146. 羊の告げる
人によってはとっくに寝静まっていてもおかしくない夜更けの頃だった。
酔っ払い同士が肩を組み、歌いながら次の店を探すか歩くかしているような時間帯に、約束も無しに他人を訪ねる事自体がそもそもどうかと思うのだがわざわざ壁をぶち破って押し入り登場するという手段をとったこの乱入者は輪をかけて普通ではない。
ではない……のだが。
この女、エイリス・キングヒルと自称するこの乱入者はルヴェルタリアの誇る十三騎士団のひとつを束ねる――名乗りを信じるとしてだが――女勇士だ。
文よりも武。ペンよりも剣。命よりも誇り。
剣風渦巻き、金槌が鳴り響く騎士の国において勇名を轟かせる実力者なのだから、わたしたちの価値観とは違う世界に生きているのかも知れない。
きっとそうだ。普通の物差しが当てはまらないことを勘定に入れて接しよう。
遠巻きにじっと観察をするわたしの視線に気が付いたのかどうなのか。
側頭部から生えた大きな角を指先で掻いていたエイリスはこちらを見るなりに親指をぐっと立て、
「じゃあ行きますか、姫様! 〝鉄羊〟の駐屯地に!」
「あたしはこっちなんだけど」
「あっ、すんません! 行きますか!」
さっきまで目を合わせて会話していたはずの自国の姫を見失うとは。色々と大丈夫なのか、この人。
宿の主人に修理代の詰まった貨幣袋を手渡し、ついでに『こいつで勘弁してね』と頬にキスを贈ったエイリスは外へ出るなり足早に大通りを抜けていった。
後を追うわたしたちのことをまるで気にしていない足取りは凄まじく早く、ただの歩きだというのにまるで滑っているかのように見える。
黄色い月が夜天に輝く夜更けの時刻。
日中ほどではないけれども、それでもそこそこの人出のある通りを眠い目をこするビヨンの手を引き、じわじわと不機嫌が膨れ上がっていくアーデルロールの横顔をたまにうかがいながら<オランピア>の街をわたしたちは出た。
内壁を超えた途端に『このままでは外壁を超えて外に出てしまうのでは』という心配が脳裏をよぎったが要らぬ心配だった。
エイリスが率いる〝鉄羊〟騎士団の駐屯地は外壁のたもとにあり、そこには大小のテントが身を寄せ合うようにして数多く並んでいた。
わたしの故郷の村よりも〝鉄羊〟のテント群の規模はおおきく、ちょっとした町のようだと言ってもどうやら言い過ぎということはなさそうだ。
夜気の中でももくもくと煙を吐き出すいくつかのテントを移動しつつ観察していると、
「鍛冶場とか研究施設とか食堂とかさ。
諸々の施設がまとめて移動するのがうちの出征なんだよね。
だからいっつもこのぐらいの規模になっちゃうのよ」
先行していたはずのエイリスがペースを落とし、わたしたちの傍まで寄っていた。
彼女は懐かしいものを見る表情のアーデルロールをなんとも嬉しそうに見つめ、あどけなく笑った後にこちらを見ながら言った。
「うちはこれでも小さい方だよ。
ミスミんとこの〝星魚〟なんてバカでかい天体鏡ごと移動すんだから」
テント群の入口に立っていた六人の銀鎧――ルヴェルタリア騎士だ。兜を被っていなかったので亜人の素顔が見えた――は、接近するエイリスの姿を認めると吸っていたタバコをガントレットで覆った手のひらでもみ消した。
彼らはすぐさまに姿勢を正し、「お疲れ様です!」の声をひとつ。
「楽にしてよろしい」
団長の一声に安堵を覚えた彼らは次の瞬間、エイリスのそばを歩くアーデルロールを目にすると驚愕を露わにした。
大口を開け、とっさに声を出そうとした者が二人か三人居たがしかし、エイリスが「しー」とそれを窘めたので騒ぎへと発展することはなかった。
「そりゃ嬉しいだろうよ。団長の私も飛び上がるぐらいに嬉しいんだからな。
が、殿下がここに居たってのは黙ってること。
殿下を一目見れば皆が喜ぶさ。けどダメ。
お前らゼッタイ騒ぐじゃん。収拾が面倒だから騒ぎは避けたいんだよ。おら、返事をせい。北の兵ども」
