137. 鳥の気持ち
飛空艇はドック――船舶を整備する施設の名称だそうだ――の床から伸びた太い鉄鎖で縛り付けられていた。
黒光りをする頑強な鎖の数は四本。どれもが飛空艇の底部とつながっており、ふよふよと浮いたままの船体を捕らえている。
アーデルロールとギュスターヴの二人が腰に手を添えた揃いのポーズで並び立ち、感心した顔つきで古代の遺物を仰ぎ見ていた。
「はー。大したもんね」
口をぽかんと開けてアーデルロールが言った。
「どうして浮いてんのかしら。
鎖で繋いでいないとこのまま飛んでっちゃうの?」
「ああ、そうだ。
こいつは心臓部に収まってる結晶体の働きで浮いている。
雲海の浮島で採掘される物と同じ代物だが確か加工法が違うんだったか。
言うなりゃ空飛ぶ石のおかげさ。
お前の言うとおり、鎖で繋ぎ止めなきゃどこまでも上昇していく」
「ふーん。欲しいわね、その石」
「諦めろ。今じゃすっかり失われちまった技術だ」
「じゃあ乗るだけで我慢しとくわ。
ユリウス! コール! そっちの準備は!?」
姫さまが張り上げた声が石造りのドックにけたたましく響きわたった。
わたしとコルネリウスが汗水垂らして押している、この木造はしご車の車輪の音にも負けないとは大した声量だ。
「はいはい今行くよ! ああ、畜生、重すぎんだろ! 整備してんのか!?」
「20年近く放置されてる物、がっ、整備されてるわけ、ないでしょ」
「だ、よ、なあ!」
古代の悪趣味な刑罰の一種かと錯覚してしまうような重量の車を運ぶ中、頭上からは鼻歌が聞こえてくる。
音程が外れ、もどり、また外れる肩透かしなリズムを奏でているのはビヨンだ。
彼女ははしごのてっぺんに腰をかけ、手に持ったスケッチブックの紙面にペンを走らせて旅の情景を描き出している最中だった。
「画家のお嬢さんよぉい! もちっと景気いい歌頼むぜ!」
「霧が濃くてよく聞こえませーん」
「んな言い訳初めて聞いたぜ、おい」
彼女もマメな性格だ。旅の節目だったり貴重なものを見るたびに彼女は思い出を残そうとスケッチブックを開く。わたしには無い特技というかクセだった。
「そもそもこんなに霧が入り込んでて絵なんか描けんのかよ?」
苦しげな声とは対照的に、振り落ちてくる声は楽しげで、
「問題ないないっ。この霧も含めて描くんだからね。旅の思い出だよ」
「おかしいな。
俺の学が正しけりゃあ、思い出って大体が楽しい記憶のことだと思ったんだが。
ここはあんまし楽しいとこじゃなかったぜ。
むしろ早く忘れてえよ。なあ、相棒」
労働の手を止めず、わたしは何気なく答える。
「つらくっても思い出は思い出だ。大事だよ。
それより前見て前。そろそろ車を止めよう」
「了解っす。リーダー」
「リーダー違う。どこの現場なのさ、っと」
ずずん、と車輪の回転が止まる。遠心力ではしごがぐらぐらと大きくしなったが、上に座るビヨンは悲鳴ひとつ上げず、どころか器用に座り続けていた。
意外なバランス力だ。
「もちょっとこっちに寄せて。そうそう、いいわよ」
「あいあい……」
ようやく止めた車を現場監督の指示の声に従いふたたび動かし、右に左にと微調整をくわえて飛空艇のへりにはしごの先端を引っ掛けた。
いの一番にビヨンが甲板に転がり込み、それから面々が順々にはしごを登る。
「これはまた……」
霧の時代よりもさらに古い時代の遺物ということで期待をしすぎていたわたしが悪いにちがいない。そも、これはハインセル王国の技術者があっちこっちに手を加えた状態だという話ではないか。
甲板は短く言って乱雑に散らかっていた。
工具の類や鉄の機械に投げ出されっぱなしの羊皮紙の山。
中身がない服や鎧が隅にまとめられているのが不気味だったが、無理やりに意識から追い出し、ついでにコルネリウスを遠ざける。
ここで大声を出されても厄介だ。
「オレは機関室で調子を見てくる。
昔に酒の席でちこっと話聞いたから、まあ、大丈夫だろ」
「全然大丈夫じゃねえんだが。
オッサンが話聞いたのって20年前だろ?
