155. お前の相手は――
瞬間。両目の奥底にあらん限りの魔力を集中せんと意識した。
火薬に火の灯ったマッチを放り込んだような強い意志の爆発が胸の中で巻き起こる。
メルグリッドの振るう重宝剣を止めなくては確実に死ぬ。
わたしだけではなく、この場の全員がだ。地形ごと破壊されてもっと大量の人間が死ぬことだって考えられる。
妄想の類ではない。メルグリッド・ハールムラングはそれを現実に行える力を持っている英傑だ。
剣を抜き、振るったはいいが……ただの直剣ではこれは絶対に防げない。
この分厚く、稲妻をまとう刃に触れただけで砕けて散ってしまう。
受け止めるにはこの斬撃は重すぎ、そして破壊力が巨大過ぎるのだ。
下手に刃で受けとめるのもやはりまずい。発生する衝撃で死んでしまう可能性さえある。
ならば、と。
右手の指先にまで魔力を行き渡らせ、セリス・トラインナーグの名を結んだ時に現れた、あの輝く剣を思い浮かべた。
〝紋章〟を使うにあたって詠唱を口にしなかったから、いつものように〝紋章〟の力を発揮できているか分からず、正しく扱えるかも分からない。言ってしまえば博打だ。
今回は必ず勝たねばならない博打の上に、やらねばならない博打だった。
腕を振るう。
白い光の粒が急速に手の内に集まっていく。
そして重宝剣の刃に接する寸前に光は剣の形を成していた。
輝く柄。鍔より伸び、互いに絡まる3つの薄刃。
今ならこの剣の名前は分かる。かつての〝ウル〟セリス・トラインナーグが帯剣、
「――トリニティ、頼むッ!」
刹那の見切りだった。赤い稲妻を隔てて見えるダインスレイヴの刃を両眼で鋭く捉える。
トリニティの剣身を斜めに傾け、刃が重なる振動のほんの少しの先触れが感覚を揺らすと同時に重宝剣の一撃を上方へと流し、
「っ重……っ! うおおおおおおおあああっっ!」
太陽が落ちてきたような圧力と重さが腕から全身へと伝わり、のしかかった。
流すための腕を振りきれない。膝さえも突きそうだった……だが、突きはしない。突くわけにはいかなかった。
心の中にセリス・トラインナーグの声が聞こえた。腕の中に技が満ちる。
「流々……睡華……!」
ダインスレイヴが刃の上を走っていくのが振動で分かる。魂を薄切りにされるような恐怖が確かにあったが、同時に高揚もあった。
受け流し切った。そう確信し、視線を送るとダインスレイヴの切っ先に稲妻が集い、白い輪郭に描かれた藍色の光と変じているのが見えた。
1秒にさえ満たない時間だった。バンダルを除いた全員の顔には驚愕が張り付いたまま、全身を硬直させている。
想像を絶する破壊の予感だけがこの場を覆い尽くしていた。
「伏せろ!」
ただ必死にそう叫んだ。
直後、光線が地平へと一瞬で届く速度で放たれた。
地上からはやや浮いていたはずの光だったが、軌道上の地面はくり抜いたように抉られている。
「消えろ。ユリウス・フォンクラッド」
「メルグリッド……! 来い! お前の相手は僕だ!」
〝巨人公女〟は剣の柄から手を離していた。代わりに握りしめた右の拳が赤熱して輝いている。
この女が宿した人外の力、〝巨人の拳の紋章〟の輝き!
空気を熱す勢いで振り抜かれた拳がわたしの体の左側面に直撃した。体の内側で痛みが炸裂する。
衝撃で肺の中の空気が全て吐き出されていた。息が流れる代わりに血が口元からこぼれる。
光線による破壊の後を追うようにしてわたしは吹き飛ばされた。
勢いが強すぎて地上で跳ねることさえもない。それこそ引きしぼり、放たれる矢のようだ。
死んでたまるか、と腕を伸ばして剣先を地面に突き立てた。
その衝撃で右腕が引き抜かれそうになるが歯を食いしばり、耐える。
剣が大地に横一線の傷跡を刻み、摩擦を受けて火花が辺りに散っていくのをぼやける視界の中で見送る。
「っあ! くそっ、前と動きがまるで違う!」
「当然だ」背後からあの女の声がした。
「地形に制限のない場なら私は全力が振るえる。
貴様なぞに見せはせんがな。――小兵が」
巨大な剣の切っ先がゴウ、と背中へ迫るのを振り返った視界で捉えた。回避は当然間に合わない。
わたしに出来るのはトリニティの硬度を信じ、受け止めることだけだ。幸いこの場にはわたしとメルグリッド以外には死体しか転がっていない。この爆発じみた衝撃で被害を被るのは当事者のみだ。
全身を大きく逸らしながら再度吹き飛ばされた。
冗談じゃない。あの巨体でこの速度だと? 掛け値無しに怪物だ。
この戦闘力を見せるメルグリッドとハインセルの地下で戦った女が同一人物とは到底思えなかった。
だが、現実だ。実際にわたしは反撃の刃を振るえもせずにただ打ちのめされている。
