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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
七章『翡翠の道』
119/193

115. 亡国ハインセル


***


『王よ! ウルヴェイン王よ!』


 臣下の呼び声に私は面を上げず、玉座に座り込んだままでいた。

 悔悟が私の脚に絡まり、肘掛けにこの腕を縛り付けている。


 滅びの時がもう間もなく訪れるだろうことを予感した。

 それは王国の終わりであり、幾人もの王らが愛した、花弁と清流の国、美しきフロリアの終焉に他ならない。


『古き十三の獣、あの化け狼の子、金狼(きんろう)のガフが迫っております』

『将兵らは血肉の壁となって道を阻まんとしております。

 しかし彼奴(きゃつ)の恐ろしい爪はその一振りで百の兵を裂き、

 牡丹のごとくに赤い口は白亜の都を今にも飲み込まんばかり』

『王よ。巨人の血に連なる、偉大なるウルヴェイン王よ。

 どうかその祝福されし力を以て、

 大魔(たいま)の残滓、金狼(きんろう)のガフを討ち取り賜え』


 私は無言のままに騎士槍に触れた。

 霧を払う戦いに参じ、血霧とともに散った父王より継いだ、神代の槍。


 その柄を握りしめ、私は立つ。

 かつての私は王として先陣に立ち、勇猛の背を将兵らに見せてきた。

 

 玉座の間の大扉を巨大な何かが繰り返し叩いている。

 軋み、振動、悲鳴。

 やがて開いたわずかな隙間に私は見た。


 万の民の血肉に染まった赤い牙を。

 万の将兵の魂を呑んだ喉を。

 王たる私を射すくめる金の瞳を――。


***


 ぱちり、と火が弾ける音でわたしは目を覚ました。

 一番に目に入ったのは舞い散る火の子。

 

 適当な石で作った輪の中に炎が起こっている。

 時間の感覚がはっきりとしない。今は何時だろうか?

 そう思い、空へと視線をあげるとどんよりとした黒雲が立ち込めていた。

 

 星も月もまるで見えやしない、空の蓋のような曇天だった。

 と、面倒そうに薪を放り込んでいた男がその手を止めた。

 

「よう、お目覚めだな。どんけつおめでとさん」

「コール。もう起きていいの?」

「ギュスターヴのおっさんが回復魔法を使ってくれたからな。

 もうスプリントもマラソンもスクワットも何でも出来るぜ」


 良かった。そう言おうとすると左右から女の声がふたつ割り入る。

 

「料理は出来ないじゃない」

「要努力だねえ」

「ええい、てめえら。折角人が作ったってのに! そのスープ返しやがれ!」

「まあそう言うなよ。これはこれでウマいじゃねえか」


 旅の仲間の全員が焚火を囲んで車座に座り、湯気の立つスープをすすっている。

 話の向きから、今夜の食事当番はコルネリウスだったらしい。

 女性二名はぶー垂れているが、あぐらを掻いてなお小山のごとき背丈のギュスターヴは割合に満足のいく顏をしていた。

 

「冷えた体には丁度いい」

「マジか!? いやあ嬉しいぜ、俺!」

「おう。味のついた湯だと思えば上物だ」

「も、もうちょっとなんかねえの?」


 身を起こしつつ、わたしはぼんやりと状況を整理する。

〝精王〟の試練を終え、あの泉から順々に離脱した。わたしだけは最後にセレナディアと言葉を交え、やがてわたしも場を後にしたのを覚えている。


 それからいくつかの夢――記憶と呼ぶにはあまりにもおぼろげだ――を見て、こうして目を覚ました。

 

「ギュスターヴさんと合流出来て良かった。

 水龍に呑まれたままどこかへ消えてそれっきりだったので、

 もう再会出来ないかもしれないと思っていました」

「ん? ああ。それなんだがよ」


 ずず、と豪快な音を立てて汁を吸い、

 

「試練が終わるまでのあいだ、

 オレはあの水龍と二人でしばらく水の中で話してたんだ。

 頃合いを見て表へ放り出され、アルルたちと合流しただけさ」

「ずりぃぜ。こっちは危ない橋を渡りまくったってのによ」


「おいおい、オレだって覚悟はしてたんだぜ?

 なんせ相手は竜の上位種、本物の『()』だったんだからな。

 相当に身構えてたんだが、どうやら戦意は無く……違うな、彼は戦いに飽いていた。

 で、だ。

 戦いに時間を割くほど虚しいことも無いとか言ってやがったんで、

 お互いに情報交換をする形で語らったってだけの話さ」

 

「オッサンが居りゃあ、もっとあっさり勝負がついたに違いねえのになあ……」

「仕方ねえだろ? 

〝精王〟から『お前は要らん』と追い出されちゃ、

 さすがのオレでもどうにも出来ねえよ。

 そういや話は変わるんだがな――……泉から出た先の光景にゃあ驚いたぜ」

 

 突然に変わった話の先に疑問を覚え、わたしはくいと小首をかしげ、訊いた。

 