「はっ! 了解しました!」
……が、人の口に戸は立てられないし姿も隠せないのは世の常である。
騎士団所有のテントの白い帆布に浮かぶ人影はあからさまにざわめき立っていた。
『今夜は呑むぜ!』という威勢の良い声まで聞こえた気がする。
ため息を吐くエイリスの後を追ってテント群の中を進んでいく。
月光を受けたイヴニル連山が落とす長い影の中にしずんだ一際大きなテント。
それがエイリス・キングヒルの所有するテントだった。
「ういー。戻ったぞい」
言って彼女が開いたテントの中にはひとりの男性騎士が居た。
それは日中にてわたしの左顔面を大きく傷つけ、またわたしがカウンターで顎を打って倒したルヴェルタリア騎士のウェインだった。
「お待ちしておりました」
書き物机に向かっていた彼が椅子から立ち上がりざまにそう言った。
「やあ、近衛騎士殿。昼間ぶりだね」
「その節はどうも」
わたしはそう返事をし、つづいて左のこめかみにわずかな疼痛を感じた。
「あの一撃はまさに肉を切らせて骨を断つ、だな。上手くやられたよ。
ところでその顔は……ううむ? 終了後に治療を受けなかったのかい?」
受けたとも。上手い結果ではなかったが。
「回復魔法の効きが悪くなったみたいで。大丈夫、気合いで治しますよ」
剣を交えた同士で握手を交わすと、ウェインの視線はアーデルロールへと移った。
実直かつ堅物そうな目元に驚嘆の色が差し、そして感極まったような顔になる。
感情の極点から極点へと移っていくような大きな表情の変化だ。
ウェインという男とは今日出会ったばかりだが、この男が意外と人間臭いかも知れない、と思うとなんだか好きになれそうな気がした。
「姫殿下――」
「はいはいダメダメ。ダーメダメ。
そういうのは話が終わってから。まだ仕事中だぞ、ウェイン」
大戦斧の底を床に突き刺し、いくつかの木組みの椅子をこちらへと片手で放り投げてエイリスが言う。
彼女の斧はよほど重いのか、あるいは特殊な背景を持つ代物なのか。
宙を舞う椅子を受け止め、並べているあいだにもズグズグと土中に埋まっていくのが見て取れた。
「――よいせっと」
「! ユリウス見ちゃだめよっ! 見たら殺すわ!」
「いだあっ!? 首が……っ! 殺される……」
他人が居るにも関わらずに鎧を脱ぎはじめたエイリスの着替えから視線を外し――もといアーデルロールに無理やり首を捻られて視線を外され――待つこと数分。
「あいお待ちです。
夜分にすんません、殿下。
早めに話しとかなきゃいけないことがあったんでご足労願いました」
椅子の上であぐらをかいたエイリスがそう切り出した。
サイズが随分と大きいゆるい服に身を包んではいるものの表情自体は随分と真面目な顔で。
「朝も待たずにってんだからそりゃ早めに、よね」答えるアーデルロールも割合にマジメな表情だ。不機嫌さも心なしか抜けている。
「すっかり言い忘れてたけど……また会えて嬉しいわ、エイリス。それにウェインも。無事で良かった」
「えっ!?」
硬く張っていたエイリスの表情が崩れ去った。
熟睡中に冷水をぶっかけられた顔とでも言えばいいのか、とんでもない驚きの顔だと言えば伝わるだろうか。
「こ、こ、こちらこそです。
いやどうしたんですか殿下。そんなこと言えるようになったなんて……驚きです。震えますね……。
見てください。ほら。鳥肌が立ちましたよ」
「いいから本題入りなさいってのよ。さもなきゃまた不機嫌アーデルロールに戻るわよ」
「そりゃいやだな。ウェイン、地図をお願い」
「はい」
返事をするなりウェインは天井から垂れた紐をぐいと引っ張った。するとルヴェリアの世界地図がするりと現れた。
北方、南方、西方、帝国領の四大陸が精細に描かれていて、また表面には数多くの記入があるのが見て取れた。
いくつかの土地を囲った赤枠や矢印の横につけたされた『消息不明』、『侵入不可領域』といったコメントの数々。
