156. 遠き彼我の差
仇敵を確実に殺せる場面だった。
視界にあるのは満身創痍の敵。瓦礫の中にうずくまった体には力はない。
ただ眼だけには力があった。ひどく不快だった。
肚の中を探り、事の善悪を確かめろとでも言うような眼。青臭い理想の眼。
……どうでもいい。この一撃を振り下ろせば終わる。
自分の正義は達成され、世界がまたひとつ正しい方へ一歩を進む。
だが……。この男が……。
世に再臨した陛下の寵愛を無下にする、この男が……ッ、
「邪魔だッ! 斬り伏せるぞ、ウル……! 亡者めがッ!!」
………………
…………
……
自らの肩幅ほどもある巨剣の振り下ろしを無銘の直剣で受けた騎士は微動だにしない。
人間の肉体で。人間の腕で膨大な質量を〝ウル〟は受け止めていた。
好機を阻まれたメルグリッドが激情のままに吠えている。冷淡な顔には血管が浮かび、喉元から張り上げた声が家屋の窓ガラスを割り砕く声量だ。
〝ウル〟の返答には一拍の間があった。血と埃の匂いが混じる風が〝ウル〟の背負う深紅の外套を揺らす。
「剣で来い。言葉が無粋など承知のはずだ」
「貴様……ッ。……良かろう、ならば良い。陛下の慈悲なくここで死ね」
「〝巨人公女〟程度が届こうはずもないがな。――この『最強』に」
血が流れ込み、痛む視界で見えたメルグリッドの顔からは激情が失われていた。
一瞬前に迸っていた怒りは消え、北限の氷塊じみた冷たさだけがその表情に浮かんでいる。
巨体が落とす視線。向かう先は銀の騎士〝ウル〟。感情はなく、ただ力を向け、殺すべき対象としてのみ視認する強者の目。
重宝剣ダインスレイヴの剣先が地を向いた。例の藍色の光が剣を覆い、続けて鳴動が場を……おそらくは街全体に及ぶ規模で鳴り響きはじめる。
「ハールムラングの血を飲め、ダインスレイヴ。貴公の第一制限をここにほどく」
瞬間、私の横腹を何かが強烈に蹴り上げた。〝ウル〟の足甲だ。視認したのは離れる間際の銀色だけだったが、この男がわたしを蹴り飛ばし、崩れきった家屋の中に叩き込んだのだ。
痛みのほどはもはや説明するのもばからしい。人間、痛みが頂点近くに達すると嗚咽も出ないし涙も出ない。
視界の中で〝ウル〟の深紅の外套がひるがえる。わたしが蹴飛ばされる直前までいた場所からオレンジ色の輪郭を帯びた黒い光の柱が噴き出した。それも単一ではなく、5……いや、10本ほどの柱が次々に地中から現れて〝ウル〟を追う。
メルグリッドの巨剣が銀騎士を押し潰さんとして振り下ろされる。
先ほどまでとはどうやら性質が違う。初速は極めて速い斬撃だったが、剣が〝ウル〟に迫るにつれて遅くなっていく。興奮や集中状態の時に見られる感覚の遅延ではない。あの二人の周囲、その時間が遅くなっているように見える。
だからか、〝ウル〟の構えがよく見えた。直剣を下向け、刃でダインスレイヴを受けんとしている。あの構えは、技はよく知っている。セリス・トラインナーグの影からわたしが憶え、使用した剣技だ。
八の太刀・流々睡華。セリスのカウンター技を〝ウル〟は高い完成度で構え、繰り出した。
剣を振るう父の背中を見たときにもこの感覚を覚えたのをふと、思い出した。
完成された剣技とその構え。一連の動きは美しく、ある種の芸術のようだったのだ。
〝ウル〟の技はそれだ。練磨されたあの男は自らが一振りの剣のような研ぎ澄まされた気配を帯びている。
相変わらず強い憎しみが胸の中で燃えてはいたが、頭の中に少しは残っていたわたしの冷静な部分が「ここは学ぶべきだ」とささやく。
奴が何故、この場に現れたかはわたしには分からない。わたしの命を救いに現れたように見えたが、それは状況がそうであっただけだ。
この男がわたしの命を狙っていることはわかっている。
理由はふたつある。かつて受けた剣の迫力と、運命めいた直感。義務的な殺意がこの男の中にはある。
〝ウル〟の<流々睡華>が様相のおかしいダインスレイヴを確かに受け流し、騎士がカウンターを放つ。左手に装備をした古びた鉄の盾で猛烈な打撃を繰り出している。
だが届かない。メルグリッドの煌々と赤く輝く右手――〝巨人の拳の紋章〟を灯した拳が盾を破砕した。
「……技を見て、ごほっ……盗んで、やる……。お前には必ず届かなくちゃならないんだ……僕は……」
正直に言う。視界の中で立ち回る二人の人間……いや、二体の怪物の戦闘は常軌を逸脱している。
奇妙な時間の遅滞が生まれる剣戟。鉄と鉄が接触する瞬間に生まれる風は肌に届くと同時に薄皮を切り裂く。
頬や額には無数の切り傷が既にあるだろう。眼球でさえも手と瓦礫を壁にして庇わねばイヤな傷を負うし、負っているに違いない。
