147. 週末の鐘
その日の朝は珍しく晴れていて、<ハインセル>と<マールウィンド連邦>との国境に横たわる山脈の尾根を朝焼けの色がオレンジ色のペンキをぶちまけたような鮮やかさで彩っていた。
まだ朝露の残る草原の上へと顔を出したばかりの朝日が背をぐんぐんと伸ばして、夜を追い出していく。
この時期の野鳥の目覚めは早く、どこかの樹木から草原の上へと舞い降りると辺りをきょろきょろとそのよく視える目で見回し、それからクチバシで地面を掘り起こしたり、どうにか生きながらえようと葉の裏に隠れた芋虫をあっさりと捕食する。
そんな彼らは大きく響き渡った金属音を耳にすると慌ただしく翼を広げて飛んでいった。
音の正体は戦いの音色。鉄と鉄が打ち合う、その筋の人間が聞けば朝の眠気が吹き飛ぶこと間違いなしの快音だ。
音を奏でる二つの鉄の内のひとつを振るっているのはわたしだった。
〝鉄羊〟騎士団が拠点とするテント群の前でわたしは剣を握り、一人のルヴェルタリア騎士を相手に立ち回っている。
巧みな足さばきで動き回るわたしの周囲を十五人ばかりのルヴェルタリア騎士が取り囲み、彼らは鉄板を適当に打って作ったようなマグカップに注いだコーヒーをすすり、直剣と斧槍の戦いをじっと見つめている。
「届かない……、やっぱり――遠い、なっ!」
対峙するルヴェルタリア騎士は丸太のように太い両腕で斧槍を握り、暴風のように振り回していた。
重心の特殊な斧槍の手綱を彼は完璧に握っており、それが証拠に上体はでたらめに安定している。まるで大地に根を生やした樹木のように。
上下左右のどこからでも現れる斬撃の筋を読み、躱す。
わたしのこめかみから上を横一閃に両断しようとする一撃を屈んで躱し、前かがみの状態から体を捻るようにして素早く切り上げを放った。
不利な姿勢であろうとも反撃の手を打て、というのが父の教えであり、それはわたしの中で今でもまだ生きている。
斧槍を振るう銀騎士の首元へ吸い込まれるようにわたしの剣は向かっていく。だがこの逆転の刃が彼に届くことはなかった。
理由は明快。敗北だったからだ。
彼の槍の穂先がこちらの首に触れていた。ぷつ、と皮膚が裂かれ、ややあって血が伝う感触がした。
「まだやるかね?」
兜の中で反響し、くぐもった声がわたしに問いかける。分かりづらかったが声の主はたしかに高揚していた。
まだ戦えるだろうかと自分自身の調子を確認する。
全身が強く熱をもっていた。特に左目だ。包帯で覆った傷口がうずくような熱を発している。
これ以上は……――「あんたバカじゃないの!?」と叫ぶアーデルロールの顔がとっさに浮かんだ――やめておいた方がいいだろう。
「いえ、降参です。ありがとうございました」
剣士という奴は脳みそと腕の考えがチグハグだ、とはどこの酔っ払いが言った言葉だったか。
言葉とは裏腹にまだ戦いたがってウズウズしている右手を開いて剣を地面に落とし、代わりに勝利者たるルヴェルタリア騎士の差し出した手を掴んでわたしは立ち上がった。
横に並ぶと騎士は銀色の兜を脱いで褐色の顔を朝の外界に晒した。
「リブルスには軟弱者しか居ないと思っていたがぁ、今後は考えを改めなきゃいかんね」と痛快な言葉を添えて。
「流石はじゃじゃ馬アーデルロールの選んだ騎士だな。いい立ち回りだったぜ!」
「ルヴェルタリア騎士を三人抜きたぁ大した兄ちゃんだ。フハ……三姉弟で一番の跳ねっ返りのお眼鏡に叶うだけはある」
「いいやぁ? 奴はただのガキさ! この程度で疲労してるようじゃ〝大穴〟で使い物になりやしねえ!」
「おぉい! 次はオレだ、オレと戦ろうぜ!」
届く声は様々だったが拍手の音は皆同じだった。
わたしは顔をとめどなく流れ落ちる汗を腕でぬぐい、彼らへ向けて頭を下げて礼を言った。
………………
…………
……
「よくもまあ毎日飽きもせずに来るもんだな、坊主。
うちの副隊長に傷をつけられた左目を治すことに集中した方がいいんじゃねえのか?」
