118. 霧に沈みし
「ギュスターヴは随分さくさく進むのね。
こう霧が濃いとあたしにはさっぱり先が分かんないわ。
言ってるそばから道に大穴空いてるし。危ないわね」
「おかしいな。ルヴェルタリア育ちは霧の中でもよく目が利くって聞いたけど」
「そんな眉唾、一体どこのどいつが言ったのよ?」
野営地点にしていた山を降り、平野地帯にまでやってきたわたしたちは、亡国一帯をおおい尽くす霧の中へと踏み込んだ。
これまでの旅――人生の中で霧と遭遇する機会は何度もあり、自分から飛び込む経験もあったが、今この時に思い出すのは幼少の日にコルネリウスとビヨンとの3人で森へと入った、あの無茶な日の記憶だった。
道を進むペースリーダーはギュスターヴが引き受け、わたしたちは彼の大きな背中を追って霧の中をすすむ。
山のふもとに広がっている街――当然だが、住民は誰も居ない。廃墟だ――の大通りを歩く中でアーデルロールがこぼした一言がさっきのものだ。
互いに慣れ親しんだ仲間だからか。
緊張する場面でもわたしたちは軽口のような言葉を互いに交わし、歩いていく。
もちろん、この場所がいつ魔物が飛び込んでくるかもしれない、とびきりに危険な場所であることはよくよく分かっている。
だから誰しもが警戒は常にしている……はずだ。
まったく今ほどミストベルがあれば、と思ったこともない。
いや、持っていても霧だけがあるこの場所では延々と鈴の音を鳴らして、かえってやかましいだけかも知れないけれど。
りんりんと響く音で大量の魔物を呼んでしまっては、それこそ笑えない。
「ええと。誰だっけ?」
アーデルロールの問いに詰まり、後ろの二人にわたしは訊いた。
「森で宴会を開いてた見ず知らずのオッサンだったと思うぜ」
「大丈夫なの、それ。あたしにしてみれば信憑性ゼロなんだけど」
「うち、アルルちゃんに同意」
体にまとわりつくようなやけに重たい霧を肩で切り裂き、わたしたちはハインセルの一市街を歩いていく。
実際にこの地を訪れてみて驚いた点がひとつ。
災害によって刻まれた破壊の爪痕は、想像よりもずっと少なかった。
たとえば壁や地面にわたしの背丈ほどの大きさの爪痕が残っていたり、通りの街路があちこち陥没していたり。
ドアと窓ガラスはぶち破られ、木箱が崩れているのは魔物か火事場泥棒あたりの仕業か、どちらだろうか。どんな騒動でもそういった下衆な手合いは一人や二人が居るものだから断言はできない。
と言ってもわたしにとってのサンプルはこの街だけになるのだが、つまり、建物の類はほとんど完全な状態のままで残されているのだ。商店や宿屋といった施設の内部が無事かどうかまでは見ていないが、直感では十分に使えることと思う。
わたしが感じ、抱いた印象は『もぬけの殻』。
住人が立ち去ったあとも魔法灯には明かりが点り、ぼんやりとした淡い輪光をこちらに見せていた。と言っても万全の光量ではなく、輝きはうすい。ぱちぱちとまるでまばたきのように頻繁に明滅していたが。
と――、
「待て……。何だろう、違和感が……ある……」
そう思い、通りの左右に視線を配った。
相変わらず霧が立ちこめているが、空気は生ぬるい。
霧に触れた時によく思うことなのだが、あるべき存在や世界の色を隠し、覆ってしまう霧に対して、わたしはどうしてか『恐ろしい』だとか『不気味』『陰鬱』といった感情をあまり抱かないようになっていた。
昔はどうだったかはあまり覚えていない。
ただ、今のわたしは霧を『静かで、ただその場で揺れるもの』として捉えていた。もちろん魔物が現れる危険きわまりない存在であることは承知している。
それでも危険な存在という認識と、ある種の『美』を感じる気持ちはわたしの中で切り離されているのだ。
これを端的に言い表すのであれば、禁忌故の神秘、だろう。
「――違和感って?」
ビヨンがひょいと身を乗り出し、わたしの視界に現れた。
くりっとした丸い目には興味の光がありありと浮かんでいる。
彼女の顏を目にするとわたしの意識は沈思の海から戻りはじめた。
「どうして灯りが点いているんだ?……って思ってさ。
ほら、山腹から見下ろした時には、灯りなんてひとつも見えなかったじゃないか」
「言われてみれば。
うーん……濃霧で隠されて見えなかったとか?
