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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
八章『薄墨の頃』
128/193

124. 心の内側、見えざる海


 鋭かった剣はいまや鈍り、わたしの意識から警戒心が急速に失われつつあった。


「父さん?」


 あらぬ人をわたしは呼ぶ。


「どうしたユリウス、俺を超えるんだろう? そら、素振りを続けよう」


 声が耳に届き、生まれた熱を画材にして男の姿が脳裏に描かれていく。

 セピア色を背景にして、鉛筆の荒々しい線がわたしの記憶のキャンパスに懐かしい日を再現していく。


 彼は室内用のサンダルを履いた足で丘の上に立っている。目もくらむような夏の日差しを全身に受けていて、白いシャツには汗のシミが浮いていた。

 毎日のように見る黒髪と、剣の手入れのたびに見る青い目からわたしは目を離せなかった。フレデリックは言う。


「ぼうっとしてどうしたんだ? 寝ぼけるなんて珍しいな」


 夏にしては涼しい風が丘の上を走った。

 背の低いわたしの前で膝立ちになり、息子の顔を覗き込む父。その背後には懐かしい我が家が見え、玄関横のウッドデッキには母と妹が腰掛けていた。


 目元が強くうずいた。

 眼窩から熱が込み上げ、鼻の奥からは幼い匂いがする。


「……だめだ。なんだ、これ。

 こらえられない。……これは夢だ。僕は分かってる。分かってるんだ」


 こんなものはありえない。

 そう頭では分かっていたが、心を抑え込む力としては弱い。

 

 いつの間にかわたしの右手が握っていた木剣を、父は自分が持つ木剣の先で小突いた。この合図は知っている。『さあ、もう少しやろう』の合図だ。


 視界の中で風見鶏が回る。

 母が笑い、妹が応援の声を飛ばし、父がわたしに手を伸ばす。


 触れてもいいか、と、そう思えた。一度思うと感情を止めきれず、わたしは彼の指に触れようとした。


 目の前の父に語りかけ、熱を感じれば遠いあの日に戻れるのではないか、と甘い想像がわたしの心を満たす。

 

 故郷の終わりという現実が夢のように――ガリアンがかつて払った霧のように散り、消えることをわたしは密かに願った。


 瞬間、強風がわたしの体を打ち付けた。殴りかかるように強い風はわたしを転がし、丘の下まで転がしていく。一転するたびに父と母が、故郷の家が遠ざかっていく。涙がわたしの喉を詰まらせ、叫ばせまいと声をふさいだ。そんなものは構うものか。わたしは心のままに大声を張り上げた。


「父さんっ! 母さん――ミリアァアッ!」


 視界のはじに見慣れた赤色がちらついた。風にはためく旗のように気ままに揺らぐそれは炎の赤だ。

 炎熱の気配がわたしの体をつま先から丸呑みにし、誰かの叫びが木立を貫き聞こえる。


「っ、どうなってる……?」


 目元に残る涙を指先でぬぐい、周囲を見渡した。

 強い勢いの炎が大地を舐めている。家屋も、馬車も、誰かの死体も、物思いの涙も、怨嗟の叫びと戦士の咆哮も。何もかもが炎に覆われ、黒ずんでいく。


 火炎を彩る鮮やかな赤色を背景にして戦士の亡骸が積まれているのが見えた。

 刺々しいシルエットは剣や斧、槍といった武具のものだろう。


「ここは……リムルじゃないな。なら一体……」


 どこなんだ?

 戦いの場には何度か立ったが、ここまで凄惨で大きな戦場に身を投じた経験はわたしには無い。


「――……火薬の匂いと血の匂い。ここも撤退戦だな。

 今のところ魔物を追い払えてるのは、遥か遠くの王都ぐらいのもんってわけだ」


 聞き知った声が耳に届き、わたしは勢いよく振り返った。

 背後にはさっきまでハインセルで触れていた霧が立ち込めている。視界は悪かったが、声の主――ギュスターヴを見つけるのは簡単だった。


 彼の大きな姿を見た途端にわたしが感じた安心は強烈だった。幼いころから読んできた英雄伝記に語られる〝王狼〟の血族にして当主なのだから、言うなれば生ける伝説だとも言える。

 竜を破り、巨人を穿つ雷の大英雄の姿に自分を重ね、その本人に憧れを持つなというのは年頃の男にとっては酷というものだし、もっと言ってしまえば無理な要望だ。


 つまり、わたしの中には『ギュスターヴのそばに居れば安全だろう』という考えがあったのだ。無意識にしろ意識的にしろ……どちらでもいい。自覚してしまうとそれは甘え以外の何者でもないのだが、これを考えるのは後だ。


 わたしは足早に彼の元へと駆けた。きっとアーデルロールやビヨンたちも近くに居るに違いない。この状況を早く抜けねば――、


「ギュスターヴさん! 合流出来て良かっ……?」


 霧の中に他の人間の姿が見えた。

 背丈にも立ち姿にも見覚えがない。誰だ?