テント群からの帰り道。
<オランピア>の市内へと入る門前へと向かっている途中に見送りの騎士がそうわたしに尋ねた。
「剣を振っていないと落ち着かないんです。最近は特に。
これから〝精王〟の試練が控えているのなら鍛錬を抜くわけにはいきません」
「なるほどな。
俺たち騎士団がついていけりゃあ、その試練ってのも楽に済むとは思うんだがそりゃあ無理なんだっけか」
「残念ですがその通りです。
僕とアーデルロールを含めた五人の面々でなければ今回の試練には臨めない、と〝水精王〟が言っていましたから」
これはアーデルロールが〝精王の試練〟に臨むにあたって〝鉄羊〟の助力を得ようとした時のことだ。
彼女は今現在契約を成立させているセレナディアへ、旅の仲間以外が試練の場に立つことは許されるのか? と問い、女王はこれをしばし考え、否定した。
〝水精王〟曰く、試練とは継承者が真に〝霧払い〟を継ぐに足るかを〝精王〟が自身で見定める場であるとのこと。
試練の内容と結果の判断はそれぞれの主観によって行われるものであるため、一概に第三者の参戦が認められないとは言えないのだという。
が、今回対面するであろう〝炎精王〟に限ってはまず間違いなく否定する、とセレナディアは断言した。
『あの炎王は〝霧払い〟ガリアン王とセリス・トラインナーグら〝四騎士〟との間に結ばれた絆をとりわけ高く評価しておった。
故に、その継承者の資質を見定める試練となれば……。アーデルロール、そなたと仲間らの結びを奴は注視するだろう。
つまり他者の助力は望めぬ、ということだ。励むが良い』
「んじゃこいつが今日の取り分だ。明日も来んのか?」
「ええ。そのつもりです」
門前での別れ際に銀騎士が皮袋をわたしに手渡した。中身を見ずとも、じゃらじゃらとした男が正体を教えてくれる。貨幣だ。
実のところわたしは〝鉄羊〟の野営地で片目での戦闘訓練を行いながら、金を賭けて戦っていた。
賭けの内容は『リブルスの素人が北育ちを相手に何人ぶっ倒せるか』。
わたしは常に自分自身が全員を打ち倒すことに賭け、やってみせるぞと息を巻いているのだが今の所それが実現出来そうな見込みはない。
本来なら賭けに負け、身銭を失うばかりのはずのわたしにこうして少しばかりの金銭を『取り分』と称して渡してくれるのは、彼らがわたしに対してある種の賞賛を送っているからなのだ……とこの送迎役――とは名ばかりのサボりだが――の騎士は言っていた。
その賞賛というのはアーデルロールの近衛を務めていることへの感心だとか、アーデルロールの心を射止めた――これは大きな声で否定した――天然記念物だからだとか、色々な意味を含めてのものらしい。
「ではありがたく。明日は勝ちますよ」
「明日ねえ……。
そろそろ大巨人が山を越えて出て来てもおかしくねえ頃合いだ。
連邦騎士と<ファイデン>の竜騎士連中もぞろぞろやってくる。
俺たちが明日もお前に付き合えるかは分かんねえぞ」
「それでも行きます」
「頑固な奴だな。ま、そうじゃねえとな。あばよ」
くるりと踵を返した銀騎士の背中を数秒見つめ、わたしも振り返ると帰路へついた。
――……ルヴェルタリア騎士は強い。それは剣を交えるたびに強く、深く、染みるように実感する。
先日の闘技場で対峙した彼らはてんで本気ではなかった。
というのも魔力による身体強化を使用していなかったからだ。
いや、使用していたのかも知れなかったがそれでも微々たるものだろう。全力の彼らからは程遠いものだったというのが今では嫌でもわかる。
野営地で戦うようになってからの北騎士たちは全身にありったけの魔力をみなぎらせ、自らがこれ以上なく信頼を置き、また命を預けている大剣や斧槍を雄々しく、あるいは鮮やかに振るう。
その威力は凄烈という言葉に尽きる。
叩きつけた刃は大地をあっさりとえぐり、振り上げた切っ先はいかなる魔力の仕業かは分からないが地面から無数の刃を出現させもする。
