまず伝えた。
それから自分の今の意識は、霧の森の中で呆然と立ち尽くしていた瞬間から始まり、それ以前の記憶はほとんど無いことも。
金槌を置き、こちらに身体の正面を向けて聞き入っていたドルゲルバドルの顔は険しい。
自分の過去を自信をもって説明・証明できない負い目から、まるで裁定の場で弁明する罪人のような気持ちになってしまう。
それでもわたしは言葉を続けた。
かつて水精王に『お前はユリウス・フォンクラッドではなく、死した肉体に宿った亡霊の類だ』と告げられたことも、ガリアン・ルヴェルタリアの魂がおぼろげではあるが宿っていることも、全部を話した。
そして言葉の最後。
わたしは今この場で、自らはこの世界に根を張り生きている一個人であることを言葉にするべきだと直感した。
「それでも……僕は、僕は……ユリウス・フォンクラッドです。
連邦で生まれ、剣を学び、今はアーデルロールや仲間とともに旅をしている、一人の人間です。
……そう、人間だと今は胸を張って言いたい。けれど――、」
わたしは傷だらけの両手に視線を落とした。
「――……僕の身体は霧の中で能力を発揮します。
傷の回復は早まり、五感も身体の動きも加速する。
普通の人間じゃないのは確かです。
これだけ霧に対する能力を持つ僕は、もしかしたらガリアンの生まれ変わりか何かかも、
なんて驕った考えが脳裏をよぎったことも一度ぐらいはあります。
けど、〝聖剣〟を握ったらこの有様です。
かつての武器を握って手がぐずぐずに焼けてしまうなんて、とてもじゃないけど僕はガリアン・ルヴェルタリアではないでしょう」
「霧に適合した肉体か。なるほど、確かに普通ではないな。
肉体が〝聖剣〟に適合していないこと、両目に宿る〝紋章〟を得た経緯も理解した。
ふん、セレナディアのやつの言葉もな。
存在の芯――つまりカス程度ではあるが王の魂を持つが故に太陽の瞳を貴様は得た、と。
ふむ。だが貴様自身に覚えはなしときたか」
炎のともった顎髭をドルゲルバドルは撫で、それから「これは憶測だがな」と口にした。
「貴様自身ではなく、その太陽の瞳の内側にガリアン本人か、あるいはその一部が居るのではないか?
貴様が影呼びや〝聖剣〟を振るい、ガリアンと同じ技巧を発揮したのは、知らずの内に瞳に宿っていたあやつが表層に出てきたから……かも知れん。
何せ〝紋章〟との適合は滅多なことでは成立せんからな。
ほんのばかり波長が合っていた程度じゃ、〝紋章〟に飲まれて潰されるのがオチだ。
あれだけ完璧に制御していたのなら貴様のどこかに奴の大部分が居るのだろう」
王の推察を聞き、「ちょっと待って」と声を上げたのはギュスターヴだった。
「〝紋章〟の中に魂や思念が宿る? そんなことが……いや、あるか……」
言葉の途中で彼は右腕にまたたいた小さな紫電に視線を落とした。
何か思うところがあったのか、最後の疑問の声は彼にしては細かったように思う。
「と、言うのも『強力な魔力には人の記憶や人格が宿る』と、〝時精王〟の奴が口にしていたのを思い出してな。
それが事実であり、故意に宿らせることが可能だとして……ガリアンならばあるいは、と余は考える」
「その根拠は?」
「奴は世界や他人を見ること、それ自体に執着をしていた。
その執着の度合いたるや、北の王として冠をいただいた後も、身分を隠して世界中を歩いて回るほどだ。
だから自分が死した遠い先の時代を直接見たいと思い、〝紋章〟の内側に自分を残すぐらいはまあ、するだろう」
わたしは思わず片目を手で覆った。
〝紋章〟の宿った瞳を通してガリアンが世界を見ている? この瞳の中に彼が居る?
