120. かえる
思わず警戒と不審を覚えるようないびつな外観とは裏腹に、書庫の内観は至極まともな造りをしていた。
とび色のカーペットが敷かれた石造りの通路の壁には、上下を金色で飾った藍色の柱が等間隔で並び、それに寄り添うようにして黄金作りの燭台がじっと立っている。
魔法灯のある今時分ではろうそくを使うことは珍しく、わたしはしばし白く艶のある色合いを持つ固体に視線を注いだ。魔法の明かりとは違うこの光には温かみがあり、どこか遠い懐かしさを感じた。
「ユーリくん、置いてかれちゃうよ」
細い指先がわたしの肩をちょいちょいとつつき、「教えてくれてありがとう」と世話焼きなビヨンに答えるとまた通路を進む。
天井の梁の隅に張られた蜘蛛の巣には主は無く、ネズミが出入りをしていた壁の穴には埃が山と積もっている。
空気はどこか湿っぽく、鼻に届くにおいは古い書物を腹にたくわえた書庫に特有のすえた匂い。
三人で身を寄せ合いながら通路をしばらく進むとやがて分岐路に突き当たった。
腰高程度の高さの幅広な机にはやはり人の姿は無い。
卓上に置かれた『巡回中』と書かれたカードと中身の無いマグカップ、それから開きっぱなしの書籍が不気味さを助長させる。
コルネリウスが目にしたら叫びのひとつでもあげて逃げ出すことは間違いないな。
「見て、館内地図よ」
カナリアの声につられ、視線を上向けると長方形の羊皮紙に目が止まった。
二メートル半ほどの横幅をもつ紙面には地図が描かれており、それは一階、二階、三階と区分され、明記されていた。
これだけならば地図を頭に叩き込むだけの館内地図といった扱いで済んだが、そこはかつての大国にして先進国ハインセル。
不思議なことに、羊皮紙の上には赤い光点がぽつり灯っていた。
一階の見取り図に目を向けると、入口から程近い受付の前に赤い光点が三つ集まっている。もしやと思い、後ろへ少し下がると光点も移動をした。
なるほど。これはわたしの位置と同期をしていることは間違いなさそうだ。
わたしたちが三人でしげしげと地図を眺めていると、少し遅れて羊皮紙に赤い筋がにじみ、やがて光点の横に文字として並んでいった。
『ビヨン・オルトー』と書かれた文字が浮かび上がるとほとんど同時、「わあ」と感嘆の声が聞こえた。
「すごい! どうやってうちの名前を調べたんだろう?」
「少なくとも記帳した覚えはないね。なんだか少し怖くなってきたよ」
「カナリア……私の名前ね。それからビヨンはあなたの名前。
遅れてすまないけれど、少年、あなたの名はなんて言うのかしら?」
そういえば名乗っていなかったことを思いだす。わたしは半ば条件反射で姿勢を正すと、「ユリウス・フォンクラッドです」と彼女に名を告げた。
反応は「ふうん」と短く、どうやらフォンクラッドの名にもわたしの面にも覚えはないようだった。正直安心したことはここだけの秘密としよう。
「ユリウス。あなたの名前はいつまで経っても浮かんでこないのねえ」
カナリアが不思議そうに言う。
地図には『カナリア』の名と『ビヨン・オルトー』の二つだけがあり、残るひとつは瀕死の蛇がのた打ちでもしたように歪んでいた。
もしや……と思った途端にビヨンが先んじる。
「まさかこのぐちゃぐちゃの文字がそうなのかな?」
消去法で考えればそれしかなさそうだった。
「みたいだね。なんだか不名誉というか気味が悪いけど、多分これが僕だ」
「まあ……仕方がない不具合とも言えるわね。
なにせ長いあいだ誰の管理も無かったのだから、
地図の異常の一つぐらいあっても不思議じゃないわ。
それより二階を見て。怪しい先客が居るみたいよ」
「二階……?」
いくつかの大部屋がある二階の見取り図の端で例の赤い点が明滅していた。
名前は『シュミット・ハウザー』。覚えのない名だが、こうして一方的に名を明かされて行動を監視されている彼にわたしはささやかな同情を覚えてならない。
この書庫に居る限りにおいてはプライバシーは無いに等しいらしい。
わたしたちが見守っているあいだにもシュミットという名の人物――もとい光点はじわじわと動き、ややあって禁書棚と書かれた大部屋へと入っていった。
「怪我でもしているのかな? 移動が随分遅い」
「重い物を引きずっているかも知れないわ。
荷の重さが勝ちすぎる場合、大概はあれぐらいの歩きになるものだから」