モノが違う、と現実を突き詰められる思いだった。
仕方がない……と言い捨てたくはなかった。なかったが、彼らは本物の怪物狩りだ。
千年を数える歴史をもつ怪物狩りの一団なのだ。
彼らの領域にいずれ追いつけはするだろうが、それは今この時にひとっ飛びというわけにはいかないだけだ。
さて。それら怪物狩りの騎士らを相手にわたしは不幸なる鍛治師が鍛えあげた直剣を振るうのみだった。
どれもかれもが初見にして未知の戦技をわたしは直感に従って回避し、時には刃で流し、銀鎧たちに一撃を見舞うべく立ち回っていた。
やがて一人の騎士を倒した時、自分の地力が上がっていく確かな感覚があった。
時間が許す限りわたしはここで自分自身を鍛えるべきだ、とも悟った。
でなければ〝精王〟の試練に打ち勝ち、いずれウル〟に一撃を報いることなど夢物語として終わってしまうと自覚していたからだ。
「……いつか……必ずだ」
石畳の上をぼんやりと見ながらそんなことを思い、歩いているとわたしの鼻腔を紅茶の香りがくすぐった。
意識を強く惹きつける香りだ。そのうえ焼きたてのパンの匂いまで漂ってきたとなれば、これを無視することなんて出来なかった。
視線を向けた先にあったのは赤茶色のレンガで組まれた一軒の喫茶店だった。
ドアの上にはニワトリをかたどった鉄具が取り付けられていて、空色の窓枠の向こうでは腰ほどの長さのおさげを下げた少女がキッチンで忙しなく動き回っている。
「こんな時にまだお店を開けているのか。
……今更どうにもならないと諦めているのかな」
<ハインセル>から巨人が現れる、という破滅的な事実は紆余曲折の末に<オランピア>の行政官が都市全体に周知することで、この海岸近くの巨大都市の住人全員がおよそ知るところとなった。
最初の二日間はひどい騒ぎだったが今では沈静化している。どこにも逃げられないことが分かってしまったからだ。
<オランピア>の周囲は霧で囲まれている。集団で脱出をしようにも、途中に横たわる霧につかまって命を失うだけだということもあっという間に知れたのだ。
それでも砂つぶ程の希望を信じて外へ逃げ出す連中は絶えない。今では『往きて戻れぬ冥府の門』と、街の正門を呼ぶ輩も居るほどだった。
この喫茶店は日常を続けることを選択したのだろう。
そんなことを思うと、壁に開いた小さな通風孔から焼きたてパンの匂いがまた香った。
キッチンを見れば少女が釜からすっかり焼きあがったパンを取り出すところだった。反則級の匂いが漂ってくる。これはズルい。
ぐう、と自分のお腹が鳴るのが分かった。
「……んん……これは悩むな……。
しかし、いや、でも……よし!」
少しばかり迷ったが自分のポケットに少しばかりのコインが収まっているのを思い出すと同時に迷いは消滅した。
<秋の名残>と屋号を掲げた喫茶店の扉をそっと開く。軋みの音が少しだけ立った。
鈴の音がりんごんりんごんと何度か鳴り、キッチンの奥から少年がぱたぱたと走り寄ってきた。
麻で編んだ手製のシャツを着込んだ彼は首元に藍色のネクタイを結んでおり、口角をきゅっと上げた笑顔をわたしに向け、
「いらっしゃいませ!」と朝に似合いの元気な挨拶を寄越してくれた。
「お一人様ですか?」
「うん。一人。ここでいただいていくよ」
「かしこまりました! こちらへどうぞ!」
わたしは案内された壁際の席――少年とキッチンに立つ少女と両親が写った家族写真がいくつか立てかけられていた――に腰をかけ、メニューの表で『おすすめです!』とコメントの付けられていたセットを注文した。
給仕の彼はまたも立派な返事を口にするとキッチンへ引っ込み、ビヨンとアーデルロールにどう言い訳をしようか考えていられるだけの時間が過ぎた頃に注文の品を乗せたトレイを運んできた。
彼はわたしのテーブルの上にパンケーキをはじめとした品を手早く並べ、やや緊張の面持ちで香りの高い紅茶を花柄のカップへ注いだ。
