150. 〝鬼人〟
手綱を固く握り締めたバレンドール・デュランは、自らが駆る飛竜の鼻先を街から地上へと向けた。
飛竜もまた主人と同様、激しい闘志に魂を燃やしていて、荒い呼吸のたびに噛み合わさった牙の隙間から赤い炎がちらりと覗いていた。
「ワシはこのまま壁外の主戦場に向かう!」
顏を真正面に向けながらバレンドールがそう叫んだ。
種族に特有の小さな背丈とは裏腹に彼の低い声は霧中でもおおきく聞こえる。
負けじとわたしも声を張り、彼の呼び掛けに答えた。
「壁の外にですか!? 街にはまだ魔物が山ほど残っていますよ!」
叫びかえしながら視線を地上に落とすと緑色の残光が幾筋か見えた。
アーデルロールだ。地龍の背で戦っていた彼女は地上に降り、手当たり次第に魔物を斬り伏せているのだろう。
ビヨンの動向は分からない。いくら見通しの良い空中からとはいえ、霧越しでは探しようもなかった。
だがそれでもわたしには彼女が無事であるという、確信に近い予感があった。
彼女が魔法を学び始めてからわたしはずっと一緒に過ごし、成長していく様を横で見ていたのだ。
その実力は誰よりもよく知っている。
ビヨン・オルトーは必ずあの街で生き延びている。
と、爆発音が大気を震わせた。灰色の霧の中に黒煙が混ざる。
場所の特定は出来なかったが地獄絵図と化した地上を想像してしまった。戦火はこうしている今も着実に<オランピア>の全てを飲み込もうとしていた。
「街が……っ」
「霧でも龍でもどんな相手だろうが関係ねえ。
戦いが起こりゃあ、どこだってこの地獄は現れる。
〝霧払い〟でも現われりゃあどうにかしてくれるんだろうが、所詮は昔話!
今を生きているわしらに出来るこたあ、一匹でも多く敵を殺すことだけさ」
惨状を視界に収めた竜騎士はハッキリと、断とした語調で言った。
その声にはこの男がこれまで歩んできた戦場と経験の重みが含まれていた。
「なら、尚のこと街へ降りて戦うべきでは!?」
「〝ファーレンハイト飛行隊〟がもうケツまで来てる!
掃討戦はあいつらに任せときゃあいいんだよ! なに、心配は要らねえさ!
<ファイデン>の槍にかかりゃあ、地虫なんざあっという間に一網打尽だからよ!」
バレンドールはそう叫び、手綱を一度ぴしゃりと打つと地上へ向かう飛竜の速度を一段階上げた。
空を切る風が耳を裂くような冷たさを感じる中、わたしは振り下ろされないよう両腿に必死に力を込める。
「それよか坊主! 他人よりも手前に気合を入れておけェ!
なんせこれから花火の中に突っ込むんだからなぁ!
お前も戦いに生きてる男ならいつ死んだって構わねえと肚も決まってらあな!?
さあ行くぜ! 地獄で一旗挙げるとしようやあっ! ハァハッハハァ!」
バレンドールの叫びと同時に厚い霧の層を飛竜が抜けた。壁の外に出たのだ。
そこに見えるは無数の軍勢。<オランピア>市内にあらわれている魔物の数など到底比ではない、文字通りの『無数』の魔物が平原に存在していた。
壁に背を向けて戦っているのは人間側の兵だろう。
彼らは黒い波となって押し寄せる怪物を次々に討ち取っており、一見して優勢のようにも思えたが巨体の魔物が振るった腕の一撃で数名の人間が吹き飛ばされたのを目の当たりにし、甘い考えをわたしは捨てた。
バレンドール・デュランの駆る飛竜は最も魔物が密集している箇所へと向けて、引き絞った矢のように落下した。
突撃の衝撃で周囲一帯の魔物が吹き飛び、物言わぬ死体へと変わる。
踏みつけた鉤爪が数体のオークを引き裂き、咆哮とともに振るわれた尾が巨象の足を払って地に伏せさせた。
背丈3メートルはあろうかというトロールの頭蓋を飛竜の牙が噛み砕いたと同時にバレンドール・デュランは手綱を手放した。
具足で覆った両足に力を込め、風の渦を発生させた彼は一瞬で空高くへ飛翔する。
飛竜に蹂躙されるがままの霧の怪物たちが視線と敵意を頭上の<ラビール>へと向けるがしかし、矮小な体躯の竜騎士は怯まず、声高に吠えた。
「我が槍は曇天を貫き、邪龍を屠る黎明の光!
愛神より賜りし〝紋章〟を担いし我が名は――!