これはわたしのただの直感ではあるが、この先に明るい話が展開されるとはちょっと思えなかった。
「私は小難しい話があんまり得意ではないので……。
ほら、腕っ節だけで団長になったもんですから。ので単刀直入に言いますね」
「ん」
「霧の時代の再来が迫ってます、と言えば分かってもらえるでしょうかね」
「宰相の体を奪って〝霧の大魔〟が復活したってんだから、そうなるだろうとは思ってたわ。
それで具体的な状況はどうなの? 霧の時代の再来が近いにしては<オランピア>の空は晴れてるわよ」
「世界の大半がゆっくりと霧に沈みつつある……といった具合ですね。
一般的な霧は急速に現れますが、私たちが祖国を失って以降に観測されている特異な霧は、
まるで蛇が獲物に忍び寄るようにそろりそろりと世界に浸透してきています」
「ん……」
アーデルロールが口元を手で覆い、足を組みながら視線を横にやった。彼女の思案の顔だ。
記憶を振り返っていたらしい彼女はややあってから、
「エイリスたちが言う『特異な霧』って、あのやけに足の遅い濃霧のこと?」
「それです。あの濃霧が出現をすると<大穴>周辺……とまではいかないまでも、
この辺りに出現したことが無いような強さの霧の魔物が現れます。
そうだ。ちょっと話は逸れますが、私たちルヴェルタリア騎士団についても報告しておいた方がいいですね。
私たちはルヴェルタリアを離れた後、イリルの南方へと逃れると王都<リーンワール>の方角より出現する
魔物の群れの襲撃に対応するため、<大氷壁>付近に戦線を敷きました。激しい戦いは二週間以上連続しましたかね。
襲撃が沈静化し始めたある日、総団長が西方と南方の大陸にそれぞれ騎士団を二団派遣したんです。
目的は<大噴霧>の後、世界に何が起こったかの現地調査です。
西のローレリアには〝水鹿〟と〝風鷹〟が。
ここ、リブルスには私の団と〝雷馬〟が。
〝金獅子〟に〝影蛇〟は独自に動いているようです。
派遣後は現地にて継続した調査を行い、情報を十三騎士団で共有し、世界――おもに僻地からですが――が霧に閉ざされつつあることが判明しました。
この南方大陸だと大陸外縁や北東の<ハールムラング巨人領>の森林地帯が沈んでいますね」
「晴れることのない霧ね……。
この<オランピア>みたいに無事な土地は他にもあるのよね?」
「ええ。ここの他に比較的安全な土地は首都<ウィンドパリス>や南東の<白霊泉>が……いやあそこは少し違うかな。
あそこ、どうしてだか一切霧が出現しなくなったんですよ。連邦が<白霊泉>を近隣の避難区に設定したほどです」
あの海がごとき巨大湖を思い出す。と、連続して脳裏に浮かぶのは水の精王セレナディアの姿だ。
彼女は自らの領地であり霊地を守護する者。
契約をむすび、在りし日の力を取り戻した今、女王は自身の膝下に限り霧をはねのけることが可能なのだろうか。
その考えに思い至ったのはアーデルロールもだった。
差し出された茶を一息で飲みきると、
「きっと〝精王〟が関係しているわね」
「と言いますと?」
「あたしたちは<白霊泉>で〝精王〟と契約をしてきたのよ。ほら、これ」
アーデルロールは腰に吊った聖剣をエイリスの目の前に差し出した。
剣身の根元に嵌められていた十三個の宝玉の大半は輝きを失ったままだが、ただひとつ、水色の宝玉だけは脈打つように淡い光を明滅させている。
それを見たエイリス・キングヒルの表情がまたも変わる。
レオニダス王に忠誠を誓った遠い日に見た輝きを思い出したのか、彼女は桃色の唇から「これは……」と言葉を漏らし、
「契約の輝き……!
殿下は本当に成し得たのですね。
そうか……あの姫殿下が……大きくなりましたね。ほろり」
「親か、あんたは。
ふ、そして芋づる式にここ、<オランピア>の空が晴れていることの謎が解けたわ!
