129. 狂人
アーデルロールとビヨンの二人の体を必死に揺すった。
名前を呼び、頭を叩いたがうんともすんとも言わない。
試しに頰をぎゅっと掴んで潰して、正視に耐えない顔にしてみたがこれも空振りだ。
「まさかこれもダメだなんて。……奥の手だったんだけどな」
あからさまに肩を落としてわたしは気落ちした。
あの手この手を試しても彼女たちが起きなかったからか、あるいは〝四騎士〟のまさか二人目が現れたことへの動揺からか。
得も言えない悔しさに歯噛みをするわたしの肩をぽん、と叩く手がひとつ。
コルネリウスだ。彼は賞賛と憐れみの混ざった顔でわたしを見ている。
「バレたら殺されそうなことをよくやるな、おい。
安心しとけ。その不敬行為は俺がハインセルの外まで秘密として持っていくから」
「そこは墓までって言い切ってほしいんだけど」
「無茶言うな! 酒が入った時の俺の口の軽さを侮るなよ……!?」
「くそっ! そうだった……!」
声量を落としたヒソヒソ声で語るわたしたちだが、こんなものは当然叱責される。
「バカども、静かにしろ! 気づかれたらどうする!」
宿直室の明かりを手早く消しつつシュミットが言った。
彼の指先は最後の明かりにかかっていた。室内が暗闇に落ちる直前に見たシュミットはカエルの口元に指先を添え、『シー』のジェスチャー。
ふっ、と光が消えた。
部屋の扉越しに入り込むか細い光だけが頼りだった。
目が慣れない中でもシュミットが近づくのが分かった。カエルの体をした彼の気配は独特なものだったからだ。
「よく聞け」
「うおっ」
わたしとコルネリウスのそばに立ち、ささやくような声で彼は言う。
耳に生ぬるい風があたって気色が悪いが言っている場合ではない。
「これから空間に亀裂を入れ、そこに全員で逃げ込むぞ。
少々魔力にあてられて気分は悪くなるだろうがそこは耐えろ。男児だろう」
「空間に亀裂を……? そんなことが――、」
「命を助けてやるのだ、今は口を閉じてわしの話を黙って聞け。
実行するに際して、貴様らへと言うべきことが四点ある。いいな?
ひとつ。決して大声を立てるんじゃないぞ。悲鳴は特にまずい。
ふたつ。娘二人は魔法で眠らされているだけだ、放っておけば目を覚ます。
みっつ。一度やり過ごしたらすぐに移動をしろ。扉を出て左手に行けば通路はやがて尽きる。
さて……よっつめだがな。この魔法の発動後にわしは必ず気絶する。
魔力の急激な減少によるものだから、こいつはどうあっても避けられん。
目覚めるまでにはおよそ半日かかる。それまではこの身体を大事に守ってくれよ。
なにしろわしはまだ死ぬわけにはいかん。
他の賢者どもの愚行を止めねばならんでな」
がりがりがりがり。
通路の壁に何かを押し付け、削る音が大きくなっていく。
それに続いてぺたぺたと裸足でかけまわるような足音だ。
極め付けは笑い声。ああ、もう。これはどうしたって幻聴じゃない本物だ。
「ああっはっはあはは、おおおおうじょさまああ、今まいりますよ」
「おいおいおい本気で怖くなってきたぜ」
「コール、大丈夫だ。僕がついてる」
震える彼の手を握ってやる。
効果は知れたものではなかったが、気休めでもないよりマシだと思えたのだ。
……直後にやらなきゃよかったと思ったが。
「惚れそうだ」
「離すよ」
「待て待て待て冗談だって」
「ええいバカどもめ……! 時間がない、早速取り掛かるぞ。
『無限に連なる境界の縁をなぞるは我が指先。
幽と現の境をここに。空間の第四階位――……<世界重ね>』」
瞬間、息がつまる感覚があった。
頭の上から薄い膜をかけられ、覆われたような錯覚……あるいは水中に頭を突っ込んだような感覚だ。
おもわず頭に触れたが何も無い。それに見た目にも何の変化も無かった。
わたしとコルネリウスは顔を見合わせた。
それから言外で意思疎通。お互いに首をかしげる。
『どうなってんだ?』
『さあ。きっとこれが彼の魔法だ』
二人してシュミットを向いた。
