126. 彼の見る国
彼女のことはよく知っていた。
幼いころに繰り返し読んだ物語に彼女の名前が何度も現れたからだ。
でも、それはおとぎ話なんかじゃない。
現実に生きている人間が、現実に起こした偉大なる物語に彼女は居た。
雲を抜くような背丈の巨人をたったひとりで殺し潰し、
竜族の上位者にして祖――……真龍族の一体を王命のもとに討ち、
万の友軍を救わんがため、その殿に孤独に臨み、迫り来る魔物の波の一切を滅ぼした後に王都への凱旋を果たした等、いくつもの伝説と名誉の上に立つルヴェルタリアの大英雄。
巨人王と人の娘とのあいだに生まれた彼女の身の丈はおおよそ5メートル余り。
人ならぬ美しさを持つ彼女の横顔……。
高い鼻筋、細い眉、引き結んだ唇、冷淡な目元は見る者に対しておおよそ温かさというものを与えない。
氷の宝玉のようにひんやりとした色合いの瞳も重なり、その冷徹な気配ときたらなおさらだった。
絹のように滑らかな長髪、白と銀の二色の鎧、背中を覆う薄青色のマントは十三の星と木の紋様――ルヴェルタリアの国章だ――に彩られている。
力の頂に立つとされる四人――〝四騎士〟のひとり。
〝巨人公女〟メルグリッド・ハールムラング。
身の丈に等しいおよそ5メートルの長さを持つ規格外の超大剣、ダインスレイヴを手に握った彼女はわたしたちの行く手を塞ぎ、殺意を隠しもせずに放っていた。
息が、重い。
「どうして、ルヴェルタリア騎士が、ここに……」
ビヨンが目を見開き、言葉を漏らした。ため息のように細い声だ。
彼女の驚きはもっともだ。この場に居る誰しもが同じ思いを持ったに違いない。
ルヴェルタリアという国はそもそもこのリブルス大陸の先――大海を隔てた彼方、北方のイリル大陸のさらに北部にある。北極圏にほど近い、厳寒の地。
その移動には平時であっても途方も無い時間がかかるのは周知のことだ。
それがどうして今……。霧に没し、国としての機能を失ったルヴェルタリアから彼女が何故? どうやって?
友好的な態度なんて片鱗も見せず、どころか命を奪う意思を明確に見せたこの女は……この大英雄は本物なのか? ハインセルという恐ろしい大地が見せる悪い幻の類ではないのか?
夢であってくれ。そんな楽観的な想像が、いやむしろそうであってほしいという願望が混じる妄想が焦る頭の中で渦を巻く。
この考えの先に解決はない。分かっているさ。
だからわたしは、わたしたちは彼女から――〝四騎士〟から目を離せない。
心臓が高鳴る中でわたしの脳裏をちらとよぎったのは〝ウル〟の姿だった。
あの騎士もまた、はるか北のルヴェルタリアから現れた。
……アーデルロールやレオニダス王もだ。彼らは転移魔法の類を扱えたのか、あるいは国にその装置が用意されていたのか?
考えに沈むわたしの意識を公女の声が引き戻す。
「――アーデルロール・ロイアラート。
今この場で〝聖剣〟を差し出し、首を置け。
貴様は私がかつて忠を捧げた女。
情けだ。自刃をするだけの暇はくれてやる」
メルグリッドが言う。
わたしたちを見下ろす瞳はどこまでも冷徹だった。
壁のように巨大な彼女の頭や肩鎧を雨が強く打ち付けている。メルグリッドは表情に乏しいのか、その顔は仮面のように微動だにしない。
ぱちゃり、と。アーデルロールがほんの少しだけ歩み出た。
雨水を蹴飛ばした彼女は一見凛としているように見えたが、その手は震えていた。
雨の冷たさに? きっと違う。
よく見知った人間の変容を恐れているのだ。
「メル。生きてて……」
言いよどみ、王女が震える指でこめかみをぎゅっとおさえる。
今自分が口にすべき言葉は、違う。これではない。
王女の友人としてではなく、ルヴェルタリア王家の一人として。
〝霧払い〟を継ぐ者として彼女はあらねばならない。
完璧に振る舞えるかなんて今は構わない。
気構えとしてそれを持っていなければならなかった。
緋色の瞳を下から上へ。
〝四騎士〟のつま先から顔へと視線を上げる。
「……退きなさい、メルグリッド・ハールムラング。
ルヴェルタリアと世界を取り巻く状況はとっくに知っているはず。
今みたいなつまらない冗談を言ってる場合じゃないのよ。
あなたが仕える王家に〝巨人公女〟の力を貸して。これは貴女に下す命よ」
「…………」
「メル……。聞いているの?」
沈黙が横たわる。
しかし場の空気は張り詰めたままだ。
どころか酷い緊張感を覚える。まるで喉元に刃をあてがわれているみたいだ。
メルグリッドは押し黙っていたが、ひとつだけありありと発露していたことがひとつある。
それは殺意だ。
肌がひりつく殺気、他者に強要する緊張。
これに当てられた者は『下手に動けばその瞬間に殺される』と感じるだろう。
この場で言うのもなんだが、今まさに経験している……いわば実体験だ。
「状況?