俺らが生まれてもいねえ遥かな過去の記憶なんて信用できねえよ」
コルネリウスが随分とまともなことを言う。
彼のツッコミにギュスターヴは「それもそうか」と頭を掻き、
「んじゃアシスタントを貸してくれ。ビヨン、頼む」
「うちですか? ラジャーです」
力の入ってない緩い敬礼を返してビヨンが小走りに駆けて行く。
「それじゃ僕たちは――、」
「操舵室ね! 運転かますわよ!」
「……いいけどどうしてそんなに乗り気なの?」
甲板脇の階段を上がり、がらくたの山をいくつか退かすと『操舵室』と記されたプレートがかかった部屋が見えた。アーデルロールの目の色が変わったのは言うまでもないことである。
「よっしゃあ!」
「んな殴り込みみたいな調子で言うんじゃねえよ。静かにいこうぜ」
実物の船、その操舵室に乗り込んだことは人生で一度も無かったが内装は書物で知っているつもりだった。
だから飛空艇の様相には随分と驚いたものだ。ボタンやレバーといった操縦機器はただのひとつも無く、代わりにひし形の水晶がおさまった球体が浮いているだけなのだから。
「これ何かしらね? 叩いたら動くのかな」
小気味の良い音がパチンと響いた。
なんとも恐れ知らずなことにアーデルロールが平手をかましたのだ。
「バカ!?」
コルネリウスが飛び出し、ついでわたしも彼女の手をがっしと掴む。
わたしを相棒と呼ぶ男の顔には冷や汗が浮いていた。
旅の最中、彼も遺物の類を雑に扱っていたがそのたびに痛い目を見てようやく懲りたのだろう。成長をした男――コルネリウスは真摯な面持ちで、
「いいかよく聞け、アルル。
お前に機械を扱うのは絶対に無理だ。やめとけ。お願いだからやめて」
「コールの言うとおりだ。
子供の頃に物珍しさで買ったカメラを何台も壊したじゃないか。
あの惨事を繰り返しちゃいけない」
「それは可愛いもんだ。パン屋の窯をぶち壊したりもあったろ」
「なによお! 二人揃って!」
アーデルロールが恨めしげな視線をわたしたちにぶつけた。修羅の顔だ。
「あたしが水路の船をああも華麗に動かしたのを見てなかったわけ?」
「逆に聞くけどお前はあの時、『なんか分かんないけど動いたわよっしゃあー!』
って大声でのたまってたのを自分で覚えてらっしゃらないわけ?」
「なによぉ」
「なんなのよぉ」
「キモっ!? 真似すんじゃないわよ!
「いってえ!?
ごぁあ……腹があ……! だからな! 俺は!
どうして動いてるのか分からねえもんに命預けるのは怖いってんだよ!
それがアルル! お前が操縦だの起動させんなら尚更だ!」
腹をおさえてうずくまりながらにコルネリウスが言う。悶絶し慣れてきたのか口はかなり明瞭に回っていた。
彼の言いたいことはよく分かる。それはかなり恐ろしいことだ。しかし……、
「どちらかと言えば僕はハインセルの勝手に動く土地の方が怖いかな」
「バカッ、余計なこと言うな」
にんまり。
アーデルロールが顔をやや上向けた、あからさまに調子に乗った表情をして、
「そうよねほんとよねえ!