彼は言葉の通りに倒れていて、時折足をひくつかせている。わたしたちが小さい頃にかけ走ったあの森でこんな風にカエルが倒れていたら、あっという間に他の動物の餌になっただろうな、などとあらぬ妄想をしてしまう。
わたしもコルネリウスも大声を立てず、静かにアーデルロールたちに近づくと
互いの身を寄せて息をひそめた。
「これ、効いてると思うか? 何事も気の持ちようだとかっていう話じゃないよな」
「僕は信じるよ。
この扉の先に居る相手が本当にあの……〝魔導の〟ドラセナだったとして……。
彼女のような魔法の究極ともいえる人間を相手に効果があるかはともかく、僕たちは今はシュミットが代償を払って使ってくれたこの魔法に命を預ける他にない」
「……だな。変なこと聞いて悪い」
「いや、いいよ。気持ちは分かるから」
女の声が近づいている。相変わらず奇妙な笑いが混ざっていた。
「ふっふふ、ああはは、はは。
おおおおうじょ、出てきてくださいよ。
遊び道具はそろってますよ。ハサミに鉗子、メスもある。
陛下もずうっとお待ちですよ。もう何年も前から。ねえ聞いてますかああははあ?」
歌うような声でドラセナらしき人物が言う。声は甲高かったが、時折野太い男の声が混ざるのはどういうわけなんだ?
「二人いるのか?」コルネリウスが呟いた。
「けど足音は一人分だ」
「だよな。まともじゃないってことしか分からねえよ」
「ああ。――……そろそろだ。息をひそめよう」
ひたり、ひたり。
石を敷き詰めた通路に張り付く足音が部屋の前でピタリと止まった。
「あ。あ。あ。ここかな?
近い? ここでしょ? ねえ……!? 合ってるんだろ、おいッ!?
……そう。ここだよねぇ。良かったあ。ああ。はぁい。ふふ」
ドアノブが回った。きい、とか細い音が張り詰めた神経を逆なでする。
暗い宿直室が通路の明かりで照らし出された。
光量は大したものではなかったが、やけに目にしみる。
陶器のように白い指先が扉の隙間からするりと現れた。
見せつけるようにゆったりと晒すその仕草は、まるで白蛇が這うかのようだ。
それから色の抜け切った真っ白な長髪が揺れて覗く。
続いてあどけない少女の顔が見えた。
輪郭は丸く、まだ幼い女のように思える。
だが彼女の頭部から突き出した二対の異形の角は、自身がまともではないことの証明だった。
その角は樹木の枝のように複雑に分岐をしながら伸びている。
左右の角の長さは等しくなく、不揃いなそれが異常さを際立たせていた。
「彼女が〝魔導〟のドラセナ……?」
驚きの言葉を口の中で転がした。
悟られないように、気付かれないように限りなく小さく。
「うたうたうた。歌をうたいましょ。
ねえ。ねえねえねえねえ。話を聞いていますか?
わたし来るって言いましたよね。おおおおうじょおお。
ねえ。おい……おい、居るんだろ。出てこいって!……ねぇ? 優しくするから」
ドラセナが室内に踏み入った。
彼女は服を着ておらず、カーテンレースを体に巻きつけているだけのように見える。重ねて表することになって心苦しいが、ひどく不気味だ。
幽霊よりも生きている相手の方がよっぽど怖い、と聞いたことがあるが目の前のこれがまさにそれだろう。
細い体に細い腕。少し力を込めて握れば折れてしまいそう。
彼女がその指先で柔らかく握っていたのは骨だった。
先端が平らに削れている。さっきまで聞こえていたガリガリといういびつな音はこいつを壁に押し付けていた音だったのだ。
手のひらに汗がにじむ。
胸の中に暗く重たい物が入り込んだような気がして、ひどく気分が滅入っていく。
これ以上……もう一秒たりとも同じ空間に居たくはなかった。
桃色の瞳が宿直室の中を舐めるように見回した。
隅から隅を。戸棚の上から足元、床の溝まで丹念に見ている。
ドラセナの目の模様は極めて独特なものだった。
時に渦を巻き、時に楕円に歪み、あるいは炎のようにゆらゆらと揺れ、稀に夜空の星空のように微細な光が散りばめられる。
視線を奪い、心を狂わせる目だ。
足元から体が逆転し、全身がふわつく。
正直に言う。生きた心地がしない。
この魔法使いは何もかもを見透かしているんじゃないだろうか……?