ここには〝炎精王〟が居ると〝水精王〟が言っていたのよね。
きっと〝精王〟の加護やらなんやらで、彼らのお膝元は安全ってことに違いないわ!」
「なるほど、そういうわけですか。
ただ、まあ……言いにくいんですけども……<オランピア>周辺でも霧は物凄く出るんですよ。
殿下はこの街に増設された区画の方をご覧になりました?」
初耳だった。アーデルロールは小首をかしげると「いいえ?」と答えた。
「増設区は近隣の避難民を受け入れるために急ぎで作成されたんです。
受け入れる民に対して職業、年齢、性別の区別は無し……だと良かったんですけどね。
冒険者や連邦騎士といった戦える人材は霧の戦線に出されるんです。
ウェイン、霧の戦いはどれぐらいの頻度で起こってるんだっけ?」
「一週から二週に一度の頻度で霧は発生し、戦闘が行われていますね」
「って具合に頻発しています。
戦いの回数を重ねるごとに魔物は確かに強くなっていて、かなり恐ろしいな、と個人的に思っています」
強者揃いのルヴェルタリア騎士にあって、十三ある騎士団のうちの一つを預かる団長が『かなり恐ろしい』と言い放つ状況はまずまともではない。
わたしの心配げな視線をエイリスが感じ取ったのかは分からないが、彼女は片手を振って不安を払うような仕草をした。
「<大穴>戦線のようなレベルの怪物はまだ出てきていませんからね。全然やれますよ。
ただ〝鉄羊〟の稼働には問題ありませんが、マールウィンド騎士や冒険者にとってはだいぶ骨が折れるようですね
実際に死傷者が大勢出ている。現状でずるずる進んだ先に陥る状況は見えていますね」
要はジリ貧、ということだ。
戦いの回数を重ねるごとに濃霧から現れる魔物は強くなり、やがて連邦騎士や冒険者の手には負えなくなる。
最終的にはルヴェルタリア騎士団のみで戦うしかない状況がはじまり、そして強者ではあるが決して不死身ではないルヴェルタリア騎士もやがては死に果てる。
幼い頃のわたしなら『そんなばかな』とでも言えただろうが、今は違う。
人は戦いの中で本当に死ぬのだ。
「団長。懸念事と言えばもうひとつ……」
「んあ?」
「<ハインセル>です。団長は直前までそちらの調査に赴いていたでしょう」
直前まで自分たちが歩いていた地名を聞き、アーデルロールが片眉をぴくりと上げた。
「エイリス、あんたも<ハインセル>に居たの?」
「そうなんです。殿下もですか?」
「ちょっと色々あってね。……そっちはどうして?」
「あの忌地で突然に強い魔力が観測されましてね。
大陸を超えて北方の騎士団本拠地(仮)からでも観測できたぐらいですから相当です。
私はその調査に出張りまして。……んで原因を見ました」
口が乗ってきたのか、エイリスはあぐらをかいたまま自分の膝をピシャリと叩くと間を置いて。
「巨人ですよ。天を貫くような背丈の大巨人が移動をしていたんですよ。
ゆっくり、しかし着実に」
「巨人ねえ……。巨人? 巨人っ!?」
「あれ、殿下は心当たりがあるんですか?」
「それもまたちょっとね。そんでそんで? 歩いてるっていうことはどこか目的地があるのかしらね?」
「目的地ですか。んー……残念なことにあるみたいですね」
言ってエイリスは自分の足元を指で示した。
嫌な予感がわたしの背筋を走る。
「ここです。ここ<オランピア>を目指して真っ直ぐに迷いなく進んできています」
エイリスが報告をしている大巨人、とは<ハインセル>からの脱出の際にわたしたちに襲いかかってきたあの大巨人だろう。
というよりそうであってくれ、と思う。あんなのが二体も三体も居たらたまったものではない。
「ここ!? あんなのが歩いてきたら街ごと更地になっちゃうじゃないのよ!?」