ぐねぐね移動する地形に比べれば今更空飛ぶ船が
勝手に動いたりしたってどうってこたないわよね! ふはは!」
高笑いのままにアーデルロールが踵を返して水晶体へと向かう。勢いにつられてばさりとたなびく白いマントは王者の風格であった。
「待ちやが……!」
男コルネリウスは立ち上がれなかった。悔しさに顔が歪み、床を拳で打ち付ける。
仲間の静止など知ったことではないアーデルロールは鼻息をフンフンと荒くして、水晶体に手を伸ばした。
ふぃん、と甲高い音が聞こえ、ガラス玉に光がともる。
それから小人の姿。これは……、
「映像……? 塔で見たものに似ている気がする」
「古いものってのは漏れなくこうなのか? ってて……」
「ふ、敗者はそこで這いつくばってるのが似合いよ」
振り返りざまに言う彼女の顔は悪魔的だった。
なにが彼女をああも邪の道に駆り立てるのかわたしには分からない。
コルネリウスの肩を支えながらにわたしはこうこぼすしかなかった。
「なんて顔だ。アルルの顔がとんでもなく悪い人相になっている」
「どこぞの奴よりよっぽど魔王だよな」
「ああ、同意だ!」
「あんたら仲良くぶち殺してあげるからそこで首洗って待ってなさい」
ガラス玉に映った人間が喋り始めたのは血が飛ぶか飛ばないかの空気感の中だ。
『ご利用ありがとうございます。こちらはターニル航空-286便です。
現在は自由航行モードに設定されております。
航行サポートのため、本機に目的地を設定してください』
ふうん、と悩ましげな顔をしているがアーデルロール、君はきっと何が起こっているのかをさっぱり分かってはいないはずだ。
「やめろ! 引き返すなら今だ! なんか出ちまってるけど多分今だぞ!」
「アルル。なにかまずい気がする。やめよう」
「うっさいうっさい! あたしはこいつを動かすのよ!」
「なんでこうまで意固地なんだこいつ?」
「彼女を動かす情熱はいったいどこから湧くんだ」
ぱちぱちぱちと適当な指使いでガラス玉に触れるが、どうやら正しい扱いではなかったようで人の似姿は同じような文言を繰り返した。
『目的地、および行動を設定してください』
「なによ。言えばいいの?
空よ、空! 大空に向けて飛び立つのよ!」
すぐそばでコルネリウスが鼻で笑う声が聞こえた。
「はんっ。んな適当な指示が通るわけねえ」
『承知いたしました。本機はこれより離陸を開始します』
「おーいマジかよーい」
ゴゴン、と船全体が振動した。
錯覚ではない。足元が揺らぎ、操舵室それ自体が歯車の一部となって何かにハマったような強く、確かな衝撃だった。
「あからさまにやばい音がしなかったか?」
「確かに聞こえた。船も揺れてる」
「うおっしゃあああ!」
「きっとこのアホの雄叫びで船が揺れてんだ。
やっぱり姫じゃなくて野生の獣だぜこいつ。出会った時から俺はそう思ってた」
鎖の束が鳴り響く音も続いて聞こえる。
まさか。本当に飛ぶのか。いやそのつもりではあったが……。
コルネリウスの言葉を借りるなら一言で表現できる。
それはつまり「マジか」、だ。
………
……
…
ギュスターヴとビヨンの二人は連れ立って機関室を訪れていた。
例に漏れずにやはりここも霧で満たされていて視界が極めて悪い。
しゅーしゅーと噴き出す音は何の音だろう。
不気味かつ狭い中を大柄のギュスターヴは器用な体捌きですり抜けていき、ビヨンは杖を抱くようにしてトタトタとその後ろをついていく。
が、注意はあっちこっちに向いてしまっていて時々こけそうになるのをどうにか踏ん張る状態だったが。
「青い宝石があちこちに散りばめられてる。これが浮遊する石ですか?」