でもそれならぼんやりとした輪光ぐらいは見えるはずだよね」
「そうだね。どんなに薄くても見えると思う」
「不思議だねえ」
「うん。不思議だ」
「……なんか重要そうな話だけど、そんな締め方でいいわけ?」
アーデルロールが口をすぼめて言うが、これ以上の言葉は浮かばなかった。
あとは歩きながらに考えを進め、足を止めた時にでも口に出してみればいい。
ビヨンもきっと同じように考えながら歩くはずだ。
先を歩くギュスターヴは、路上に打ち捨てられた馬車や看板。酒屋の軒先に積まれた、ぶどう柄の焼印を押された樽を懐かしそうに太い指先で撫で、
「ここはトニの野郎の酒場……『黄金虫』だな。
最初は端た酒か本当に水しか出さねえが、
50年も通うようになると200年物の上等な酒を出す変わり者で有名だったな」
彼の指先が別の家屋へと向けられる。
看板に描かれた果物が浮いているようにふわふわと揺れ動いていた。
「あの果物屋はフルーツなんぞまるで売らねえで、
ひたすら『粉』を売りさばいていやがったな。けったくそ悪い」
「粉ってなんだ?」
不思議そうにコルネリウスが言った。
「禁制の薬物。言っちまえば麻薬だ」
ギュスターヴが太い指先で小さな袋をつまむ動作をする。
「名前は『ライズ』。一見すれば透き通る水色の綺麗な粉。
小指ですくった程度の量でも舐めりゃあ、脳を侵されて終わりだ。
精神高揚、万能感、自分を二重に感じる錯覚、過去への逆行感……。
『ライズ』はハインセルの抱える大きな問題のひとつだった。
精製をした亜人には、ただ強めの清涼感を得られる薬物だが、
純人間にはとんでもなく効き過ぎる代物でな。再起不能だ。
首都や歓楽街の物陰には廃人がごろごろ転がっていやがったぜ」
「それは今でも流通しているんですか?」
「おうともよ。盛り場で嗜んでる奴は今時分でも珍しかねえはずだぜ。
本当、気をつけろよ。『ライズ』は少量でも脳をとろかす」
それからわたしたちは通りの奥までまっすぐに歩き続けた。
不安をあおる霧の情景とは裏腹に、魔物は1体も現れなかった。
戦いをどこか心待ちにしているコルネリウスは拍子抜けだったようだが、危険が遠いのならばそれに越したことは……ないはず……だ。
言い切れないのは自分の中に芽吹いた小さな変化。
霧の魔物を斬り伏せたい、という欲求にわたしは気がついてしまった。
この暴力的な願いがいつからあったのかは分からない。思い返せば牛頭の怪物を相手取った時にも、自分の中に高揚を感じていたかもしれない。
危険だ、と思った。
戦いの熱に魅入られるのは良いことではない。
その先は修羅の心があり、果ては狂戦士と言われる在り方だ。
ルヴェルタリアの北騎士、戦士らは戦いに心身を捧げるがしかし、狂う者は少なかったと伝え聞く。精神における不動の芯をそれぞれが確立しているのか、あるいは明確な正しさの中で戦っていると信じているからこその鉄心か。
<穂並通り>、<赤日通り>、<鉄槌鍛冶場>。
入り込んだ太い通りの路面をガチャガチャと蹴り踏んでいると、奥に奇妙なシルエットが見えた。
それは言うなれば巨大なボール。高さはまず40メートル以上はあるだろう。
街のど真ん中に球体を据えるのがハインセルの常識だったのか?
記憶と知識を振り返るが、二者ともが『そんなわけはないぞ』の答えを出す。
「なんで街にボールがあるんだ?」コルネリウスが疑問を口にした。
「霧で覆われてるからか、めちゃくちゃ不気味ね……」
「うち、あれが転がり向かってくるんじゃないかって想像しちゃった」
確かに。塔で石球に追われた記憶がよみがえらないでもない。
あの時と大きく違うのは球のサイズだ。こっちのそれは、街ごと更地に帰しかねない大きさがある。
この街の在りし日の姿をよく知るギュスターヴは「こんなもんは知らねえ」とぼやき、それからあご先を指でさする。
「あそこには大書庫があったはずだ。が……ありゃなんだろうな」
「書庫? 街の真ん中になんだってそんなもんがあるんだ?」
「ふふん、うちが教えてしんぜよう」
指をついっと立てたビヨンが薄い胸を張り、得意げな顔をして、
「ハインセル王国は経済・流通面で特に有名だったけれど、
知識・研究の面にもとても強かったんだよ。
この辺りからは1000年以上前の遺跡物がよく出土をするから、
そういったのを解析・再現をする、いわゆる魔導研究に明るかったんだね。
実際、ハインセルの技術は
他の国よりもずっと先を行っているって言われてたんだから。
『黄金の民たる者、書と剣をもって新古を学ぶべし』がスローガンだったかな?