「例えばそれは何ですか?」
「そうね。大型の死体……人間だと想像しやすいかしら」
「……」
シュミットは『指定禁書カテゴリ:3』と記された棚の前で足を止めると、それきり動かなくなった。静けさの中、わたしは書棚の並ぶ薄暗い書庫にひとりあり、細い音のひとつもしない中でじっと本を立ち読む男の姿を想像した。
正しくあらば最早人の存在しないはずのハインセルに居る男。
わたしたちは人のことを言えた立場ではないが、シュミット・ハウザーなる男もどうやらまともな手合いではなさそうだった。
と、不意にわたしは気付く。
外部からの侵入者かと思っていたが別の可能性は十分にあるのだ。
根拠はカナリアの言葉だ。彼女は亡国には今なお住人が居る、と口にしていた。
「そういえば……カナリアさん。
あなたはハインセルに住人がいると言っていましたね。
このシュミットという人物は外部の人間ではなく、ハインセルの民なのでは?」
疑問を投げたがしかし、カナリアの返事は芳しいものではなかった。
彼女は狼の顏を少し下向けると残念そうに左右に振って、
「いいえ、違うわ。ハインセルの住人はもやは人ではないもの」
取りようによってはおぞましいことこの上ない答えだった。
「人ではなくなった……?」
「うーん。考えられるのは属性転化からのゾンビ化、
あるいは他者からの魔力干渉によるな変容……?
人間が魔物に変えられた例はいくらでもあるし。
でも、まるごと一国を魔法の効果範囲に指定するなんて……」
わたしの言葉に乗るようにしてビヨンが頭を回すが、カナリアは「違う」と静かに否定をした。
「ハインセルの住人は既に生物ですらないの。
あなたたちは地縛霊という言葉を知っていて?」
コルネリウスは回れ右をしそうな話題だった。
わたしが応答に遅れると、それに代わるようにしてビヨンが言葉を継ぐ。
「はい! 土地と同化した、あるいは繋がりをもった魂の俗称です!」
「そう。天に帰れぬ縛られた魂よ。
<ミストフォール>の後、この地に残っていた
ハインセルの民は一人残さず人間として正しい姿形を失ってしまったの。
異形に成り果てた者も居たけれど、
大半は人の輪郭をした真っ黒な影となった。
彼らは自分が死んだことに気付いてはいない。
日が傾く時刻になるとどこからともなく現われ、
生前にそうしていたように、何食わぬ様子で生活を始めるわ」
「それは食事をしたり、働きに出たり……?」
「ええ。雑貨屋も武器屋も普通に営業をしているわ。
けど交流するのは中々に難しくてね。
彼らとこちらとのあいだに膜でもあるように、声がぼんやりと聞こえて、
会話が成立しないことが度々あるわ。
そうした時には大概、彼らは糸の切れた人形のようにじっと押し黙る。
正直、不気味よ。接触をするなら必要最低限にするべきね。
これは私からの心からの警告よ」
「分かりました、ありがとうございます。
となるとこのシュミット・ハウザーとの接触は避けた方がいいかも知れません、」
「うん、うちもそう思……!
ちょ。ちょっと。すごい速さでこっちに来てない!?」
あまりの驚きに呼吸を忘れてしまった。
二階の書棚前に居たはずのシュミット・ハウザーの光点はいつの間にか通路に躍り出ていて、猛烈な速さで階下――つまりこの一階へと続く階段へと迫っていた。
その素早さたるや、先刻の比ではない。
例えるならカメの歩みが突然にして獲物に迫る狼の速度を得たようなものだ。
これに驚かないような人間の胆はデタラメに太いに違いない。
いつの間にかわたしの袖をぎゅっと握っていたビヨンの手を掴み返し、それからカナリアを振り返った。
彼女の顔は険しくなっており、即座に対処を口にする。
「まずいわね。このままでは鉢合わせてしまう。かといって隠れようもないか」
「この地図のせいですね。全く、便利かと思ったらこんなに厄介だとは……」
こうして話している今にもシュミットの光点は迫っている。階段を激しく蹴りつけるような足音が耳に届き、場に緊張した気配が走った。
わたしは腰に吊った鞘を撫で、次いで剣の柄を握った。
それを見たカナリアが言う。「やり合う気?」と。
無論そのつもりだった。ビヨンの身を守ることはわたしの責務であり義務だ。
幸いにして霊体や精神体といった手合いの対処は、イルミナ・クラドリンから叩き込まれている。