「ですね。実際にあいつは<ハインセル>の色々な街を潰してましたよ。
今現在は現地に残してきた部下たちが結界を敷いて足止めを試みていますが、ちょっと効果は期待できないですね。
皮算用ですけど、二週間程度でこちらに出現するかなと私は予想しています」
「二週間……」
避難をするには十分な時間だ。だが悲しいかな、人々が逃げ込む先は無い。
どこに逃げようとも霧はそこにあり、つまり人を襲う怪物も在るということだ。
大都市<オランピア>に住む大勢の人間を引きつれての大移動は現実的ではない。
だからといってこの危機を伝えない、ということもありえない。
となると取れる手段は大巨人の撃退だろうか。
……あの歩く災害を見た後では、どうしても脳裏に『抵抗など無意味で不可能だ』といった思考が浮かんでしまう。
「都市の住人を連れての集団移動はまず不可能。
私たちはあの巨人を撃退、あるいは撃滅する必要があります。
現在は騎士団本部を通じて、<マールウィンド連邦>と<ファイデン龍王国>に増援を要請し、二国からの了承を確認。
現在は戦闘時における連携案を考案しているところです。これはウェインがやってくれた仕事です」
「なるほどね。よっしゃ、あたしたちも手伝うわ!」
「はい、ダメです。それはダメ」
身を乗り出して気炎をあげたアーデルロールをぴしゃりとエイリスが平手を突き出しながら言った。
なんでよお……と、北の姫の勢いが鎮まった。
「そう言うだろうと思っていましたよ。ダメです、姫。ダメダメ」
「僕からも言わせてもらうけどダメだよ、アルル」
「ダメダメダメって何よ。何なのよ。
城の爺やじゃないんだからさ。ダメダメって言ってたら子供は育たないわよ」
もう十分に君は大きいと思うのだが。
「……最優先は〝精王〟だって言うんでしょ? わかってるわよ。
分かってるけど、手伝えるなら手伝うべきだと思うわ。あたしたちは〝霧払い〟の末裔なのよ」
「〝霧払い〟の末裔なればこそです。
殿下が先ほど仰っていたように〝精王〟との再契約がこの地の安定化に繋がるのなら、それを最優先で行うべきです。
いいですか? 戦うことなら私にも出来ることです。
そしてそこのウェインにも、ここに居るルヴェルタリア騎士の全員に出来る」
ですが、とエイリスが言葉を溜める。
「〝精王〟との契約はアーデルロール姫殿下にしか出来ないことです。
どうか、お願いします」
腕組みをしたアーデルロールは憤然とした面持ちではあったが、彼女がこうしたポーズを取る時には内心でやるべきことを理解している時だということをわたしは知っている。
今回もやはりアーデルロールはため息をひとつ吐くと、
「……分かったわよ。あたしがやるわ。
けどギュスターヴと仲間の一人がタイミング悪く出払ってるのよ。二人が戻ってきたらすぐに発つわ」
「お願いしますね」
「だから戻るまではさ、」
「そこの黒髪くんみたいにつまらない事で大怪我をされるのは嫌なのでそれもダメです。どうかご辛抱を」
「くっ……! なんでもお見通しってのが腹立つわね……! 普段ぼけっとしてるくせにぃ……!」
あれはポーズですよ、などと言いたげにエイリスは横髪をかきあげた。
「準備が整うまではオランピアで待機を願います。
そういえば軍資金を集めているんでしたっけ?
殿下ともあろうものが水臭いじゃないですか。わたしらに頼ってくださいよ」
「えっ、いいの? 〝鉄羊〟は金欠で有名だったから遠慮してたんだけど」
「総団長のやつがあんまり予算くれなかったんで余裕があるとは言えないですけど、殿下の頼みなら、」
「ありがとっ! 欲しいものはあらかじめリストにしてたのよ!
はいこれ。三日以内に宿まで運んでおいて欲しいわ。
品数は多いけど出来るわよね? いいわよね? やーっ心強いわね!