とにかく皆、足しげ~~~~く書庫やら武練場に通ったんだってさ」
「はーん。大したもんだな。
んでここにも書庫はあったのか?」
「各街に必ずひとつは立派なのがある……はずだけど……」
ビヨンの視線を追って、全員の視線が巨大な球体に向く。
するとタイミングを合わせたように霧がゆっくりと薄れ、それの正体が明らかになった。
球体とはゆがめられた建物だった。
巨人が建物を手で包み、泥団子を練るように潰すとちょうどこんな形になるに違いない。
柱は飴細工のようにゆがみ、壁は円弧を描き、無数の書物が収まった棚は曲線の一部となっている。
球体の中でちらりちらりと明滅しているのは、建物内部に取り付けられていた魔法灯だろう。
「どうなってんだ、あれ」口をあんぐりと開いてコルネリウスが言う。
「ギュスターヴのおっさん、あそこは昔っから……いやそんなわけねえよな」
「ああ、そんなわけがねえともよ。
書庫とは神殿に似た外観をしていた。
ハインセルに滞在していた時も、
<ミストフォール>時に訪れた時も見てくれには何の変化も無かったぜ。
こいつは確かだ。間違いねえよ」
「建物を力任せにゆがめた誰かが居たのかしらね? 巨人とか」
「そりゃねえだろう」
アーデルロールの言葉をギュスターヴが否定する。
彼は片手の指先を丸めると、
「こいつはほとんど正確といっていい球体だ。
見たところ無理に力を加えられた風でもない。
と来りゃ、魔力による干渉だろうな。
書庫をどうにかするってんだから相当の魔力だ。
建物にはまだ何かしらの力場が残ってるかもしれねえ。
下手に近づくのはまずい。が、しかし……」
言って彼は喉の奥を鳴らし、不満げに唸った。
「どうかされたんですか?」
「書庫で待ち合わせの予定があったんだ。
だがこうなっちゃあ、事情が変わる。参ったぜ」
「待ち合わせですって……? ここに知り合いが居るわけ?
冗談やめてよ。ハインセルに人は住んでいないんでしょ?
幽霊とか言わないでよね。鳥肌が立つわ」
「おう、住人は居ねえはずさ。
オレが呼んだのは近郊の森に棲む<人狼>。
オレの部下っつうか……眷属と言った方が正しいかもな」
「――どちらの呼び名もご免だわ」
霧を割ってひとつの声が飛び込んだ。
どうにも不服そうな調子のハスキーな声音。
その正体はすぐそばの家屋より聞こえ、タタン、と軽い音を立てて目の前へやってくる。
「カナリア。よう、調子はどうだ?」
「あなたに呼ばれるまでは元気していたけれど、
そうね、ハインセルに来てからは気が滅入って仕方ないわ。
はやく森に戻って月光を浴びていたい気持ちで一杯ね」
ふん、と吐いた鼻息で言葉を締めた彼女は美しい銀の毛色をもつ狼だった。
彫りの深い目元の中、内面を見透かすような真っ直ぐな瞳がわたしたちを向き、それぞれの顔をながめると一拍を置いて、
「こんにちは、人の英雄ご一行様。
私はカナリア。〝王狼〟との盟約に従って動く、森の人狼のひとり。
先だってこの地へ訪れた私が調査し、知り得た、
今のハインセルの事情をあなた方にお教えしましょう。
まず第一にですが……。
私はハインセルからのいち早い離脱を強く勧めます。
東西南北、どこでも構いません。国を覆う山脈を越えてお逃げなさい」
「やけに焦って言うのね。それはどうして?」
アーデルロールが首を傾げて訊く。
疑問を放られたカナリアは、至極まじめな調子で答えた。
実に簡潔。最も分かりやすく、危険を感じる答えだった。
「純粋な人間がこの忌み地に20日以上を滞在すれば、
まず間違いなく死亡するから、と言えば理解していただけるでしょうか。
理由については道すがらにお話しましょう。では、今後ともどうぞよしなに」