「確かそのはずだが、それらはカケラだぜ。
一度見たことだけだが、心臓部にはとびきり大きな結晶があったはずだ。
そいつに魔力を溜める仕組みだとかなんとか……。
やべえな、コルネリウスの言うとおりに歯抜けの記憶かもしれねえ」
「まあまあ。これだけ霧があれば適当でも動きそうじゃないですか」
やれやれといった具合にギュスターヴが肩をすくませ、銅製の管を手で退けて前進していく。しばらくすると彼は「よし、あったぜ」と報告を口にし、
「こいつを探してたんだ。この船の心臓だよ」
「おおぉぉお〜……っ!」
無造作な力技で鉄扉を引き抜くと中には煌々と輝く水晶体がおさまっていた。
いくつもの金の管に繋がれたそれは緩やかに回転を繰り返していて、ヒン、ヒンと甲高い音を立てているようにも聞こえる。
「金の管が霧を吸ってやがる。
なるほど、本当にいけそうな雰囲気がありやがるな」
「うちもそう思います」
自分の背丈よりも大きな宝石の結晶を見上げてビヨンが声を震わせる。
きらきらと輝く目でとらえたそれを今すぐスケッチブックに描きたいだろうが彼女はどうにか自制心を保っていた。
「んじゃあ戻るか。
アルルがいかにアホでも勝手に動かしたりはしてねえだろう。
知ってるか? あいつってすげえ機械音痴なんだよ。なんでも壊しちまう」
「じゃあ飛空艇を壊されたらまずいですね」
「おうよ。あいつが起動させようもんなら空中分解、」
ゴゴン、と大きな揺れが機関室を震わせた。
古い機器の類がぎしぎし揺れて乗員の――ビヨンらの不安をあおる。
「…………だろうな……」
「……あの……動いてるような……」
「……間違いねえよ……」
………
……
…
飛空艇どころか建物自体が振動しているように思えた。いや実際そうなのだろう。
窓枠の外では上から埃やら土やら霧やらが渦となって降り落ちてきていて、甲板の上にこんこんと積もっていく。
雪みたいだ、と口にしたらコールがまた喚くだろうかと思っているとガラス玉がまたもや口を利いた。
『上昇中。現在自動航行モード。手動による操縦をおこなってください』
「おこなうわ!」
「二秒でいいから脳みそ回してから動いてくれ!」
「コールにしては正論だ」
槍が突き出る罠のような勢いで床から飛び出したのは操縦桿だった。
視認するやにアーデルロールは風の魔法で素早く動き、戦場に飛び込んだ戦士が己の剣を抜き放つような凄烈な勢いでザッ! と舵を掴み。
「行くわよぉお!」
雄叫びをあげた。
呼応するように甲板から突き出た柱――その上部の交差した鉄の板が高速で回転をしはじめ間も無く完全な円状に見えるほどになった。
浮いた船体はどうやら自らを縛る鎖を引きちぎろうとしているのか、さっきからギヂギヂとイヤな感じの音が絶え間なく聞こえている。
バンッ! と操舵室の扉が勢いよくブチ開けられ、当惑顔のギュスターヴが乗り込んできた。彼は舵をしっかりと握りしめるアーデルロールと滝のように埃が落ちてくる甲板とを見やり、最後に今にも千切れそうな鎖の音に頭をおさえ、
「こんのアホ姫! 何アホかましてくれてんだアホ!」
「アホアホ言い過ぎよ! 覚えてなさいよ!
そこで黙って見てなさい。あたしの華麗な! 操舵術をね!」
いよいよ鉄鎖が職務を全うするときがやってきた。
重い鉄塊が地に伏す音が四つ続けて聞こえ――それから船体が思い切りに横へと傾いた。
酷い有様だ。あちこちのドアが開け放たれるとその中身がボロボロこぼれ、甲板から物が次々落ちて行く。
「あれ? あれれれ? ちょ、ねえ、なんか傾いてない? 気のせい?」
「おいおいおいおいおいマジでセンス無いって、マジで!
