132. 開花
すえた水のにおいが鼻腔をつく。
いやなにおいだ。怨念だとか恨みだとか。暗い感情がもし嗅ぎとれるのなら、きっとこんな腐臭がするんだろう。
終わりがないように思えた地下通路もいよいよ大詰めだ。
通路奥の扉を蹴破るようにして飛び込んだ先には水路が横たわっていた。
暗ったい道はまだ幾分か続いてはいたが、終わりが見えてしまえばどうということもない。ささやかな開放感がこの足を進ませる。
泥のように暗い色をした水路脇を走りながらアーデルロールは自問する。
『本当にあれで良かったのかな?』
自分たちは仲間を――ユリウスを置いて先を急いだ。
殿と言えば聞こえはいいだろうけれど、そんな格好の良い呼び方は上手くいった場合に使うものだし、もっと言えば都合が良いだけ。
ルヴェルタリアの騎士たちの中でも気性の荒く、粗野な連中――大概は外国からの傭兵あがりだ――は、仲間のために身を呈する勇者を『捨て石』だとか、もっと正直に言えば『間抜け』と言う。
ユリウスの背中を最後に見た瞬間、自分の脳裏にそんな言葉と記憶がよぎってしまった。
ふざけるな、と苛立った。自分の中の相反する二つの感情が嫌で仕方がない。
片方は自己の生存と目的の達成を最優先に考えている、いわゆる生存本能だ。
何を差し引いてもこの身を生かさないといけなくて、そして霧を払わないとならない自分の宿命。切っても切り離せない、自らの運命だ。
旅は喪うものだということは覚悟していた。涙を流すかはともかく、切り捨てなければならないことがあるのを承知したうえで自分はここに来ている。
もう一方の感情は――『情』だ。こちらの方が本能よりもずっと強く感じる。
ユリウスはまだ生きているのだろうか?
剣をしっかり握れているか、五体満足か、ちゃんと立ってくれているだろうか?
「あたしは馬鹿だ……!」
なんで! あんな風に! ……言ってしまったのだろう。
先に行けという彼の頼みに自分は了解を返したが――正直に言ってしまおう。
自分は今、心底から不安だった。彼を喪う恐怖が頭を曇らせ始めている。
胸のあたりが炙られ、乾く。滅多にない焦燥を感じた。
不安がさざ波となって寄り、離れ、またやってくる。終わりがない。
それでも進まなきゃ。走らなきゃ。信頼しなきゃ。
……っ。
相手がそこらの騎士や凡俗な剣士ならこんな心配はしなかった。
けど、今回は違う。
〝四騎士〟が相手なのだ。
剣の腕に多少覚えのある程度の剣者が敵う相手じゃ決してない。
言うなればあれらは災害のようなものだ。荒ぶ天変地異に対し、握った剣一本で立ち向かおうとする人間はそう居ないし、実際にどうにかしてしまう人間はもっと居ない。
そういった手合いは〝英雄〟と呼ばれる。
彼らに成るに必要なのは第一に剣の腕、つまり……技量。
そう、技量、だ。
何年かぶりに見るユリウス・フォンクラッドの剣は、かつてとは比べ物にならないぐらいに鋭く、疾くなっていた。
旅の中で強くならなくてはならない理由があったのかも知れないし、父フレデリックとの鍛錬が実を結んだ結果とも思える。あるいはその両方だ。
物思いに関連して。自分が彼を特別に凄まじいと思う点がひとつある。
それは成長速度。
ユリウスの剣は振るうたびに冴え渡り、澄まされていく。
まるで彼自身が一振りの抜き身の刃であり、戦闘は研磨だ。
少し前――あれは遠目に目撃をしたことだったが、彼はハインセルの黄金騎士数人との戦闘を行った。音に聞こえた強壮な騎士連中を単身で相手取り、見事に斬り伏せたのには目を見開いた。
あれが自分が小さな頃にやっつけた少年と同一人物?