んじゃ後は任せたわよ! ほんと、ありがとね!」
そうアーデルロールはまくし立てながら数枚の紙をエイリスの胸元に押し付けた。
当の北の猛者はちらと紙面に目を向けるとすぐさまに嫌になったのか、「ウェイン君。よろしく頼むよ」と、部下にすべてを振った。
………
……
…
水を得た魚の勢いでまくし立てたアーデルロールの注文通りの品が揃ったのは翌日の夕方のことだった。
〝鉄羊〟騎士団の使者とわたしたちは<オランピア>のとある公園で落ち合い、大きな袋と『装備はかさばるので宿に届けておきました』という言伝を受け取った。
手渡された袋の中身は新調された防具一式と携帯糧食に食材一式。それから耐熱用の薬剤が人数分と予備が少々。
厚手の革袋には数多くの金貨と銀貨、あとウェインからのメモ――『大事に使ってください』といった内容だ――も。
「耐熱剤ってなんでまた」
透明の細長いガラス容器をつまみ、中に注がれた爽やかな青色の液体を揺らしながらわたしは言った。
服用すれば全身がすっと冷え、また体表面に氷と水属性の防護がつく、この耐熱剤は砂漠で活動するうえでの必需品であることは知っている。
比較的おだやかな気候が一年を通してつづく<マールウィンド連邦>では無用の長物だが、西の大陸ローレリアの砂漠地帯では必須の代物をアーデルロールが『欲しいものリスト』に加えた理由をわたしは問うた。
「炎の精王ってぐらいだからめちゃくちゃ熱いとこにいるかもしんないでしょ。だから一応ね」
「なるほどなあ……」
「街のすぐ後ろにある<イヴニル連山>は活火山なんだっけ。
もしその中に〝精王〟が居るのなら必須だよね。うんうん」
歩きながらにそうぶつくさ喋っていると浴場街に踏み込んでいたことにわたしは気が付いた。
「ここは……」
「風呂場だらけだね……!」
さて、件の連山は今なお活動を続ける活火山であり、山の奥深くではぐつぐつと赤熱の溶岩が流れているという。
それが故かこのあたりの土地では地熱を利用した大浴場――東方では温泉とかいうらしいが――が数多くあり、旅やら戦いやら家庭やらの日々の疲れを背負った人々がお湯につかっての心機一転を図りににやってくるのだという。
なにも<ハインセル>の大巨人が迫っていたり、霧が世界を端から喰らっている今でなくてもいいのに……と思わなくもない。
当事者意識の欠如というやつだろうか。どんな災害が目の前にあっても、きっと自分は無関係だ。という根拠のない自信とか……。
「せっかくだし入っていっちゃおっか」
大浴場から立ちのぼる湯気を眺めていたアーデルロールがぽつりと言った。
するとビヨンがばっと彼女を振り向き、跳ねっ毛の金髪を揺らして「いいの!?」と確認。
「うちタオルとか持ってきてないよ!?」
「あんた入る気満々じゃないのよ、ビヨン。
いやね。実は入りたかったのよね……。店に来る客がどいつもこいつも『風呂には入っときな!』なんて言うもんだから……」
「でも無駄遣いはダメだって君が」
などと発言を投じたがこれは失言だったらしく、二人の冷たい視線がわたしを貫く。
「ユリウス、あんたね。空気を読みなさいよ空気を」
「ハメを外す時は外さなきゃ損だよ、ユーリくん」
「いやでもコールたちが汗水垂らしてクエストをこなしている最中に僕たちだけが――、」
「大丈夫よ。あの二人ならそこらへんの川に飛び込んで気持ち良い思いをしてるに違いないから!」
「そういう話じゃ、」
「ぶつくさ言ってんじゃないわよ! 行くわよ、ビヨン! 真面目黒髪!」
「うち、アルルちゃんについていきます!」
「……なんて自制心がゆるいんだ……」
それから二人は適当にあたりをつけた浴場に入店し、番台をつとめる店員に人数分の金を手渡した。
別れる間際に『見たら殺すわよ』と定型文のような忠告を受け、わたしもまた『はいはい』と返し、それぞれが男性と女性の浴場へと姿を消す。
脱衣場で支度をしているあいだにも壁越しに二人の声がきゃいきゃいと聞こえ、静かにしてほしいと思ったが忠告をしようものなら壁越しに怒鳴られそうだと気づいてやめた。
たっぷり30分ばかり浸かった湯船から上がり、椅子に腰掛けて浴びる風は相当に心地よかった。
それこそたまにはハメを外すのもいいかもしれない、と思うぐらいには。
'21-10-27:ルヴェルタリアの騎士団の派遣の様子と、霧に沈んだ地域の様子をちょっと書き換えました。