うおおお頼む生きて帰らせてくれ! 生まれて初めて心から神に祈るぞ!」
「真横に倒れそうだ。転覆ってこんな感じかな」
「ユーリくんだずげでえぇえ!」
「だう゛っ!?」
やがて来るであろう天地逆転に備えるべく手すりに掴まっていると腰に金髪少女がしがみついてきた。が、不意の衝撃にも難なく耐える。鍛えていて本当良かった。
ガリガリガリガリと心の底がぞっとするような音が聞こえ始めると室内に赤い光が一斉に点り、けたたましい音が鼓膜を破らんばかりにわんわんと響く。
『船体の保護を優先。一時自動航行に入ります』
すると不可思議な力をもってしてか、船体が勢いよく垂直に持ち直した。「ど、どうなってんの!?」とアーデルロールがのたまう辺り、船は彼女の制御下には無いらしい。
ドックを擁する建物から船は勢いよく飛び出し、そのまま上空へと砲弾のように舞い上がっていった。
甲板から伸びるプロペラ――ギュスターヴがそう教えてくれた――が霧を巻き、船は黒雲の中へと飛び込んで行く――……。
………………
…………
……
「いやあ、なんとかなったわね!」
喜色満面の笑みで振り返る我が姫君。
炎の色の瞳がうれしげに踊っているが旅の仲間の表情は暗い。
「……もう俺は何も言わねえ……」
「コールくんがうずくまっちゃった」
「しばらく放っておけばまた戻るだろ。アルル、操縦代わ――、」
「え?」
魔王の視線が〝王狼〟を素早く射抜いた。
「……もうオレは何も言わねえ……」
「ギュスターヴさんまで丸くなっちゃった」
「きっとノリが良いんだ。
アルル、君の船の腕は信頼するけれど――、」
わたしの声は震えていないか?
大丈夫。大丈夫。冷静に努めろ。
「この船はほら、古いから何があるか分からない。
少し前に声に答えた時みたいに目的地を設定する、って言ってみてくれないかな」
何故だかわたしにはそう言えば良いという直感があった。
アーデルロールのやり取りを見ていたからか? 根拠を説明できないこともあり、どうしてそう思ったかという背景は伏しておく。
「うーん……まあそれもそうね。備えあれば憂いなしって言うし」
「コールくんが震えてる」
アーデルロールはちらとも見ない。
「船の人! 目的地を設定するわ。えと……そう、<イヴニル連山>ね。頼むわよ」
『イヴニル連山という地名は存在しません』
この返答にはいささか面を食らった。
イヴニル連山が存在しない? しばし考え、古代には存在しない地形だったのか? と、考えいたる。しかしあれだけの活火山がぽっと出とは考えにくい。
……あくまで常識の範囲で、だが。
「知らないなんて嘘でしょ? 活火山で有名なあの山よ?」
『活火山。ヴィントゴア国の<モルド鉄山>でよろしいでしょうか?』
「分かんないけど近いんなら多分そこね」
そんな適当な。
『承知いたしました』
「そんなんで大丈夫なの?」
根拠不明の自信でもアーデルロールにとっては胸を張れる原動力になるらしい。
彼女は「ええ!」と語気を強め、
「大船に乗った気でいなさい!」、と声高に吠えた。
飛空艇が飛んでからというもの揺れはほとんど感じなかった。
それに船内から霧の類は消えてしまい、どころか船それ自体が霧を寄せ付けない膜を張っている有様だった。
都市を護る結界に似た輝きだ。古代にはあれを船一隻に搭載させるだけの技術があったことの証明だろう。
「この膜があると化け物も近寄ってこれねえんだな。
見ろよ、あの馬鹿でかい飛竜」
指差す先には霧を切り裂いて飛空艇と併走する一体の竜。
暗緑色の鱗と紺色の翼膜を持ち、恐ろしげな黄色い瞳をぎらつかせて甲板に立つわたしたちを見据えている。
しかしその縦筋の瞳は恨めしげだった。船を包む膜が邪魔をして喰えないのが苛だたしいのだろう。実際の話、竜の炎の息も爪も通過することは無かった。
「よっぽど腹に据えてんだな。
翼で殴りつけてきてるがこっちはビクともしてねえ」