あり得ない、とは一蹴できない話だった。
事実、わたしが気絶をしていたり精王の領域に侵入する時といった、自分の意識が曖昧になる状況ではよく彼に関連する記憶や光景を幻視する。
さっきだってそうだ。
戦いの中で聞こえた声のおかげでわたしは影呼びを成していた。
「もしそれが本当だとして、今しがたの試練であれだけ強く出てきたのは何故でしょう?」
「さてな」
直前まで熱を入れて語っていたというのに、ドルゲルバドルの返事は素っ気なかった。
「お前もガリアンも互いが高揚し、波長が重なったのではないか?
だがまあ話して分かったよ。お前はガリアンではない。
〝水精王〟のやつが異議をうるさく言うだろうが、余はそう断じた。
余が知るあの男なら人形のようにもっと淡々と喋るからな。
あれに比べりゃお前は人間味があるよ。それだけで十分だ」
それからドルゲルバドルはまた背中を向けると鋼を打ち始めてしまった。
カン、カン、カン、と一定のリズムで響く小気味の良い音は、わたしの不安をほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
「ユリウス・フォンクラッド。
色々とお前の素性を問いただしてすまなかったな。話しづらいこともあっただろう」
背中を向けつつ放られる声はいつになく優しげだ。
戦いでは何もかもを焼き尽くす業火のような彼だが、今この時に限っては人に安らぎをあたえる焚き火のような柔らかい熱を感じた。
「いえ、そんな。とんでもないです。
僕は僕の〝紋章〟のことを知らなさ過ぎましたから、この場で話が出来て良かったです」
「詫びと言うほどの話じゃないが、影呼びという技術について教えてやろうか。
ガリアンが得意とし、お前も行使した技だ。ほれ、ウルヴェインを呼んだアレだよ」
名を聞き、試練の中で呼び出したあの偉丈夫の騎士王の姿を思い出す。
長大な騎士槍を力強く振るい、繰り出す水流をもって炎の侵略を食い止めてくれたのだ。
彼の存在なくして勝利はあり得なかった。
「まず〝太陽の瞳の紋章〟について語らねばならんな。
その〝紋章〟は視た相手の姿や技術を瞳の中に焼きつけるのだ。
事実、ガリアンは旅の道連れであったセリスや、出会った英雄・英傑どもを次々に瞳に記録し、その技術を時には自身に宿し、時には影として呼び出して戦っておった。
先ほどアーデルロールから聞いたが、〝水精王〟のところでウルヴェインとやり合ったのだろう?
お前の瞳はそれを焼きつけており、先の戦いではその影を呼び出したのだろうな」
どうやらドルゲルバドルの口の滑りがふたたび良くなってきたらしい。
わたしたちが彼の言葉を飲み込む頃を見計らい、
「時に、お前たちは『隣の芝生は青く見える』という言葉を知っておるか?」
と訊いた。
これまで押し黙っていたアーデルロールが腕を組みながら「当然」と口にする。
「今でも……あんたからすれば未来か。普通にみんな使ってる言葉よ、それ。
他人が持ってるものはなんだか良く見えて欲しくなるってやつでしょ?」
「そうだ。余が知るガリアンという男はその気質が強い男だった。
奴は他人が持つ友情や関係、技術や思考、それらを欲しいと望んでいた。
人間は他人に成りすますことは出来ないというのにな。
どころか自分の方こそ他人から『ガリアンのようになりたい』と思われる側だったろう。
何せ奴は神の祝福を受け、ドガを始めとした勇者や我ら王と友好を結んだ、類まれな英雄だ。
〝霧の大魔〟との戦いの最中もそうだが、戦後の復興の時代においてもガリアンに憧れる者は多かった」
どうしてかわたしは世界に紛れ、人々の生活を眺め、放浪するガリアンの姿を想像した。
主神から使命と力を授かり、常人とはおよそかけ離れた存在だった彼は自分が守ったもの
を見つめて何を思ったのだろう、とも。
「……だから羨ましかったんじゃねえか?