「刃を向けたとて無駄だ。貴様の技量は亡国の地下で知れている。
よく分かったよ。貴様では〝四騎士〟に届きはしない」
川面に投げた跳ね石のように無様に転がるわたしにメルグリッドが疾走して追いつき、大上段の一撃を振り下ろすと小兵の体を地面へめり込ませた。
食いしばった歯の隙間から血がこぼれている。痛覚以外の感覚がまるで無かった。
――右腕を除いて。
剣は握っている。まだ、トリニティは形を保てている。
メルグリッドの振りかぶった蹴りが地面に深々と食い込み、足先を上げると同時に大地が上空へと向けて爆散した。
大小の土塊に混じってわたしの体も宙を舞う。
〝紋章〟の熱と輝きを乗せた拳が再度迫る。その威圧感と迫力からか、人間2人分はありそうな巨大な拳にさえ見えた。
ただでくたばってたまるか、と心の中の生存本能が吠える。
まだわたしの意識に応えることが出来、動かせる右腕で握る剣を〝巨人公女〟の拳に突き立てた。
象にアリが噛みつくような些細な一撃だ。拳の勢いはわずかも弱まりはしない。
振り抜かれた拳が突風のように真横を通り過ぎていく。
浅い刺さり方をしていた剣先が抜け、わたしの体が宙へ浮いた。慣性の法則に従って体が前へ――メルグリッドの顔へと動いていく。
「フォンクラッドの剣を! 舐めるなああっ!」
命を絞り出すようにして横薙いだ剣がメルグリッドの頬に触れ――折れた。
驚きは声にすらならなかった。光の粒子がほどけ、消えていく。基となった鉄剣の破片がやけに明瞭に見える。
「何か……言ったか? 舐めるな、と?
驕るなよ。貴様にはその程度の価値すら――」
〝四騎士〟の顔には傷ひとつさえも無い。冷徹な瞳がわたしを射抜き、瞬時に構えた拳がふたたび輝きを帯びる。
「――無い」
「っが、あ! ああああっ!」
背中が固く分厚いものに触れ、それを割り砕いた。
山肌かと思ったが、違う。<オランピア>の都市を囲む外壁だった。
赤く染まってしまった視界でどうにか見た壁には大きな穴が空いている。体の上にうず高く重なった瓦礫の山を見れば考えなくってもわかる。殴り飛ばされたわたしがぶつかり、壁を破壊したのだ。
霧が晴れていて良かったと薄ぼんやりと思う。戦いの最中だったらここから魔物が侵入してしまっていた。
と、藍色の光が外壁を貫き、爆発を起こして消失させた。〝巨人の拳の紋章〟と同じ赤色で燃え立つ炎と煙をくぐり、メルグリッドがその体を現す。
地面に深く埋まったわたしを巨人が冷たく見下ろした。
もう、右腕も動かない。
「もく、できは……ゴホッ、なんだ……? 本当……なんなんだよ、お前……」
「知れたこと。私の狙いはアーデルロールの命ただひとつ。
貴様を殺す理由が知りたいのか?……そうだな……ああ、煩わしいから。
食事の場に虫が居たら殺すだろう? そういうことだ。
恨むのなら己の無力を恨め」
アーデルロールの名前を他者の――よりにもよってこの裏切り者の、だったが――口から聞くと、脳裏に若草色の髪を揺らす彼女の横顔が思い浮かんだ。まだ……旅の道半ばだ。
まだ、死ねない。
彼女に力を貸して欲しい、とわたしは請われたんだ。
剣を振るわなくちゃならない。
分かっている。そんなことは分かりきっている。
悔しさに打ちひしがれるのは違う。
無力感に膝を突くのは間違っている。
向けるべきは敵意だ。己への叱咤だ。
もし、もう一度。もう一度だけ命を拾える機会があれば絶対に強くなってみせる。
この女を……アーデルロールの道を阻む大敵のすべてを斬り伏せるほどに。必ず!
「その目。――つまらない。何度も見たよ、それは。
復讐と怨嗟に魂を燃やす瞳。
好きにするがいい。怒るなら怒れ。私はそんなもの、いくらだって背負う覚悟だ。
死ね。ユリウス・フォンクラッド。眼球だけは拾ってやろう」
ダインスレイヴの剣身がふたたび藍色の光を帯び、全体が白い輪郭で縁取られる。
周囲の家々や瓦礫が宙へ浮く。圧倒的な力が――メルグリッドの力が場を支配しているのが分かる。
ごう、と死が振り下ろされた。
……届くことは、なかったが。
「ッッ! 貴様――、」
真紅の布が視界の中ではためいた。
ありふれたルヴェルタリアの銀鎧。ありふれた銀の剣が藍色の光の一切を消してみせている。
ただの剣が超常の力を打ち消し、神代の剣と鍔迫り合う異常が目の前にあった。
いや、異常では無いか、と思えた。この男ならば容易くやれてしまうことだ。
この男は……この騎士は。
究極の一。世に最も鋭き剣の主。
「〝ウル〟! 狂ったか!? 退けッ!」
「――……お前の相手は、私だ」