「王都が無事なのは当然だ。

 ハインセル王は賢しく、特に保身に秀でているからな。

 見ろ。この付近で展開しているのは主力ではない、第4から第5の軍団だ」

「なら主力はどこに居るって言うんだ、アルフレッド?」

「もう答えを言っているようなものだと思うんだがな。

 質問する前に少しは考えてみたらどうなんだ? フレデリック」

「なんだとお!? お高く止まってんなぁ……! また白黒つけるか!?」


 剣が鞘に当たる音がカチカチと聞こえる。

 それから鼻で笑う声。軍について話していた男が嘲笑しているのだ。


「良いだろう。ルヴェルタリア王家の剣をもう一度味わってみろ、田舎者」

「へっ! その田舎者のデタラメ剣術に倒されたのは誰だったっけか?

 おぼっちゃんのお行儀が良い剣なんて目じゃないぞ。

 かかって来い。また『降参』させてやる」

「貴様……口には気をつけろよ」

「お前の方こそ。おうじさま(・・・・・)


 足音を潜め、近づいたわたしは金髪の男を見た。

 装飾の施された剣を腰に下げ、白いマントを羽織った彼は仕立ての良い装備を身につけている。貴公子然とした髪型と、しゃなりとした長身はまさに王子の風情だ。

 優れた外見だ。だが最も注意を引いたのは彼の瞳――……真紅の色を宿したその両目だった。


「……あの風貌……ルヴェルタリア王家の……?」


 岩陰に隠れ、つぶやくわたしの脳裏に若草色の姫の姿が浮かぶ。

 浮かんだ彼女の顔と霧の中に立つ王子の顔が重なった。


「まさか……いや、それは……」


 ありえない考えが浮かび、かぶりを振って打ち消そうとした。が、それは叶わなかったし、どちらにせよ考える余裕なんて無かっただろう。

 なぜなら目に飛び込んだ驚きがわたしの中を満たしたからだ。


 わたしが居た。


 癖っ毛の強い黒い髪。

 真っ青な瞳。

 泥や土で汚れた顔や装備。

 左腕には剣闘士が好むような丸盾があり、右手は反りのある片刃の剣を握っている。


 横に立つ女がわたし(・・・)を諌めた。


「バカやってんじゃないわよ。いつどこから魔物が来るか分かんないだから。

 次にイチャつきだしたらどうなるか分かってんでしょうね」


 バキリ、ゴキリと拳を鳴らして言う女を見て、貴公子の顔がひくつき、剣を静かに鞘へと戻していく。それからギュスターヴはひとしきり笑い、火炎の先を指差し、何事かを口にした。


「母さん……?」


 女の声はひどく懐かしい音だった。もう、ここまでされればわたしの中に答えは浮かんでいた。


「……そうか、ここは……」


 過去だ、と言い切るほど思い切れなかったが非現実的であることには変わりはない。かといって夢ではない。現にこうして頬をつねると痛みが走る。


 ふと、霧を隔てた向こうに立つ、若い日のフレデリックがわたしを向いた。

 唇が動き、何かを言っていたが音は聞こえない。暑い夏の日、セミの声が誰かの話し声を搔き消す時のように、炎のごうごうとした雄叫びがすべてを飲んでしまう。


 とん、とわたしの背中をつつかれた。

 半ば条件反射で振り返るとまたも場面が変わる。


 木造づくりの小さな部屋。壁際には二段ベッドがあり、シーツも枕もぐちゃぐちゃだ。木箱にはおもちゃが無造作に突っ込まれている。しかし壁に立てかけられた木製の剣だけは手入れをされていた。


