130. 嘘を言うな
通路はわたしたちの知っているそれとは一変していた。
いいや、むしろこうなったら別空間と言ったっていい。
それぐらいにおかしくなっている。
「……開けるドア、間違えてねえよな……」
「ドアはひとつだけだったから間違えるわけ、ない……んだけれど…」
まず第一に賑やかだった。
ここは『棄てられて久しい通路だ』と先に口にしておいて今更何を言う、と自分に言ってやりたくなったが紛れもない事実だ。
今、この通路にはまさしく生気があふれていた。
魔法灯はまばゆく輝き、光に照らし出された人影が通路の壁で踊り出す。動きにあわせて人の声がやかましく聞こえてくる。
「俺を見てくれよ! この善人の目を! 悪事なんてひとつもやってねえよ!」
「盗んでねえ、俺は盗んでねえ!
騙されたんだ! クソッタレの金貸しの野郎だ! なあ、聞けって! おい!」
「ハインセル王がもうじき来るぞ。はさみを握ってやってくる。
鼻歌まじりに人の体で遊びやがるんだ。
地獄に堕ちろ、畜生。畜生! こんな国はとっとと滅んじまえ!」
いくつもの濁った声が通路にこだましている。
叫びの主は牢屋に囚われた無数の囚人たちだ。
さっきまで人っ子ひとり居なかった牢には確かに人間が収まっていて、彼らは檻を手づかみながらに怨嗟の咆哮をあげていた。
凄まじい声量の者も居る。すべての息を吐き切る怒号は空気を震わせていた。
「黙れ! 黙らなければ処罰がくだるぞ!」
制服姿の男たちが通路の奥から駆け走ってきた。
襟詰めのコートに鍋を逆さにしたようなデザインの黒帽子。
おそらくは看守だろう。彼らはそれぞれが手に持った鉄棒で牢屋の檻を殴りつけたが、騒ぎは鎮まるどころか煽りの笑い声が混ざり、より熱を帯びていく。
「はあはは。今更処罰がなんだと言うのさ。
ここに入ったが最後、狂った王や賢者どもに
体のあちこちを好きにいじくられて死んじまうんだ。
俺たちゃあ何にも怖くはねえよ。はっはははは!」
「……なんっじゃこりゃ。夢か?」
「悪趣味極まりないね。僕とコールのどっちの夢かな」
「勘弁しろよ。俺はもっとピンク色の夢しか見ねえぞ」
「折角ならそっちが良かったね」
宿直室をするりと抜け出しながらにコルネリウスと話した。
お互いに背中に人間ひとりを背負っているにしては軽い足取りで通路を進む。
「冗談はさておき。
夢を見させられているのか、あるいは僕たちが過去に迷い込んだとか」
柱の陰に隠れてしばらく歩き、それから『食料庫』のプレートが掛けられた部屋に入り込んだ。
ブドウマークの描かれたタルに背中を預け、聞き耳を立てながらわたしたちは小声で意見を交わした。
「そんなんありえるか?」
疑いたくなる気持ちはよくわかる。
「けど、じゃなきゃあ説明がつかないよ」
「んー……ドラセナの魔法かもな。
あいつ……〝魔導〟だったっけか。
〝四騎士〟なら夢に落とすも幻見せるも自由自在なんかね。
だったとしても……こいつはシャレにならねえよ。あまりにも現実に似過ぎてる」
「あるいは霧の効果かも知れない。……待った。誰かが来る」
がやがやとした足音がそばを通りがかった。「そろそろ陛下が来るぜ」「またあの悪趣味をするんだろ。今回は〝白衣〟も来てるって話だ」と、噂話が耳に届く。
顔を戻すとコルネリウスが少年のような顔をしてわたしを見ていた。
話の続きが気になって仕方がないらしく鼻息が荒い。
「霧が? なんだって?」
「……霧はその人にとって見たいものや欲しいものを
形にする力があるってどこかで聞いた覚えがあるんだ。
あれは……どこだったかな。ごめん、ぼんやりして思い出せない。
でも確かに聞いたんだ」
「ふーん? いや信じてるって。そんな顔すんな。
不思議極まりねえが、ま、俺らがやることは変わらねえか。
通路を左に進んでさっさとずらかる。そうだろ」
「だね。
通路の様子はあからさまにおかしいし、ドラセナがそばに居るかもだ。
十分気をつけて進もう」
「おう。しっかし、シュミットはともかくこの女二人はさっさと起きろよな」
立ち上がりざまに背負ったアーデルロールに声をかけるが、聞こえてくるのはくぅくぅと可愛い寝息ばかり。