自分の中の彼に対する評価が刻一刻と変化していくのが分かる。彼の剣を目にするたびに、自分の中の剣士が震えるのが理解できる。
ユリウスが頼もしいのは事実だ。
いずれ――……あるいは今の彼ならば、化け物狩りのルヴェルタリア騎士と渡り合うこともできるかも、と思う。
しかし〝四騎士〟は格が違う。まともな人間では届かない高みに奴らは居る。連中の強さはよくよく……本当に、痛いほど知っていた。
自分が置き去りにした通路のはるか後方から激しい音が間断なく聞こえてくる。
鋼が鋼を打つ音、壁が崩れる音、メルグリッドの咆哮。戦いはまだ続いている。
この音が続いている限りユリウスは生きている。
生存の便りにしては随分と荒々しいが、状態が分かるならそれでも良かった。
ふと、アーデルロールは気づいた。
ここまで思いを巡らせ、やはり自分はユリウスなら任せられると思ったことに。
何故だと自問する。
答えはすぐに見つかった。簡単なことだ。
彼ならばあるいは、と思えたからだ。
紋章を――……紅く輝く緋色の瞳を。
燃ゆる太陽を継いだ彼ならばあるいは、と。
………………
…………
……
「アルル。そっちのロープを解いてくれ。
せーのでな。いくぞ? せーのっ」
「ん」
桟橋に結われたロープを、コルネリウスの間延びした声に合わせて解いた。
水路の奥にはボロの桟橋と一隻の船があった。幅広でいて装飾もしっかりとしている。きっと王家かその配下が使うような船なんだろう。
これを使えば地下通路から脱出が出来る。
アーデルロールたちは今、それぞれが船の点検を行っていた。
びりびりとした振動が未だ続く中、アーデルロールが船の縁をがんがんと拳で殴りながらぽつりとこぼした。補足しておくが強度の確認だ。
「……あんたら、ユリウスをどこまで信頼してるの?」
「心底」
コルネリウスがマニュアルに目をやりながら言った。どうやら読めなかったらしく、そばに立つビヨンに「任せた」と振る。
当たり前だ。逆さにして読めるわけがない。
「適当な返事。理由は何かないの?」
「どんな返事が欲しいんだよ、お前は。
そもそも信頼って……あの巨人とやり合って生き残れるかって話か?
だったら俺は心配してねえよ。あいつならどうにかするだろ。
アルル、まさかお前が信用してないなんてオチはねえよな。おいおいおい」
「早とちりしないでよね。してるに決まってるでしょ。
なんてったって――――、」
「たって?」
「……あたしが選んだ騎士だもの」
声が小さくなってしまった。自分が凛とした顔をしているという自信は無い。
くぐもった笑い声が聞こえたのは気のせいじゃないはずだ。キッ、と目に力を入れて見上げるとコルネリウスの笑った顔が映った。
「ああ、それな。はっはは! んー……なんだ。
一足先に就職決めてたのは羨ましいっつうか……まあいいや。
ともかく、相棒は決める時には決める男だ。
これまでもそうだったし、今回もどうにかするだろうから心配すんな」
「でもねえコールくん」
ビヨンがじろりとした目つきで本から視線をあげる。本当なら彼女が一番ユリウスの安否を考え、動揺していそうなものだったがどうしてか、ビヨンは普段となんら変わらない顔と気配のままだった。
それでも思うところは幾分かあるらしく、
「今まではどうにかなってきたけどさ、前の〝精王〟の時は大変だったじゃない」
「そんなのもあったな」
「とぼけないでよね。今回はあの〝四騎士〟だよ?」
「大丈夫だろ」
「……。コールくんの明晰な頭脳がどんな思考をしてるかちょっと分からないな。
うちにも分かるように教えてくれる?」
「お安い御用だ。あいつには俺たちの知らねえ切り札があるんだろ?
付き合い長いんだ。<白霊泉>の事もあるし、そのぐらいは分かるぜ。
無責任でも何でもいい。俺らはあいつを信じて、あいつもこっちを信じてる。
それだけだろ? さ、そろそろ船を動かすか」
「ちょ! ちょっと! まだユリウスが来てないわよ!?」
この男は何を言うのか。とっさに焦った声を出してしまったが、コルネリウスは実に不敵な笑みを浮かべて言った。
「そこは抜かりねえよ。ビヨン、仕掛けは?」
「ばっちりおっけー」
彼女もまた悪い顔をする。自分の知らないところで何が行われたのか……。
………
……
…
見ろ! 見ろ! 視ろっ!