「こんな高さで竜を観察できるなんて滅多にないね」
「おうとも。
それもこの船より大きいかどうかってぐらいの巨竜だ」
たしかに大物だ。
これだけの竜の発見報告は、かの竜王国でも滅多にないだろう。
四人で並び、しげしげと眺め見ていると唐突に雲海が割れた。
「ん……」
暗雲を切り裂いて白い柱があらわれた。
幾重にも連なったそれは霧を巻きながらに降り落ちて飛竜をとらえた。
白い柱に隠された飛竜はそのまま姿を消し、二度と現れない。
落ち着きの悪い沈黙が甲板に横たわった。
誰か喋ってくれ。さっきまでそこに居た飛竜はどうなったんだ。教えてくれ。
「ねえ今のって牙じゃなかった?」
「いやいや」
コルネリウスが否定する。体が固まって横を向けない。
「この船ぐらいの大きさの竜を一飲みする生き物なんて居るわけねえだろ」
「そ、そうよねえ。だったらこの船も食べられちゃうじゃないのよ」
「いやだって歯茎とか牙とか見えたよ、うち」
「夢だ」
そんなばかな。
このようなわたしの独白を裏付けるかのように再び雲海が割れ、視界一面が黄色に染まる。
まぶしい。
目がくらむようにまぶしい黄色だった。
「……朝……?」
「太陽にしてはちょっと早いんじゃないかしらね」
「いや時間わからねえしそもそも太陽もうめっきり見てねえし
当惑をしていると黒い縦筋が黄色の中央にあらわれた。それは左右に揺れ、それからわたしたちをそれぞれ向く。
「これはもしかしなくても目なのでは」
「冗談言うんじゃないわよ。
そしたらが、がが、眼球だけで船よりでかいじゃないのよ」
「し、静かにした方がいいんじゃないかなあ!」
耳をつんざく程の声量をビヨンがぶちかまし、自然、場は静まった。
そのまま無音の時間が過ぎていく。巨大な瞳は船をじっと見つめ、一度まばたきをすると霧にまぎれ、そうして消えた。
閉じようとする霧の隙間に鳥か竜かは分からないが空を飛ぶ何かの群れがついていき、わたしたちは異物を見失った。
腰砕け、とはこの状態のことを言うのだろう。
「た、助かったあ……?」
「多分な。心臓に悪いぜ、おい……」
誰も彼もが尻餅をついてしまい、それは雲海を光が切り裂く瞬間まで続いていた。
………………
…………
……
「ありゃ真龍種だろう。
雲海よりもずっと上。星の海と地上との境目に存在するっつう
龍の王国に住む連中だ。良かったな、喰われなくってよ。ガッハハ」
「笑ってる場合じゃないわよーっ!」
アーデルロールがからかわれる様を見てコルネリウスは胸がスッとしているようだった。どうして分かるかと言えば顔が感動に打ち震えているからである。
「それよりもどうだ。もう雲を抜けるぜ。
眼下には地上が見えてきてる。ハインセル抜けはどうやら成ったな」
「もう当分は行きたくないですね……」
「だな。極力寄らねえようにしてえもんだ。
アルル、舵取るか? 船に行き先は伝えてっから格好だけだが」
その誘いに彼女の炎の瞳が輝かないはずがあるまいて。
やるわ! そう高らかに叫ぶと彼女は舵に飛びついた。
まるで猫にマタタビだな……。
『ユーザーの操舵を確認しました』
「ん?」
不穏な声だ。
『初期入力を再実行。マニュアルでの航行に切り替えます』
「ちょっと、おい」
どこまでも不穏だ。
『動力が急速に機能を消失しています。
魔力の充填を急ぎ、急ぎ、いそ、いそ――――――』
ブツッ。
もう何も……聞こえない……。
プロペラの回転が停止したのが肌で分かった。
船首はガクリと下向き、緑と青色の二色が鮮やかな地表を向く。
操舵室に立つ誰しもが直感した。
だが誰も言わない。言えない。
それはそうだ。こんな恐ろしいことを口にしたくもない。
しかし我らがリーダーは違った。
彼女は冷や汗を垂らした顔で振り返り。
青ざめた顔で、わたしたちに確かに告げた。
「この船、墜落するかもしんない」
「………………」
「……分かってるよ……」
八章『薄墨の頃』 了