フハ……ハッハハ……知っているに決まっているだろう。
私はこの場の誰よりも状況を……ああ、ただしく理解している。
〝聖剣〟を解き放てばイリルとルヴェルタリアを……いや、どころか世界に深く根ざした呪い――〝霧払い〟との因縁のすべてを消すことが出来ることを、私はちゃんと知っている」
不気味な笑みをメルグリッドが浮かべる。
無表情しか持ち得なかった彫像の顔にヒビが入り、無理やりに歪んだ笑いを浮かばせたような異様さだ。
〝霧払い〟との……ガリアン王との因縁を消す? 彼女は一体何を……、
「メル、あなた、何を言ってるの……?」
アーデルロールが不安げな言葉をこぼすが、メルグリッドの大きな声量がそれをしのぎ、かき消した。
「貴様の首とその呪いの剣があればルヴェルタリアは蘇る。
誉れ高き北の強者どもが! 騎士たちがふたたび蘇るのだ!
我が王も!……レオニダス、王も……。
あ……?
レオニダス……? 忠義……父上……。
〝霧の王〟こそが、我が……王……。新たな……冠を……」
巨体がぐらりと揺れ、しなり、やがて〝巨人公女〟が膝をついた。
籠手でおおった手で顔を覆い、ぶつぶつと何事かをつぶやいている。
素人目の判断で恐縮だが、とても正常な状態には見えなかった。
大英雄と讃えられる武人がこうも気を乱すものなのか?
わたしの直感はそれはあり得ないと告げている。
何かの要因が彼女をおかしくしているのだ。
例えば、そう。
魔法による干渉とか。
「心をやられたな、メル」
唸るような声が割り入った。ギュスターヴだ。
彼はアーデルロールを守るかのように王女の前に素早く立ち、黄金の槍をくるりと回すと、その穂先を〝四騎士〟の首へと向けた。
槍はとっくに紫電を帯びている。〝王狼〟が戦闘態勢なのは明らかだった。
「お前ほどの心に入り込んだのはどこのどいつだ?
ルヴェルタリアで一、二を争う強い精神力を持つお前を乱すたあ、
そいつは間違いなく並の術者じゃねえはずだ。ついでに言や人間でもねえだろう。
霧の魔物か……違うな。〝霧の大魔〟か?
オレの言葉が聞こえているなら答えてくれ、メルグリッド。
言葉を出せねえなら頷きでもウィンクでも構わねえ。拳以外なら何でもな」
「師……匠……」
顔を覆ったメルグリッドの右手、その指のあいだから氷色の瞳と目元が見えた。汗が浮かび、苦渋に満ちた表情だ。
「ギュスターヴ……ッ、ギュスターヴ・ウルリック……!
貴様!〝聖剣〟と呪いの血族を連れ、姿をくらました裏切り者……っ!
よくも私の前に姿を晒せたな。すぐさまに殺してやる。ああ、すぐにだ!」
立ち上がったメルグリッドが手に握った大剣の先で地面を削り、次いで剣先を大地に突き立てた。
そうして間髪をおかずに地鳴りがし始め、足元からド、ド、ド、と重い音が聞こえだす。音の間隔は次第にせばまる中でギュスターヴは動じず、巨人へ言う。
「ハッ! オレを殺る? お前が?
勘弁しろよ、その文言はいい加減聞き飽きたぜ。
本当、何万回聞いたか分からねえよ。いい加減別のを用意したらどうだ」
「私を前にして笑っていられるのは貴様ぐらいのものだな、王の犬よ。
後ろを見ろ。どうやら連れらしい小人共は恐れおののいているぞ」
「恐れてる? なら人違いだ。
オレの連れなら漏れなく恐れ知らずだからな」
そんな無茶な、とぼやきたかったが情けないことに声を出せなかった。
「減らず口を……。
貴様を叩き潰したあと、すぐさまに王女を殺す。
他の道連れもだ。
私のダインスレイヴはこの都を更地に変える。
私にはそれをやり遂げるに十分すぎる力がある。
さあ、貴様の守るべきものを想像しろ、ギュスターヴ。
私はそれら一切を余さず潰す」
場に強風が巻き起こった。
雨の流れがメルグリッドの周囲を流れ、渦を巻くようにして回転していく。
異様な光景だった。これも強者が持つ力のひとつなのだろうか?