それでもわたしは見た。見て、想像し、自分と結びつけ、力にする。
遠い日に父が言っていた。『目で見ず、心で見るのが大事だ』と。
今なら分かる。
城壁を割り、彼方の雲ごと裂く〝ウル〟の剣。万の魔を斬り伏せ、あらゆる剣の頂点に立つあの男の位置。
そこに瞬時に届くことはありえない。世の中に駆け足飛びはないのだ。
まず、一歩。どんな小さな事柄でもいい。ひとつずつ拾い、糧にする。
いつか頂に辿り着く、その瞬間までわたしはそうして歩むんだ。
「ダインスレイヴの重力能力。その第一段階の解放か。久しいが、これは既知だ」
〝ウル〟のつぶやきが風に乗り、そう聞こえた。
片足に重心を乗せた直後に銀騎士の姿がブレる。
「――ルヴェルタリア流古剣術、ボーパルブレード」
迫る豪剣に対して〝ウル〟が右斜め上からの振り下ろしを叩き込む。続け、左斜め下からの切り上げ。
右から左への薙ぎ、大上段からの打ち下ろし。そして真下から上方へ向けての強烈な垂直斬撃。
時間の遅延が起こっていなければ認識できなかった、としか思えない。
まったくの同時に繰り出された〝ウル〟の剣技。
今のは5連撃……だったか。この男が同時に5人存在したとしか思えない速度だった。
斬撃を受けたメルグリッドの顔は相変わらず氷のようだった。が、わずかに汗が浮かんでいたようにも見える。
宝剣ダインスレイヴの切っ先が斬撃を受け止め、わずかに上向いている。メルグリッドの膂力であれば力技で瞬時に攻撃を再開できるだろうし、実際に彼女はそうした。常人がこの間隙を狙い、攻撃に転じることは出来ない。
だが〝ウル〟は当然のようにそれをこなした。
男は握りしめたその拳を巨人の下腹部に向けて振った。
世界が割れたかのような甲高い音が場に満ちる。巨大なガラス板を何重にか連続して落とし、割ったようなイヤな音だった。
メルグリッドの姿が消える。
まばたきはしなかった。一瞬も見逃してたまるか、と思い、睨んでいたのだからそれだけは無い。
ではあの巨人はどこへ?
答えは地面にあった。芋虫のように這った姿勢かつ瓦礫の隙間から覗いているせいで全容は見えなかったが、〝ウル〟の正面に巨大な地割れが起こっている。
まるで大地に引いた一本線だ。その地割れは地平まで真っ直ぐに果てなく続いている。
「お前の剣が〝巨人公女〟に届かないことには理由がある」
「――――、」
しわがれた声がする。疲れ切った男の声――、〝ウル〟の声だ。
わたしは声を出せなかった。この男が突き立てた剣の切っ先がわたしの背中に刺さっていて、どういうわけか声を出そうにも口の筋肉をぴくりとも動かせなかった。
「『階位の差』だ。
奴の剣技と貴様の剣技。開きは天と地ほど。
この差を埋めようなどおよそ無謀な話だ――」
階位。階位と言ったのか?
あれは魔法の程度を区別するための指標だ。
それがどうして剣技の話になる。
「〝巨人公女〟は可能な限り遠くへ殴り飛ばしたが、間も無く戻るだろう。手短に話す。
霧の時代より遠く古い過去。世界が天と地に分かたれていた時代の話。
武技・魔法・奇跡にはそれぞれ階位が定められていた。
それは誰が決めた話ではない。世界の理だ。
その理は今も生きている。……忘れさせられただけの話だ。
お前の剣技はせいぜいが第二。奴の振るう第五・第六に届くには古きを学び、人の枠組みを超えるしかない。
――この先も姫殿下の剣で在り続けたいのならば、セリス・トラインナーグの影を追え。
彼女の剣はただ一度だが神域の第七に届いている」
〝ウル〟の言葉はそこで終わった。先に続いたのか、話したいことを全て言い終えることができたのかは定かではない。
突如として藍色の光線が家屋を切り裂いて現れたからだ。
断面を赤熱させて迫るその力の波を嫌うようにして〝ウル〟は深紅の外套で身を覆い、足に力を溜め込むようにして屈むとその姿を消してしまった。
続けてまた大地を震撼させる轟音がひびく。
強すぎる衝撃で家屋の半分が倒壊し、体に逃げ走れるか確認をすると起き上がることができ、それから壁を支えにしながらであれば駆け足は出来そうなことが分かった。
轟音は連続している。埃まみれになってしまった子供向けのぬいぐるみを窓枠からどかせ、そっと外の様子を窺う。
街へ復帰したメルグリッドが剣を振り回している。ひと薙ぎが家屋を潰し、放たれる藍色の光が遠間の城壁をバターのように裂いていく。
〝巨人公女〟と戦闘を行っているのは〝ウル〟ではなく、ひとりの女戦士だった。
羊のような丸く渦を巻く角を持つ、超重量の大戦斧を振るう北の豪傑。ルヴェルタリアの〝鉄羊〟騎士団が団長、エイリス・キングヒルが単身で上位者である〝巨人公女〟に決戦を挑んでいた。