「ありがとう」と一言を添えたチップを差し出すと少年は首を振ってこれを辞退した。
しまった、と思う。わたしの要らぬ気遣いが彼を傷つけたかもしれない。
そうして手を引っ込め、皮袋の口を開いてコインを戻すわたしの顔をどうしてか少年はじっと見つめていた。
それこそ本当にじっと。
わたしが皮袋をポケットに突っ込んでからも、彼はまたばき二回分の時間はこちらへ視線を注いでいた。
「兄ちゃん、もしかして闘技場に出てた人?」
居心地が悪くなって来た頃に少年が口を利いた。
「〝悪竜殺し〟と良い試合をしてたよね?」
「ルヴェルタリアの騎士たちも出場していた試合なら出ていたよ。負けちゃったけどね」
わたしの肯定に少年は表情をほころばせた。給仕の役から年相応の子供の顔へと戻ったのが分かった。
「やっぱりそうだ! 顔の半分が包帯でぐるぐる巻きだからすぐに分かんなかったよ。怪我したの?」
「うん。ちょっと重たいのを喰らってね」
回復魔法が正しく効果を発揮すればこんなこともなかったのだが。
少年はトレイを脇に挟むとニカッと笑顔を浮かべて、
「そっかぁ。残念だったね。
なあ俺さ! 兄ちゃんの戦いっぷりを見てすげーって思ったんだよ!」
「そうなの?……なんだか気恥ずかしいな」
完璧な焼き色をしたパンケーキの表面へとハチミツを格子状に垂らしながらわたしは答えた。
最中にも少年は給仕の仕事を忘れてわたしに向けて矢継ぎ早に質問を飛ばした。
闘技場の舞台に立った時はどんな気持ちだったのか、霧の戦いに赴いたことはあるのか、強さの秘訣はなんなのか、とか……。
「もしかして君は剣士になりたいの?」
「! どうして分かったの!?」
いやなんとなく、とさらっと言っても良かった。
が、わたしも時々冗談やからかいを口にしたくなる時はあるもので。
「実は僕は剣士であると同時に魔法使いでもあるんだ。
具体的には……ハチミツのかかり具合を見て相手が何を考えているかが分かる。君は……そうだな。僕に剣を習いたがってるね」
「やばい……本物だ……お見通しだ……っ!
そうなんだよ、剣を教えて欲しいんだよ! なあなあ、教えてくれるのか!?」
大いに興奮した少年を見てわたしは柄にもなく得意になっていた。アーデルロールやビヨンを相手にこの類のからかいは通じない――真顔で『あんたバカ?』と言われるのはつらい――ので、なんとも言えぬ満足感が心の中に広がっていく。
「怪我をする覚悟があるのならね」
言いつつパンケーキを一切れ口へと運ぶ。幸福だ。
「任せてくれよ! じゃあ早速今からさ!」
「それはダメ。僕は朝食を食べているし、それに――、」
フォークの先で少年の後ろを指すと、小さな給仕係がそれを追って振り返る。
するとそこには両腕をぎゅっと組んだ少女……キッチンに立ち、パンを焼いていたあの少女だ。彼女はあからさまな怒気をはなち立っていた。
「君の上司が怒っているから、まずは怒られておいで」
「う、うん……」
「お昼頃に中央公園で待ってるよ。動きやすい服で来るのがおすすめかな」
………………
…………
……
正午ぴったりに少年が姉――キッチンの少女――を連れて現れた。
店は大丈夫なのか、と訊くと両親が市場から戻ってきたので問題ないとのこと。
「弟をよろしくお願いします」
少女の言葉にわたしは頷き、それから興奮気味の少年にかんたんな手ほどきをつけていった。
構えと足の開き方。素振りの軌道と動く際に意識する体と筋肉の部位。
少年は最初からわたしとチャンバラごっこをするつもりで来たようで、この地道な下積みはなんともつまらなさそうだった。
が、つまらなさそうなのは表情だけだ。彼はひとつひとつの指示をちゃんと聞き、動作をしっかりとこなしていく。
人の教えをしっかりと聞くというのは大事な素質のひとつだ、と父が言っていたのを思い出す。
この少年の年頃のわたしはどうだっただろうか?
父フレデリックにとっての立派な弟子になれていただろうか?