 きっと……いや、これはかけがえのない宝なんだ。

 誰の? 他でもない。それは――、


「今度は僕の部屋か。もう何が起きても不思議じゃないな」


 子供用の椅子には白衣が腰掛けていた。

 背中をこちらに向けた彼女の純白のローブは、窓から吹き込む風に揺らいでいる。


「イルミナ。……師匠。あなたも夢ですか?」

「さてな。お前はどっちだと思う?」

「あなたの言いそうな軽口だから、なんとも。

 僕の記憶から出てきたとしても不思議じゃないし。分かりません」

「ならそういうことにしておけ。

 ところでお前の夢に少し邪魔をさせてもらったが……

 お前は過去を向きすぎているな、ユリウス。

 おっと、事後承諾だなんだと怒ってくれるなよ?」


 机の上に開かれたままのスケッチブックが数枚めくられた。

 イルミナは背を向けたままだ。わたしは少しだけ近づき、スケッチブックに目を向ける。


 男の子の絵だった。剣を持ち、白い巨人――〝霧の大魔〟に挑みかかっている。

 子供らしい絵だ。わたしも密かに描いたことがある。


「下手くそな絵ですね。あなたが描いたんですか?」

「絵は昔から不得手でな。

 魔法を使えばなんとでもなるが、芸術はそういうものではない」

「そうですね」

「芸術とは心情の発露だ。

 キャンバスに描くことのみならず、夢を見ることも自分だけの芸術だろう。

 さて……遠い夏の日にフレデリックの若き日の姿。お前はどうして過去にすがる」

「すがっているつもりは……」視線を少しだけ左にやる。「……ありませんが」


 イルミナが右腕をあげ、指先をちらりちらりと前後に振る。


「ならば無意識の憧れだな。気持ちは分かるよ。

 何しろ過去は美しい。栄光の日々、安息の日々、平和と愛の時間。

 心は健やかに育ち、晴れの丘を走り、一日を終える。

 母に微笑み、父の背を追い、妹の手を掴む。

 過去には自分が愛した何もかもがある。

 だが、過去は過去だ。誰も戻れやしないんだ」


 わたしは答えなかった。だが無言も立派な返答なのだろう、イルミナは語る。


「故郷を夢見るならばともかく、若き日の父を見たのはハインセルが原因だな。

 おおかた父母が歩いた地に自分がたどり着いて、かつての二人はどんな旅をしたのかと想像したんだろう? お前も男だからな。ふん、ユリウス。


……私の師も、その師もこう語っていた。

『過去を想うことは美しいが、明日へ向かう鮮やかさには劣る』、とな。

 

 お前にひとつ種明かしをしてやろう。

 疑っている顔だな? まあいい。


 霧はつなぐ特性を持つ。

 対象は時間、記憶、言葉、思い……何でもだ。

 誰かに会いたいと強く思えば、霧中に在る限りは出会うこともあるだろうよ。本来ならば届かぬ声がお前のもとに届くこともあり得る。

 遠い過去との時間を、あるいは光景の残滓とお前を繋ぐことも、な」


 イルミナは相変わらず指を振り、こちらを見ようともしない。

 わたしも彼女に近づこうとは思わなかった。一歩を踏み出せば彼女が霧散して消えてしまうように思えたからだ。


「霧はおそろしいだけのものではない。

 時に優しく、時に厳しい霧は……言うなれば自然のような存在だ。

 古人は説明のつかぬ自然を神に見立て語ったという。

 人知の及ばぬ大火、原理など知れなかった雷鳴や地震。


 自然と霧を同列に扱うなど、言い過ぎだと思うだろうがそんなことはない。

 なにしろ霧とは神の一柱が遺した事象なのだからな。

 何が起ころうとも不思議ではないのさ。過度に怖れるな、と私は言いたかった。


 ところで、だ。

 過去の愛に縛られた女や、若き日の輝かしい時を捨てられぬ老人は時折霧中に自ら消えていくことをお前は知っているか?


 何故だ? という顔をしているな。……彼らは過去に出会いに行くのだ。

 霧が見せる虚構にすべてを委ね、やがて灰色に溶けて消えていく。

 遺体も残らない、完全な消滅だ。


 霧が再現し、見せる幻は差し出された願いの量と質に比例する。

 個人であればその者を絶頂に導く夢を見せるだけだが、

 それが集団ともなれば危険なものになるのだ。


 もう気付いているんだろう?