崩していい対象を視界に捉えろ、魔力に変換し、目減りしていく精神を補填しろ!
自分が見た場所が瞬時にえぐれ、またたく間に消失していく。
壁、牢、砕けたレンガ、魔法灯、漂うチリ。
これらが崩れると同時、自分の中を魔力が流れていく。
〝紋章〟の使用による魔力消費はやはりどうしようもなく酷い。
こうして<物質の魔力変換>を発現し続けなければ、およそ意識を保っていられはしないだろう。
「はっ! ぜっ、はあっ、はあっ!」
呼吸の限界まで水中に沈み、失神する寸前に酸素を思い切り吸い込み、また水底へと潜ることを繰り返している気分だ。まともな戦闘方法じゃないのは分かっているが、わたしにはこれしかなかった。
イルミナは<魔力変換>を扱うに際し、決して生体を分解し取り込むなと忠告をした。生物を取り込むということは、それが宿していた魂までもを受け入れることになる。
言ってしまえば〝魂喰い〟だ。そして一度取り入れてしまえば、それの記憶や意識が自分に混ざり込むことになる。
色の混じってしまった絵の具。元に戻ることは生半可なことではなく、むしろ戻る可能性は無い、とイルミナは白い帽子の下でうそぶいた。
「なるほどな……っ! 確かに禁術だ……!」
「フォンッ! クラッドォォオオッ!」
「メルグリッド……! ――来るか! 八の太刀――……、」
壁際に立っていたメルグリッドの姿がゆらりと揺れ、一瞬にも満たない速度でわたしの目の前に現れる。
ダインスレイヴは既に振り下ろされていた。天が自分を目掛けて落下するような威圧がわたしを潰そうとしている。
正直に言えば怯みはする。だけど、やらなきゃいけない。その一心がわたしの体を突き動かしていた。
インパクトの瞬間、これまでと同様に刃を合わせ、重質量の一撃を彼方へ流す。
「ぐッ…………ッ! <流々睡華……ッ!>
と、違和感があった。攻撃に触れる瞬間、やけに緩かった。
これまでのわたしを潰そうとする攻撃を『剛』とするなら、これは『柔』だ。
一体何が――、
「こうも喰らえば仕掛けは分かる。若さを恨め、小僧」
「しまっ――!?」
ちらり、と粉塵をつらぬく暴力が見えた。
赤く輝く巨大な拳。メルグリッドの必殺の一撃。
――――見落とした! 彼女は気づかぬ間にダインスレイヴを左手一本で握っていた。右手の行方に気づけなかったわたしの落ち度だ。
わたしの両手は塞がっている。拳の狙いは腕をあげ、思い切り晒された脇腹だ。
このままじゃ殺される。わたしがメルグリッドに食らいつけていたのは、攻撃を流すことが出来たからだ。
探せ、思い出せ、これまで歩いた道のどこかに活路のヒントがあるはずだ――。
「――――受、ける……っ!」
ダインスレイヴを受けていた剣の柄から片手を離し、瞬時に腰の鞘に触れた。
重質量の剣を流すと同時、左手で鞘を抜き放つと拳を受け止め、手首をひるがえして勢いを流そうと試みる。
衝撃が両腕から胸に走り、骨をきしませた。耐え難い痛み。命を賭して逃げなくてはならないような攻撃を受け止めるなんて無茶だったのか?