<ファイデン竜王国>が筆頭竜騎士、バレンドール・デュランッ! 推して参る!」
瞬間、光の雨が辺り一帯に広く降り注いだ。
これは普通の光ではないと直感した直後、飛竜がその翼膜でわたしを覆い光からかばい、呻くように鳴いた。この光を受ければどうなるか伝えたかったのだろう。
バレンドールが放ったと思しき光を受けた物体はどれもが激しく発火していた。
全身が松明の炎のようにごうごうと燃え盛り、次々に黒く変色して地に伏せていく。
それらが灰になって崩れ落ちるのにそう長い時間はかからなかった。
無差別の広域攻撃がバレンドールの持つ紋章――〝絆と炎の紋章〟だったか――の力なのか? 考えるのは後だ。今はこの場を離れねばわたしまで炭焼きになってしまう。
わたしの感情を察したのかどうなのか、飛竜は突如身震いをするとわたしを振り落とした。
彼はわずかにこちらを振り返ると瞳を覗くようにわたしを見つめ、翼を広げると戦場のどこかへと向けて飛び立った。
「……取り残されたってことで……いいのかな」
自身に確認する。ここは戦場のど真ん中だ。
人間はどうやら周囲にひとりも居なさそうだ。聞こえてくるのは荒い息遣いと咆哮だけ。
腰に吊った鞘に剣は納まっている。いつでも抜ける。
戦場の一部を壊滅させたバレンドールの光の雨。異常を感じ取った魔物の群れが大量に押し寄せてくるのが空気の振動で分かった。
剣の柄頭に指を這わせる。柄を握り、素早く抜く。
それからいつもの所作。指先を立てると胸の前で円を描き、握りこむように拳をぎゅっと握る。
「事実は小説よりも奇なり、とはよくもまあ言ったものだなあ……」
さっきまで街の中に居たかと思えば今度は敵陣のど真ん中にただひとりだ。
生きた心地がしないか? いいや、むしろ自分にふさわしい場所だと実感する。
死ぬとは思わないのか? いいや、自分が死ぬなどとは少しも思わない。
高揚しているのか?
「――認める。僕は今、こいつらを倒せることに高揚している」
霧をいち早く抜けた個体が居た。
四つん這いで素早く動く、仮面で顔を覆った耳長の魔物。尾骨のあたりから生えた太き大きな尻尾でわたしを突き刺そうと狙っている。
初めて見る魔物だ。興味はあったが、しかし慈悲はない。
わたしは彼の首を下からすくい上げるように剣を振るうと静かに首を刎ね飛ばした。それと同時に別方向からの殺意を感じた。
飛び散った血が地面に落ちる前に制御を失った死体を片手で掴み、振り返りざまに前へと突き出す。
するとドスドス、と鋭い何かが死体を突き刺した感触がした。見れば骨で組んだ槍の穂先や異形の矢がいくつも突き立っている。
奇襲が失敗に終わったことに苛立つ呼吸や舌打ちが聞こえた。
この程度じゃ甘い。この程度ではわたしの――ユリウス・フォンクラッドの命は奪れはしない。
………………
…………
……
戦場にはたまにああいう奴が現れる。
自分と同じ『人間』なのかどうか判断しかねるような奴だ。
どんなに傷を負っても霧の魔物をぶち殺し、剣を手からこぼして素手になったら今度は死体から武器を奪うなりして次の魔物を殺す。
武器が落ちてなけりゃあ素手で目を潰して、その辺りの骨やら籠手で殴りつけて殺していた。
奴の怪物みてえな戦いっぷりを見て心底びびっちまった奴は『悪魔』だと言うだろうし、窮地を救われた奴は『英雄』と呼ぶかもしれない。
ああ、そうだ。ルヴェルタリアの戦狂い共なら拍手喝采だろうな。
だが俺みてえな……戦いに身を置いて何十年も経つような男でも、あの黒髪の若造の戦いはただただ恐ろしいと感じた。
こいつこそ霧が生んだ怪物なんじゃないかと思っちまうほどだ。
こいつは戦いに酔っている。霧の魔物から街を守るために戦ってんじゃない。報酬のために戦ってるんじゃない。
こいつは霧中での戦いに酔っているんだ。
――……俺が居た前線は全滅に近い状態だった。ルヴェルタリアの騎士連中や連邦の一軍どもが守っている中央と右翼は無事かもしれなかったが、素人揃いの左翼はボロクソだ。
気のいい酒屋のオヤジは死んだし、まだ若い配達屋の男も死んだ。数年来の付き合いだった傭兵上がりの女も不意打ちでお陀仏だ。
一番やべえ波はどうにか凌いだが全員が満身創痍だった。
士官学校出だとかいう坊ちゃん騎士やら、お高く止まった机仕事連中の騎士は生きちゃあいたが無傷のやつはひとりも居ない。
もう目の前に迫っている魔物の波が打ち寄せればあっさり潰されて死ぬのが分かりきっていた。
流石の俺も最期かと思って〝五神〟の一柱……ブランダリア様に召し上げられるように祈った時だ。
光の雨がでたらめに降りまくり、それからいくつもの火柱が立った。
黒髪の男が出てきたのはその直後だった。
若い男だった。全身が返り血で濡れていて、一目でまともじゃないことが分かった。
最初は直剣を握っていたみたいだが弾かれた折にどこかに消えた。
それでも男は戦って戦って戦い続けた。
泥臭かろうが卑劣だろうが使える手はすべて使い、戦局をたったひとりで覆しちまった。
最後に出てきたでけえ魔物……鎧を着ていて何か人の言葉を喋っていたが内容までは分からねえ。
確かなことは黒髪の若い男は結局そいつも殺したってことだ。
どこかの誰かがあいつを指して『鬼人だ』、と言っていた。
そりゃあいい、と思ったよ。このバケモノにはその呼び名がよく似合う。