やれやれ……。この重さを背負うのにも段々慣れてきたもんだ。
………………
…………
……
通路の終わりが近い。
途中に通りがかった曲がり角には『この先、船発着場』と彫られたプレートが壁に埋め込まれていた。
コルネリウスと互いにうなずき合い、一目散に駆け抜ける。
奇妙なことに看守は誰ひとりとしてわたしたちの存在に気がつかなかった。
横を通ろうとも、腕がぶつかろうとも一切無視だ。
談笑をする者はそのままで会話を続け、歩く者は足を止めずに進み続ける。
一方で囚人たちはわたしたちが見えるらしく、けたたましい声で助けを求めた。
慈悲をくれ。鍵をよこせ。連れていってくれ。
鎖がどれだけ哀れな音を立てようともわたしは無視につとめた。
彼らに干渉をすることは良い結果に繋がらない直感があったからだ。
だが一度だけ足を止めてしまった場面が直後にあった。
紛れもない過ちだったとすぐに後悔をしたがもう遅い。
その囚人は父の名を口にした。
酔った声ではなく、真っ直ぐ、正気の音で。
「フレデリック。よう、そんなに急いでどこに行くんだ」
通路の終着点が見えた場面でそいつはそう言った。
錆びた檻の中で膝を抱えてうずくまった男。黄ばんだ囚人服にざんばら髪。
落ち窪んだ目と骨ばった顔は死人のようだった。きっともうすぐ命が尽きるのだろうと想像する。
「東の防衛戦ではお互い大変だったな。
へへ。どうだ。探し人には出会えたか?」
「人違いです」
この男もまた父とわたしを混同している、と最初は思った。
「片腕を失ってまでお前もよくやるよ、フレデリック」
「な――」
「それに。ひひ、人違いだなんて冷てえじゃねえかよ。
俺の記憶が正しけりゃあ、あんたはハインセル王配下の四つの杖、
〝白衣〟の賢者イルミナ・クラドリンをとっ捕まえると息を巻いてたじゃねえか」
イルミナ・クラドリン!
どうしてだ。こいつは何を知っている。
彼女の名前がどうしてここで出る。
それに父の腕のことを何故、こいつがーー、
「おい、相棒。構うな」
知らないうちに拳を握りしめていた。
「すぐ終わる。あなたは彼女を知っているんですか?」
コルネリウスの忠告に耳を貸せなかった。好奇心があまりにも強かったからだ。
囚人はわたしの問いかけにノった。
垢だらけの指を檻にからませ、腐臭のあふれる口をハアと開き、男は言う。
「なんでも知ってる。なにしろあの女は有名人だ。
大抵の人間はあいつの悪行を知ってるさ。
イルミナという女は悪辣だ。裏切り、謀殺は呼吸と同じ。
命や倫理、道理なんてものは歯牙にもかけない外道の術者。
あいつにとっちゃあ自分の知識欲を満たすことが至上の喜びだ。
クラドリンは人を人と思っちゃいない。じゃなけりゃあんな実験は出来やしない。
けれどな、だからこそあいつは正しく〝魔導〟だったんだ。
ああっははっはあは、素晴らしいよな。惚れ惚れするよな。
頭のネジが外れてなきゃあ。心を失ってなくちゃあ、あんなマネは出来ない。
うつくしいよ、心酔しちゃうよお。
あの人が居なけりゃあ、彼女は〝魔導〟の後追いをしなかったんだもの。
尊敬してるよお、イルミナをさあ。あいつは本物だ。ひひっ、ひ」
「いっ……たい誰の話だ? なんの話をしてるんだ。お前……誰なんだ?」
「どらせな」
通路の明かりが一斉に落ちた。
辺り一帯が真性の真っ暗闇に落ち込み、視界が奪われる。
「ユリウスッ!」
何かに掴まろうととっさに振った手がむなしく空を切る。
慌てるわたしの両肩を正面から誰かが掴んだ。
小さな手と腐臭。しまった、ドラセナだ。
「みつけたあ。みつけたみつけたみつけた」
ようやく慣れて来た目が最初に目にしたのは、よりにもよって異形の女だ。
不揃いの化け物角を頭から生やし、変幻自在に移り変わる瞳の模様を持つ女。
大きく開いた口の中は牡丹のように赤く、唾液の糸を引いたままでドラセナが狂ったようにわたしの耳元で叫び散らす。
「こっのぉぉおお!」
細い腕を掴み、へし折るつもりで力を込めた。このまま力ずくで引き剥がしてやろうと思ったがビクともしない。
枯れ枝のような腕のどこにこんな力があるんだ!?