心が苦痛にうめいたが体は勝手に動いた。戦いの経験と〝紋章〟を通して伝わるセリス・トラインナーグの技がそうさせたのだろう。
鞘と剣。それぞれでメルグリッドの圧倒的な暴力を流し、周囲の壁がひしゃげて潰れた。――……<流々睡華>は攻防一体のカウンター技。本来なら大剣と拳の威力を丸々この巨人に喰らわせてやりたかったが、その余裕は残念だが無い。
一進一退。いや、形勢は〝巨人公女〟に傾き始めている。
狭い通路は彼女にとって大いに不利なはずだったが、ダインスレイヴの力か、今ではドーム状の空間に変化させられていて一切の不自由を感じさせない。
メルグリッドが力を振るえる条件は徐々に満たされている。気力――闘志もわたしの技を受けたことで満ち始めている。
それは堂々とした歩みと重宝剣の勢いからも明らかだ。
一方でわたしときたら精神の摩耗を感じていた。
魔力変換による魔力の補填にも限界があるのか、あるいは知らずのうちに思念を取り込んでしまっていたのか。……嘔吐感がひどい。
だが戦いを止めるわけにはいかない。
ひとりの騎士として、ここを通すわけにはいかなかった。
「ユリウス・フォンクラッド! やるな、貴様は確かに強者だ!
私の剣をここまで受けることは容易くないぞ。己を誇るがいい!」
「そっちも噂通りの怪物だ。
まともな英雄だったのなら褒められて嬉しかったけど、今は違う」
「怪物? はっ。それはお互いにだろう。
貴様のその力――〝紋章〟だな。
能力は見えんが、おそらくは技量に影響するものと見た」
この女……。
氷の視線がわたしを貫く。なんて目だ。腹の底まで見透かされている気分になる。
「答える必要はない」
「だろうな。その瞳の色彩、よもや貴様は呪われた王家の縁者か?」
「それもまた答える必要はない」
「決意を貫くか。剣のような男だな、貴様。
言葉で吐かぬのならそれで良い。
ドラセナに死体を手渡せば何もかもが分かることだ」
暴力の嵐がふたたび巻き起こった。何もかもを噛み砕く力とその筋を正確に見つめ、刃で流していく。
冗談みたいだ、と思えた。
この女はまるで災害が人の身を得たような存在だ。
こいつが大剣を振るうとそこには何も存在しない。破壊がすべてを飲み込み削り取ってしまうからだ。
捉えられれば死があるだけ。
わたしは雷を落とし、大気を巻く大嵐に向けて剣一本で立ち向かう愚か者に分類されるに違いない。
「――ふっ…………っっ!」
体に触れ、掴もうとする死の運命を剣で払い続けた。
いなし、流し、くぐり抜けるたびに鼓動が大きくなっていく。
メルグリッドの剣はあからさまに威力を増している。
地下通路などはいつ崩落してもおかしくないほどに震えている。
――――勝負を決める必要がある。
しかしこの巨人を相手に決定打となる剣と技術を自分は持っているのか?
あの白い首に剣を突き立てるのはどうだ? 脈を断てばただではすまないだろうが……ダメだな。彼女は特に警戒しているだろう。
腱も鎧で硬く守られている。急所が見えない。
「いつまで凌げるか見せてもらおう! ユリウス・フォンクラッドォオッ!」
どうすればいい。
どうすれば殺せる!?
よく見ろ――、見ろ――、見ろ――!
『ユリウス』
父の声が脳裏をよぎる。
『鎧を着込んだ騎士相手にはどう戦えばいいか分かるか?』
『んん……全身甲冑だよね?』
『そうだ』
『腱や首を狙って、弱らせたところでとどめを狙うかな』
『えぐいが良い手だな。
けど、本当に強い奴を相手にするとそうもいかない。そういう時にはな――、』
指が自然に動く。
その所作は何よりも体に馴染み、何よりも素早い構えとなる。
「最大の一撃で鎧ごと切り裂き、殺す……」
足を肩幅に開き、軸足を前に。
体を半身に向け、剣を腰で静かに溜める。
鞘に触れ、利き手を柄へ。
脳裏に描く姿は音を超える一太刀。
影にも残らぬ瞬間の斬撃。
最速最大の剣技。父の技。
今のわたしならもっと疾く、鋭く触れる――。
メルグリッドが大剣を振り下ろしている。問題ない。
わたしは彼女よりも速い。
「瞬影剣――――……!」