答えを聞こうにも父は居ない。
一方で少年の姉は木剣を振る弟の姿を満足そうな表情で見つめていた。それこそ母のような慈愛の顔で。
破滅的な災害が迫っているのを束の間忘れ、仮初めの平和はそうしてのんびりと過ぎていった。
……意外なことにこの平和は一週間近くも続いた。巨人の襲来も霧がゆらりと現れることもなかった。
その間中、少年の姉は自分の弟に剣の才能や大成する見込みがあるかどうかを決して尋ねてはこなかった。
彼女がわたしに対してそんなことを問うことはきっとこの先もずっと無いだろう。
自分より頭二つぶんも小さい弟が、命を賭けて戦場に立つことを少女は望んでなんていないのだ。
弟がこの街で育ち、普通の恋をし、妻をもらい、子を成すことこそを少女は望んでいる。
むしろ世の中の大多数の人間は自分の身内に対してそう思っているに違いない。
剣に命を預け、明日も知れない日々を送るのではなく、どこかに根を下ろして時折顔を見せて欲しい……。そんな平和を大衆は望んでいる。
ふと、わたしの母も息子に対してそんな感情を抱いていたのかと思うと胸の中に小さな寂しさが立った。
ある日のことだ。
宿近くの食堂でアーデルロールとビヨンの三人で夕食を囲み、コルネリウスとギュスターヴの二人がそろそろ戻って来る頃じゃないか、と話していた。
「支度はすっかり整えたわ。あとは二人が戻って来るのを待つだけね」
「聞き込みも済んだよ。<イヴニル連山>の山腹に古い祠があるんだって。
詳しく質問したら<白霊泉>で見た祠と同じようなものだったよ。
絵も描いてもらったんだ。ほら」
言ってビヨンが卓上に広げた羊皮紙には確かに<白霊泉>で見た祠と同様のものが描かれていた。
あの時と状況が同じだというのなら、この祠を通じて〝精王〟の領域へと入ることになる。
「でかしたわ、ビヨン。詳しい位置は?」
「ばっちり聞いてきたよ。登山ルートも教えてもらったから、後は行くだけだね」
「じゃあコールとギュスターヴさんが戻ってきたら出発だね」
「ええ!」
山ほどのスパゲティの束を吸い込み、アーデルロールが咀嚼する。
頬をリスのように膨らませた彼女が飲み込むのをわたしは水を飲みつつ待った。
「――……二人に一日の休みを与えてそれから出発! 決まりね!」
「人道的だね。了解」
「おー」
鐘の音が大きく、長く鳴り響いたのはその時だった。
瞬間的に人々が行動を止め、時が止まったような錯覚を得る。
喧騒が消えた。鍋にかかった火が弾ける音と天井から吊られた燭台が揺れるキイキイといった音だけが場に横たわる。
この終末的な雰囲気には覚えがある。
何回、何十回と経験してきたのだから当然だ。
霧の到来を告げる警鐘が鳴ったのだ。
一瞬後に「霧が出たぞ!」と誰かが声をあげ、辺りが悲鳴と混乱に包まれる。
どの村も、街もそうだった。きっと国境を超えたって過去へ遡ったってこれは変わらない。
人々がわたしたちの横を走り過ぎ、店内を抜け出してどこかへ去って行く。全員が店を後にするまでにそう長くはかからなかった。
後に残されたのはわたしとアーデルロール、ビヨン。それから禁煙であろうキッチンでタバコに火をつけたハゲ頭の店主だけ。
「どうしようか。助太刀に出る?」
第一声を切ったのはわたしだった。言いながらも腰に吊った剣の柄を指は撫でている。
「〝鉄羊〟のエイリスさんは『試練があるんだから無茶しないで』って言ってたね」
「そうね。でもルヴェルタリア騎士の誓いを無視してまで、とは言ってなかったわ」
立ち上がりざまにアーデルロールは言った。
衣服こそ勤め先のウェイターの制服のままだが、表情は戦士のそれである。
「ルヴェルタリア騎士の誓い。
『弱者に手を差し伸べ、強者には勇をもって臨み、霧と悪にはまばゆき剣先を向けよ』
ユリウス、子供の頃にあんたが誓ったアレよ」
「覚えてるさ。なら、僕たちがやることはひとつだね」
「ええ」
アーデルロールがうなずいた。
口の片端を吊り上げてニヤリと笑う彼女の笑顔は特に大胆不敵だ。
と、一服をしていた店主が煙の輪っかを吐き出して言った。
「やる気なら酒場に行きな。
今頃連邦の公務員殿が、冒険者連中に防衛戦の参加証明のぺら紙を配ってるはずだ」
「分かったわ。あんがとね、おっちゃん。
この街はあたしとその他大勢がきっちり守ってくるから安心しときなさい」
「……スカートをひらつかせた小娘がよくもまあフカしやがる。
気ぃつけろよ。ここんところの霧は毎回死人が大勢出やがるからな」
店主の忠告にアーデルロールはやはり威勢良く返事をし、わたしたちは店を出た。
まずは装備を取りにと宿屋を目指し、走る中でわたしはあの喫茶店の二人の姉弟を探していた。