シュミットが仕掛けた姿隠しを、わたしたちが目の前に居ることも彼女は知っているのだ。手玉にして弄ばれているだけ。
こんなの、冗談じゃ――……。
気がつけば右手でアーデルロールに触れていた。
彼女に触れていれば恐怖に飲まれないと無意識のうちに思ったのかも知れない
彼女の体は肺が呼吸をする動きに合わせて、しっかりと上下に揺れている。ドラセナが放つ死の気配が強い中で、アーデルロールだけは生を感じさせてくれた。
「……アルル……」
音を立てないようにして首にかかった緋色のネックレスに触れた。
あの日の騎士の誓いを思い出すと、冷え切っていた胸に炎が灯った気がした。
今はただ信じよう。わたしたちはここで終わらないと信じる。それだけだ。
「ここにいるんだろ」
猫背の立ち姿のままで〝魔導〟が無感情な声でつぶやいた。それでも場を静まらせるには十分な迫力だ。数秒の沈黙。わたしもコルネリウスも、目の前の化け物も何も言わない。
耳をすませているのか? ドラセナが口を開いたのはそう思った時だった。
「なんでいないの。いるっていったじゃないか」
声に濁音が混じる。
「話がちがう。おい。おいおいおいおい!
このまんまで戻ったら消されるだろうが。
ああああああああ! さがしてやる、みつけてやる。
アーデルロール! アァァァアデルロールッッ!! 薄汚い血の女っ!」
目の前でドラセナの怒りが爆発したように思えた。
彼女は突然、部屋の壁を手に持った骨で殴りつけたのだ。
二度、三度と狂ったように打ち付け、骨はあっという間に折れて破片が室内に飛び散った。それでも彼女の殴打は止まらない。
骨が無くなってもだ。ドラセナは自分の腕を壁に叩きつけてひたすらに怨嗟を吠えまくっていた。アーデルロール。アーデルロール。アーデルロール!
「あっちだろ、通路の奥に居るんだろ。あああ。ああああ!」
叫びながら彼女は部屋を飛び出し、どたどたとやかましい足音を立てながら通路の彼方へと走り去っていった。
物音はどんどんと遠くなる。罵声もだ。アーデルロールをののしる言葉はやまびこが消える時のように細くなっていった。
もう……安全なのだろうか? 気づけば服の内側にひどい汗をかいていた。それに全身の肌が粟立っている。
仕方ない話だ。なにしろずっと心臓を握られ爪を立て続けられていたような恐怖を感じ続けていたのだから。
あんな相手を目の前にしてケロッとしているような奴はそうそう居ないだろう。
幽霊関連以外では心臓に毛でも生えてるんじゃないかと思えるコルネリウスも、さすがに顔に冷や汗を浮かべている程だった。
「真性のヤバい奴ってのはああいうのを言うんだろうな。
天使の顔に悪魔が入り込んでるようなもんだったぞ」
「彼女が魔法に入れ込みすぎて気が触れているっていうのは噂に聞いてたけど、
まさかあれほどのものだったとは……怖かったよ、本当」
「あの女を見るのはあれ一回にしておきてえな。
アルルたちを担いでとっとと出ようぜ。
シュミットの爺さんは左手に進めって言ってたよな?」
アーデルロールを背負いつつわたしは彼の言葉を思い出していた。
ああ、その通りだ。通路がやがて尽きる、と言っていた。そこがゴールだろう。
「俺はビヨンと爺さんを担ぐ。さあ、行こうぜ」