普通からかけ離れていると、『自分は周りと違うんだ』と孤独感を覚えるもんだ。
すると自分がどこか宙に浮いた気がして自信を失う」
ギュスターヴは自分の過去を振り返るようにしてそんなことをしみじみと口にした。
「ガリアンは自己評価が低く、それ故に周囲を羨ましく思っていたと?」
「話を聞く限りじゃ、オレはそう思うってだけだ。
満たされない自分の中身を、他人の要素で埋めようと思っていたのかもな。
滅多なことは言わないでおくよ。彼は世界の恩人だからな」
どこか思う所があったのか、ドルゲルバドルはギュスターヴの言葉を噛み締めるようにしばし押し黙った。
それはアーデルロールが「寝てるの?」と目を細めて問いかけるまで続いた。
「寝とらんわ。……なるほどな。まあ、そうだったのかも知れん。
いや他人と話すのは良いものだな。感謝する。良い時間であった」
「? まあ喜んでるならいっか。こちらこそ感謝するわ、炎の王様」
「さて――〝聖剣〟の真価を発揮できると貴様は示し、余はその輝きを見た。
余が課した火の試練は終了だ。見事であった」
王の言葉に呼応するように〝聖剣〟に嵌められた赤色の宝玉がギラギラと燃える輝きを見せた。契約を失っていたあいだに見せていた鈍い色は最早どこにもない。
「アーデルロール、貴様を新たな盟主として迎える契約はここに結ばれた。
ところで外では大勢がお前の帰りを待っているのだったな?」
外の世界でわたしたちの帰還を待って霧の魔物と戦う戦士たちと、〝巨人公女〟を抑えるシラエアたちの姿を思った。
そして柔らかかったアーデルロールの表情もまた引き締まり、眉間に小さくしわが寄る。
彼女の脳裏にも平原でおこなわれている戦いの想像が描かれているのだろうか?
「ええ、お待ちかねよ。
霧の主も軍勢もまとめて吹っ飛ばせるっていうあんたの槌を持って帰るのを待ってるわ」
「フッ……フハハハハハ! 余を待ちかねているか!
ならば古くも猛きヴィントゴアの地には、未だドルゲルバドルという王が居ることを炎槌の一撃をもって示さねばならんなぁ。
ぃよおしッ! 次代の〝霧払い〟とその道連れのお目見えだ! 派手にいこう!」
「威勢が良いのは嬉しいわ。あんがと。ところで……」
首を傾げながらアーデルロールが問いかける。
「さっきっからずっとカンカンカンカンと何を打ってんのよ?」
「これか? お前たちへの餞別だよ。
次代の英雄が人々の前に立つのだ。ボロの得物を抜いては格好がつかんだろう?
ヌッフフハハ。星炉で鍛えたものではないが余が手ずから鍛えたのだ。質は保証する」
最後に強烈に金槌を打ち下ろすと彼はおもむろに熱された鉄を掴み、唸り声をあげて握る手に力を込めた。
すると鋼は大中小の三つの塊に分かれ、短剣・長剣・槍にそれぞれ姿を変えた。
「さあ持っていけ!」
言いつつ投げられた短剣が空中で弧を描いてアーデルロールの手元にすぽっとおさまる。
わたしへは長剣が放られ、寝転がったままのコルネリウスのそばには槍が落とされた。
「えっ、え、いいんですか?」
「くれてやると言ったらくれてやるよ。王に二言はない」
ばしりと膝をぶっ叩くとドルゲルバドルが勢いよく立ち上がり、拳を振り上げて吠える。
その威勢の良さたるや出陣前の猛将のようであった。
いや実際にこれから戦場に出向くのだから合ってはいるか。
しかし不思議と心の奥底を熱する力強い声だ。
これに鼓舞されたヴィントゴアの兵はさぞ強壮だったろう。
「さて! では凱旋といこうではないか!
我ら十三王の新たなる盟主、アーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリア!
次代の〝霧払い〟よ!」