当惑しながらも抵抗を試みたが効果は無い。どころか「いらなぁあい」の一言の直後、わたしは見えざる力で壁へ叩きつけられた。
「かっ、は……!」
「んん〜んふふんんんうう〜あぁはは」
壁に体がめり込んでいく。不可視の巨大な手の平手打ちを喰らい、圧倒的な力で押しつぶされようとしているのが肌で分かった。
「てめえ、化け物女!アルルに触るんじゃねえよ!」
コルネリウスが攻勢に転じた声が聞こえ、それから刃が空を切る音がした。ひゅっ、と鋭い音が立ちわたしの拘束が解ける。
今なら剣が抜ける。
即座に柄に指をかけ、最速で鞘から抜きはなち、床を蹴りつけ走る。
目はもうとっくに暗闇に慣れていて、ドラセナがアーデルロールの首に指をかけているのがよく見えた。
「彼女に――、」
重心を落とし、腰のあたりで力を溜め、半身を捻って剣を構える。
ひとつ、ふたつと呼吸を重ね、みっつの息で土を蹴る。
彼我の距離なんてまばたきで詰める。何度も見た父の動きはたしかこうだった。
「触れるなっ!」
「あ」
ドラセナがとっさに挙げた左手の指が飛ぶ。
すり抜けた剣は、わたしの目はこの女の――〝魔導〟の首だけを狙っていた。
刃が細首についた肉に沈む。わたしが剣を振り抜き、異形の頭部が宙を舞うまでは一瞬だった。
血しぶきが見慣れた円を描いていく。
だが勝利の感触はない。むしろ去来したのは不安だ。
「やったな、さすが速攻至上主義!」
「だめだ。手応えが軽すぎる」
「なに?」
仰向けに転がったアーデルロールの体を掴み、起き上がらせつつコルネリウスが疑問の声をあげた。
「乾いた木を斬りつけたみたいだった」
「死んでねえってか」
「多分ね。気をつけ、」
腐臭が鼻をついた。
左肩から胸へと向けて、指を失った手がわたしの体を撫でていく。
そいつの右手は横腹から腰へと愛撫のようにゆったりと味わうように触れていた。
「ド、ラセナ……」
これは、まずい。
全身が強烈に硬直している。姿勢を固定されたというべきか、指先をぴくりとも動かせない。
ドラセナが薄い胸をわたしの背中にぴったりと寄せている。
どうしようもない巨大な焦りと悪寒がわたしの体を支配していく。ドラセナに触れられている箇所から体の大事な何かが抜けていく感触がある。
指の欠けた手が首から下顎、頬から目元へと這い上がってくる。
何かを探してる手つき――、こいつ、まさか眼を探してるのか?
くり抜かれでもするのかと想像をした途端、ドラセナの白い指は突然にどろりと溶けた。
やはり腐った臭いが強いが、今は不快感よりも助けられた安堵で胸が満ちていた。
床に転がり倒れ、コルネリウスに受け止められながら呼吸を整える。
寒い。どうしようもなく寒い。
歯をカチカチと鳴らし、震えていると、ドンッと鈍い音が聞こえた。
悪い想像が瞬時に浮かぶ。
が、反射的に顔をあげたわたしが目撃したのは、ビヨン・オルトーが愛用の杖でドラセナの背中を殴りつける場面だった。
「こらぁあぁぁぁああっ!」
ビヨンが杖を振りかぶり、腰をひねっての豪快なスイングで今度はドラセナの肩に殴打をくわえた。
すると打撃を与えられた箇所がどろりと溶け、失われてしまった。
彼女はいつの間に起きたんだ?
あの杖の殴打はどうしてあんなに効果がある?
分からないことがあまりにも多すぎるし、ビヨンはでたらめに勇ましくて混乱が嵐となって頭を埋めている。
「すごいな、フライパンの中のバターみたいに溶けていく」
「言ってる場合かよ! ビヨン無茶すんな! そいつに近付くのは、」
「――師匠がっ!」
コルネリウスがとっさに駆け出した。助け舟を出そうとしたのか、注意をしようとしたのかは彼のみぞ知るところだが結局は何にも間に合うことはなかった。
「そんなっ!」
腕が吹き飛び、
「悪いことをするわけないでしょ!」
ドラセナの角が折れていく。
「師匠の……っ!
悪口言わないで! これでも! 喰らえぇぇーーーっ!」
乙女の咆哮とでもいうべきか。
ビヨンが猛々しい叫びとともに振るったスイングはドラセナのとどめとなった。
天下に名高き〝魔導〟の細い体は人の形を完全に失い、蝋のように溶け、最後に残ったのは爪ほどの大きさのガラス玉だけだ。
「……まじか、こいつ」
あんぐりと口を開いて驚く気持ちは分かる。
わたしも信じられない思いでいて、開いた口が塞がらない。
田舎の一魔法使いが〝魔導〟を倒す?