メルグリッドはいまや体に青白い淡い光を放っている。
これを闘気というのならばそうなのだろう。〝巨人公女〟がその能力を露わにし、ギュスターヴに――敵対者に戦意と敵意を叩きつけているのだ。
「アルル、広場の入り口まで下がれ」
背中を向けたままの〝王狼〟がその大きな手で『撤退』のジェスチャーを振る。
強者の敵意を一身に受けてなお、ギュスターヴの巨大な背中はびくともしていない。
わたしの知覚がもう少し冴えていれば、と思う。
この時のギュスターヴもまた強い闘気の類をまとっていたに違いないからだ。
今この瞬間の彼にはそれだけの気迫が確かにあったのだ。
頭上の暗雲の中を紫電が走り、うなり声の代わりに雷鳴をひびかせ始める。
「ひとつだけ聞かせろ、メルグリッド。
殿下を殺すという言葉の意味をお前は本当に分かっているのか?」
遊びのない声だった。冷淡で、平坦な声で狼が言う。
メルグリッドは鼻で笑い、答えた。
「無論だ。……彼の言葉に私は気付かされたよ。
〝霧払い〟こそがこの世における最大の呪いだとな。
ガリアン・ルヴェルタリア! 奴は世に現れてはならない人間だった。
奴に連なるルヴェルタリアの王家など呪いの血筋に過ぎない。
光では無く、忌むべき血なのだ!
解れ、雷の狼よ! 世界を正しく戻すには奴らの血が必要だ」
ギュスターヴが無言で槍をくるくると回し、その穂先が雨粒を裂く。
それから彼は、
「……騎士として剣と忠を捧げた主人に刃を向けるその覚悟が、本当にあるんだな」
「くどい。私は戦い、勝ち、滅びたルヴェルタリアを取り戻す。
王なきルヴェルタリアを……騎士どもだけがある、真のルヴェルタリアを!」
「ごちゃごちゃとイカレた妄想を口にしやがって。
オレらの祖国はまだ滅んじゃいねえだろうがよ」
「戯言を。我らの騎士国は死んだよ、ギュスターヴ。
呪いの王は我が身可愛さに去り、
意味なき忠を抱いた騎士は無駄に死に、
何も知らぬ無辜の民は人を脱し、異形と成り果てた。
いまや王城は魔竜の巣となり、大時計には蛇が住む。
ルヴェルタリアはもはや滅――、」
カッ、と雷が場に振り落ち、広場の地面を吹き飛ばした。
銅像にまとわりつくように雷の残滓がまたたく中で〝王狼〟が振り絞るように吠える。
「まだ終わっちゃいねえ……!
陛下が! アーデルロール殿下が生きている限り国は終わらねえ!
幾人もの先王らが愛した国はまだここに! 確かにあるんだよっ!
国のあり方は確かに個々人で違うだろうよ。
テメエの考えは知らねえが、いい機会だ。言っとくぜ。
オレにとっての国ってのは『王家』そのものだ。
メルグリッド・ハールムラング。テメエは王家を脅かすと言った。
……上等じゃねえか、来いよ。
オレの目が黒いうちはルヴェルタリアは決して殺させねえ。
『国』の前にどんなふざけた野郎が立ちふさがろうが関係ねえ。
〝四騎士〟だろうが!〝霧の大魔〟だろうが知ったこっちゃねえ!
オレが……〝王狼〟が何もかもを喰い殺してやる。
それがギュスターヴ・ウルリックの在り方だ。
オレは希望を……。
アーデルロールというルヴェルタリアに残った小さな灯火を命に代えても守る。
メル。例え相手がお前だろうが、敵として立つなら容赦なく殺す。
はっ。殺すつもりで来てる相手に言うまでもないか。
よう、待たせて悪かったな。
くっちゃべってねえでそろそろやろうか、〝巨人公女〟。
澄ました顔じゃない、いつもの狂戦士の顔を見せてくれよ」
「……元より貴様が最大の障害になるとは考えていた。
〝王狼〟ギュスターヴ・ウルリック。我が師よ。
四代に渡る狼の首、メルグリッド・ハールムラングが貰い受けよう。
さあ、今すぐ妻子の元へ送ってやる。
ルヴェルタリアに殺された哀れな妻と息子の元にな」
目の前が白一色に染まり、一瞬遅れて轟音がこまくを震わせた。
それから鼻腔を突き刺す、焦げた匂い。
メルグリッドが広場奥の建物まで吹き飛び、その巨体をがれきに埋めていた。
ギュスターヴは相変わらず背中を向けたまま、しかし強い気迫に満ちた声で言う。
「アルル。街を抜けて今すぐ<ゴルディン>へ向かえ。
オレはメルグリッドを始末したらすぐに後を追う」
「殺せるの?」
「仕事だ」
「……分かったわ。また後で。
行くわよ、皆」
「行くって、おい、アルル! 待てって!」
アーデルロールが踵を返し、広場から走り去ろうとする。
その後ろ髪とギュスターヴの二者を交互に見やり、焦った声を出したのはコルネリウスだった。
「相手はあの〝四騎士〟だぞ!? オッサン一人じゃ無茶だろ!」
焦り、叫ぶコルネリウスに返事をよこしたのは〝王狼〟だった。彼は闘志に満ちた横顔でちらと青年を見やり、口の端に愉悦と闘争の笑みを浮かべ、言う。
「〝四騎士〟殺し。
そいつが無茶じゃねえからオレぁ〝王狼〟なんだよ、コルネリウス」
更新遅れてすみませーーーーーん。
リアルが多忙になったため、更新まちまちになります。
しかしエタらせるつもりは毛ほどもありませんので、
何卒ちまちまチェックしていただけると嬉しいです。……へへへ。