「顏の割には物騒なのね」
「褒められているのか分かりませんが。とりあえずどうも」
「褒めてるわ。あなたみたいな戦士って素敵だから。あら……来たわね」
弾くように階段を駆け下り、どん! と一際大きい物音を立てて現われたのは人の形をした異形だった。
意外だったのは想像をしていた影の類や発光する魂などではなく、ガラスの身体をしていたことだ。
口や目、鼻といった部位は無く、ただ人の形をした透明な器。
透けて見える腹部には内容物があり、それは緑色の塊に見えた。
「ユーリくん!」
「ああ、やろう、ビヨン」
猛接近する人型の右肩にビヨンが放った水弾がぶち当たり、その勢いが大きく削がれた。
ビヨンの攻勢に続くようにしてわたしは間髪を入れずに肉薄し、腰に溜めた剣を一息で抜き放った。狙いは無防備な足元。
まずは機動力を削ぎ、確実に急所を潰す。常套手段だ。
「っ――……っ!?」
剣に違和感を覚えた。奴の透明な足に触れた途端に勢いが鈍ったのだ。
その感覚はまるで水あめを斬りつけたようなものでいて、とても振り切れるようなものではなかった。
「――氷の第二階位、<凝固する息吹>よ、ここに!」
声とともに吹き込んだ強い冷気が人型を包み、剣から伝わっていた不快な粘り気が消え失せる。
もしやと思い、思い切りも良く人型を蹴りつけてみるとパリン、とした甲高い音を立てて奴の足は砕け散った。
「これなら……!
仕組みは分からないけれど、固めれば簡単につぶせるらしい。
ありがとう、ビヨン!」
言いつつ剣を引き抜くと、奴に残された片脚もまた割れた。まだ健在の両腕を駆使して逃げようと身をよじったが、わたしは容赦なく人型の腕を左右の順で潰す。
人に害をなす異形にかけるべき慈悲などないのだ。
このガラスの人型にもし、口があれば何と叫んだだろうか? 瞳があればどんな色をその目に映しただろう? すべては想像の中だ。
「さよなら。これでお終いだ」
かたかたと震える透明な頭に鉄靴の底をあて、強烈な力をかけて一気に踏み抜く。
何度か聞いた甲高い音を立て、それきり奴は動かなくなった。
………………
…………
……
「お見事。やるわね、ユリウスにビヨン」
「手伝ってくれても良かったのに」
剣を納めながらわたしがそう言うと、カナリアは「いやよ」と答えた。
「私は自分の毛並が好きなの。あんなおぞましいものに触れて汚したくないわ」
「まあ……そうですね。わずかなあいだとはいえ、取り込まれた剣が
こんなに刃こぼれをしてしまった。生身で触れていたらと思うとぞっとします」
「ほんとにね。んー……ところで何だろうね、これ」
ビヨンが杖の底でごつごつと突いているのは、異形の腹におさまっていた緑の物体だった。なんだかヌメッとした具合の色艶をしていて、黒い布にくるまっている。
出来れば直接触れず、遠巻きのままで正体を検めたい物体だった。
「あまり近付かない方がいいんじゃないかな」
「でも気になるじゃん。ユーリくんは何だと思う?」
「生ごみ」
即答。
「ひどいな。カナリアさんは?」
「生ごみかしらねえ」
「もうっ!」
「あっはっは。……? ねえ。今それ、少し動かなかった?」
ビヨンの足元に転がる物体がわずかに動いたように思えた。
まるで脈でも打つようにびくり、と。確かに……。
「っ! うわ、ぎゃ、ええぇマジなの? マジなの!? 生きてるの!?」
「どうやらそうみたいね。ほら、地図には相変わらずシュミットの名前があるわ。
やっぱり私が思っていた通り、館内の生体反応……魔力を感知しているのね。
ということは彼はまだ生きているらしいわ」
「いやでもこれ、どう見たって人間じゃないですよ?
もし虫の息ならいっそ楽にしてあげた方が……」
「――……めろ、やめろ! やめんか!」
「~~~っ!?」
知らぬ声が場に割り入ると同時に緑の塊がぶるぶると震えた。ビヨンはたまらずに口から悲鳴を細く漏らし、あからさまに顏を引きつらせている。
無理もない。何せ人間でも、どうやら亜人でもなさそうな生物が声も高らかに叫びはじめたのだから。
「貴様! わしを殺そうとしたな!?
この阿呆めが、このわしを誰だと心得る!? 言ってみろ!」
「いや、誰って知らないですよ。それにそもそもあなた……」
「カ、カエルが喋ってる~……」