ありえない。
いくら才気煥発だとはいえ、現代魔法の頂点に数えられるドラセナを倒せるはずがないだろう。いくらなんでもそれはありえないのだ。
「ビヨン――、」
「あれはドラセナじゃないわ」
アーデルロールが目を覚ましていた。自分の不甲斐なさを責めているのか、彼女は苛立ちをおさえようと顔をしかめている。
「! アルル、目を覚ましたんだね」
「おかげさまで」
「今のがドラセナじゃないってのはどういうわけだ?」
装備を拾い上げつつコルネリウスが訊いた。いつのまにか囚人ともの騒ぎがすっかり止んでいる。
「ちらっと見えただけだけど、間違いない。
彼女はあたしが城に居た頃の侍女の一人よ。顔に覚えがあるわ」
「偽物ってことか?」
「ただしく言うなら……」
彼女が言いよどむ。
「あやつり人形よ。
おおかた死体を弄り、自分に似せてここに送り込んだんでしょうね。
ふん、けったくそ悪い……。
ドラセナの倫理観の欠如は前々から問題視されていたのよ。
彼女は自分を含めたこの世の何もかもが、
好奇心を満たすための手段や道具としか思っていないから、どんな非道も行える」
「そりゃ……魔導っつうより外道だな。気分悪いぜ」
「なるほどね。本物はまだ僕たちの前には現れていないってことか」
その通り、とアーデルロールが立ち上がり言う。
「本人が出張ってきてたら全滅してたわよ。
ビヨンがあれを倒せるわけがないもの。
あいつは……正直言ってメルグリッドの比じゃないわよ。
ドラセナが本気なら都市みっつはあっという間に消せるって話」
「そんなもんをビヨンが倒したんなら毎日拝み倒すわな」
乾いた笑いが石畳にひびく。「もう」と憤慨をするビヨンにわたしは気になって仕方がなかったことを彼女に訊いた。
もちろん移動をしながらだ。
地下道からの脱出を図るわたしたちは足を止めるわけにはいかなかった。
「さっきはありがとう。助けられたよ。
ビヨンはいつの間にあんな技術を学んでいたの?」
「あれは師匠がもしもの為に教えてくれてたんだ」
金色の髪が走るに合わせて波を打ち、ふわふわと揺れている。
わずかに険しかった緑の瞳とその目元はわたしを向いた途端、ふっとやわらかい笑顔に変わった。
「『ぐちゃぐちゃに曲がった大きな角を二本生やしていた女を見たら注意しろ。
そいつの肌が白くて、アブナい目をしていたらそいつは敵だ。
生きてちゃいけない外道だよ。躊躇なくこの術式を叩き込んで消してやれ』
……って。師匠はうちにそう教えてくれてたんだ。おかげで命拾いしちゃった」
「文言の物騒さはともかく、ドラセナの外見的な特徴に一致しているね。
イルミナは〝魔導〟と僕たちが遭遇することが判っていたのか……?」
「もうすぐ通路の終わりだ、このまま突っ走るぞ!」
先頭を走るコルネリウスの声がわたしに集中を取り戻させた。
自然と聴覚が澄み、気配に鋭敏になる。だから、その異変を知れた。
真上の違和感。ばっと見上げると天井がきいきいと不安げな音を立てていて、もう間も無く崩落することを連想させた。
いや、これは間違いなく崩れてしまう。
圧死は嫌だし、分断されるのも上手くない。
助けの見込めない地下道で孤独死なんて最悪だ。
わたしはもっと生きたかったし、成さねばならないことが多くある。
最悪に至る前にどうにかせねば、とわたしは仲間たちの背中へ声を張った。
「全員思い切り走ってくれ! 天井が抜ける!」
「あ、あんですってーーーっ!?」
振り返るアーデルロールが目を見開いて叫びをあげた。
いん、いん……と通路の奥にまで残響が響いていく。
あんですって、あんですって、あんですって……。
「バカ! 大きい声出すな!」
「どっちがバカよ!?」
「だからやめろって! ああほら見ろヒビがばりばり入ってやがる」
「あたしが叫ばなくてもどのみち崩れてたっての!」
「まあそうとも言う」
ごん! と、天井に風穴が開いた。
破壊音はそのまま連続し、天井の穴が加速度的に拡大していく。
「アーデルロールッッ! 捉えたぞッ!」
「っ!?」
こんな馬鹿なことがあってたまるか。
崩落した穴から現れたのは5メートルを超える巨躯の女。
巨大な剣を片手に握ったこの女が、メルグリッド・ハールムラングがこの地下にまで追ってくるとは思いもよらなかった。
「〝ウル〟が導いたこの好機を私は逃がさない。
ここで死ね、アーデルロール」
メルグリッドの巨大な拳がふっ、と赤い光を帯びる。
それは時に燃え盛り、時に弱まる、まるで炎のようだ。
通路が激しく鳴動する。びりびりとした威圧が空間をきしませる。
わたしはこの魔力を――知っている!
「灯れ。――〝巨人の拳の紋章〟」