 そう。このハインセルという国はあまりに危険だ。

 はるか北方の〝大穴〟に等しい危うさを孕んでいる。


 かつて栄華を極めたハインセルの輝きは太陽を食らわんばかり。

 それ故に霧に沈み、滅びた際の絶望は凄まじいものだった。

 死に果てるはずの魂が影となり、大地にこびりつくほどにな。

 地縛してまで過去を想う感情は個人の枠組みを越え、集団となり、ハインセルという国それ自体が抱く巨大な願望へと肥大してしまった。

 異常だよ。ここは過去への回帰をのぞむ超常の力場だ。


 急げよ、ユリウス。

 他人(ハインセル)の夢に長居をすれば、食らわれ、消えてしまうぞ。

 少し……話しすぎた」


「……イルミナ? 体が薄く……。消えてしまうんですか?」

「夢はいずれ醒めるものだからな」


 わたしは尋ねるべきか一瞬迷い、やはり訊いた。


「あなたは無事なんですか? 今はどこに居るので?」

「存在も不確かな女にそれを聞くのか。ふっはは。

 お前の知る私ならばきっと無事に違いあるまいよ。

 ふむ。さあて……この部屋であたる風は心地良いな。また邪魔をするとしよう」


 まばたきのあいだに白衣の魔女の姿は消えた。

 夢の中に居ることは知れたが、相変わらず出る方法は不明のまま。

 イルミナはさっさとハインセルを出ろと忠告をしたが、まずは目を覚まさねばどうにもならない。


「また迷っちゃったの?」


 姿のない声がする。出どころは机の上のスケッチブックだ。

 わたしは下手くそな男の子に顔を向け、「どうやらそうみたいだ」と普段と同じように彼女にこたえた。


「霧はユーリくんをなかなか離してくれないね。

 けど仕方ないか。因縁だもの。

 さ、そろそろ起きなきゃ。皆が待ってるよ」


 手が自然と前へと伸びた。

 そうするべきだなのだと最初から知っているような動作。

 指先に熱が触れる。目には見えなかったが、これはビヨンの手だった。

 少し高めの体温をもつ彼女の手がわたしを掴む。


 景色が流れ始める中で、あの下手くそな絵はビヨンの描いたものにもよく似ていたな、とわたしは思った。


………………

…………

……


「――ようっ! やっと起きやがったな!」

「うわっ!?」


 耳元で大声が炸裂し、寝覚めの余韻を一発で吹き飛ばしてくれた。

 体はその男――ギュスターヴだと今ではすぐに分かった――に背負われるように縄で縛り付けられ、彼が一歩を走るたびに足がぐらぐらと振り子のように揺れた。


「ユリウス! あんた寝坊した分はきっちり働いてもらうからね!」

「起きてくれて良かった! うちもうだめかと思ったよ〜っ!」


 身動きの取れない背中をばしりばしりとアーデルロールの平手で次々に張られ、折檻さながらの扱いを受けているとギュスターヴが低い声音で、


「霧に随分囚われちまったらしいな。

 一時的な気絶は珍しかねえが、これだけ長い間落ちるのはそうそう無いぜ。

 相性悪いのかもな」


 彼は片手に黄金の大槍を握っていた。穂先が帯電し、ばちばちと音を立てる。


「どれぐらい眠っていたんですか?」

「一週間だ」


 間があった。


「……一週間っ!?」

「おう、何だよ、元気は十分みてえだな?

 街道を抜けたあたりで突然気絶して、それっきりだ。

 言っとくがオレの背中は高いんだぜ?

 くたばってた間の仕事はしっかりやってもらうぞ、ユリウス」

「~~~~っ……! すみませんでした。剣をもって名誉を挽回します」


 剣を鞘から引いてわずかに刀身を見せ、縄にあてがうとスッと剣を引いた。

 縄がはらりとほどけると同時にわたしは草むらに降り、防具の不備を素早く確認する。問題はない。十分に動ける。


「お前が眠ってるあいだに旅は随分進んだ。

 街を後ひとつ超えりゃあ、王都ゴルディンだ。

 結局シュミットの野郎を送るような旅になっちまった」

「大事な情報というのは彼から聞き出せたんですか?」


「半分程度ってとこだな。残りを知るにゃあ、王都に行く必要がある。

 奇しくもオレらの位置から最も近い国境線もまた王都方面でな。

 相当に危ねえんだが行かにゃいけねえんだとよ」


 ギュスターヴが槍を手元でくるりと回し、舞う紫電が弧を描く。

 次いで獣の咆哮と無数の金属音がじゃらりと響いた。まるで大量の騎士や戦士が戦列を作っているかのような音だ。


「ご名答。この先にはハインセル王国が誇る黄金騎士団の連中がうようよ居る」

「中身は……影ですよね。生身の人間が大勢居るはずもない」


「ああ。連中は影に成り果てても王国を守るべく、

 無尽蔵に湧いて出る魔物やら、小狡い野盗をぶちのめしてる。

 まるで戦士の園だな。知ってるだろ?

 どれだけ死んでも朝には蘇る不死身の世界で戦い続けるっつう、

 英雄神ブランダリアの庭園の話だ。……まあいい。脱線した。

 要は、だ。オレらもその不審人物には違いねえわけで」


「力で押し通る必要がある、ということですね」

「話が早くて助かるぜ。ユリウス、お前、名誉挽回をすると言ったな?」


 籠手をはめ直し、抜きはなった剣を握り、わたしは前を向いたままに答えた。


「はい。僕は剣を振るうぐらいしか能がないので」

「親父そっくりで結構じゃねえか。――アルル、いいな? おっぱじめるぞ」

「ええ。相手が死霊だろうとなんだろうと関係無いわ。

 行くべき道に立ちふさがるなら押し通るだけ。先駆けはあんたに任せたわ」


 首にかけたネックレスに指で触れ、わたしは言う。


「君の命なら僕はなんだってやるさ。

――ユリウス・フォンクラッドの剣の冴えをご覧あれ」、と。

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