「出た先?」

「起きてみりゃ分かる。見てみろ」


 偉丈夫が顔に浮かべたどこかからかうような笑みを受け、わたしは立ち上がった。

 随分と疲労をしていたはずの身体だったが、足には不思議と力が入った。

 どうしてだろうか? ひょっとすれば、眠りこけているあいだにギュスターヴの回復魔法を受けていたのかもしれない。


「立てる? 手、貸そっか」


 差し出されたビヨンの手を礼とともに取り、そのまま数歩の距離を手を引かれ、歩いていく。

 少しをすると急勾配な下り坂の手前までやって来て、


 絶句した。


 視界の中に美しい巨大湖なんてものは最早無い。

 見えるのは、朽ち果てた竜の脊椎のように荒々しい山々と、それら天然の壁に囲まれた盆地。

 空には相も変わらず黒々とした暗雲が立ちこめていて、時折雲間に青や紫の光がまたたいていた。


 わたしの目が捉えた視界の中で、もっとも危険で、もっとも目を引くものは盆地にある。

 それは――霧だった。


 しかも薄もやなどでは断じてない、触れればずっしりとした感触を返してきそうなほどの重たい濃霧が盆地一帯に広がっていて、どころか目を凝らすと山々のあいだを抜けるように続き、遙か地平の果てまでもが霧の灰色に覆われていた。


 わたしは片手に掴んでいた毛布を握りしめ、ぽつりとつぶやいた。


「なんじゃ、こりゃ……」と。


 正真正銘、冗談抜きの本音である。


「まさか。マールウィンドは霧に沈んでしまったのか?

〝精王〟の泉から出る時に時間のズレはあるって聞いていたけど、

 こんなにズレる? 参ったな、もう間に合わないんじゃないか……これ」


 時間切れ。世界はとっくに霧の中。

 いやな想像ばかりが脳裏をよぎるわたしの胸中などいざ知らず。

 コルネリウスがスープをズズズ、と下品にすすりながらに横に立ち、


「最初見た時は面喰らうよな。俺もこれにはさすがにちょびっと驚いたぜ」

「ウソつけ。コールくん、『なんじゃこりゃあああ!?』って、

 飛び上がりながら驚いてたじゃん。うちは忘れないよ」

「おいやめろ、俺の威厳が損なわれたらどうすんだよ」

「コールくんのいげんって……なに?」

「純真無垢な顔で『それなあに?』って言うなよ! 俺だって傷つくんだぞ!?」

「いやだって分かんないし」


 ビヨンがコルネリウスから視線を外し、わたしをじっと見つめ、それから左手を伸ばすと眼下の霧の平原を指さし、言った。


「安心して、ここは連邦じゃないから」

「連邦じゃ……ない? まさか別大陸?

 はっ! まさかルヴェルタリアに!?」

「ううん。だったらもうめちゃめちゃ寒いじゃない。

 こんな格好だったらすぐさま雪だるまになっちゃうよ」

 

 賞味期限切れの携帯食料をポケットから取り出し、ぺりぺりと包装紙をめくりながらにビヨンが言う。

 

「実はね、うちら……<白霊泉>に戻るはずが、

 ものすご~~~~く遠いところに飛ばされちゃったんだ」

 

 ちょっと待ってほしい。この緊迫感の無さは一体なんだ? どうなっているんだ?


 眼下には途方もない濃霧が立ち込めている。規模から察するに、わたしたちの四方は霧に囲まれ、最悪、退路が失われている可能性さえある。

 

 これだけの霧だ。中に潜む魔物もおそらくは凶悪極まる、わたしの想像など置き去りにするとんでもない怪物がいるに違いない。

 

 呼んでもいないのに、まるで魔法の泉のように次々とイヤな想像が頭に湧いて浮かぶわたしがおかしいのだろうか?

 

 ビヨンは無味無臭の練り棒をむさぼり、コルネリウスはスープをすすり続けている。

 どうにも待ちきれず、痺れを切らしてしまったわたしはとうとう訊いた。

 

「ここはどこなのさ」と。

「ハインセルだ」


 答えを口にしたのはギュスターヴだった。のっそりと身を起こした彼は胸を張り、実に悠然とした態度で魔性の霧をにらむ。

 

「え? ハインセルって……あの亡国ですか?」

「おう」

「約20年前の大噴霧によって霧に沈んだ死の王国。

 父さんが<ミストフォール>の冒険に出た……あの?」

「まさしくそのハインセル王国よ。

 かつての黄金と栄華の都。

 この国に夜はなく、眠らぬ人々が酒と貨幣に酔う。

 懐かしきハインセル。霧に没した、今や停滞と廃滅の地さ……」

 

………………

…………

……


 ハインセルに強い土地勘を持つというギュスターヴによれば、わたしたちが腰を落ち着けているこの場は<鷹の羽冠>という名の、ハインセル領内において相当に標高の高い山の頂上付近だという話だった。

 

 黒い雲の中では雷鳴が繰り返しとどろき、霧の平原を挟んだ向かいの山肌に豪雨が降り落ちているのが見えた。


「しっかし、なんだってこんな離れた土地に飛ばされたんだかな。

 大平原や首都をぶち抜いて、よりにもよってあのハインセルだぜ」

 

 岩に背を預けてコルネリウスがぼやく。傷は塞がったものの体は未だ全快ではないらしく、筋トレでもしようとした彼をギュスターヴが力尽くで止めていた。

 とは言っても片手で押さえただけだったが。

 

 高所を渡る風を受け、その髪をたなびかせるアーデルロールが言う。

 二人目の〝霧払い〟の瞳は、暗雲をじっと見つめている。

 

「セレナディアの想定にない何かが起こったのかも知れないわ。

 とにかく、ここに来てしまった以上、

 あたしたちはどうにかしてハインセル領を抜ける必要があるわね」

「我が王女の言うとおりだな。

 南西に進めば<イヴニル連山>の裾野に出るはずだ。

 火の〝精王〟はそこに居るんだったな?」

「ええ。セレナディアは確かにそう言っていたわ」

「っつうと……この場所からは……」


 指先で輪を作り、遠眼鏡を覗くようにしてギュスターヴが唸る。


「歩き通しでおよそ7日で着く距離だな。

 出発は明日にしよう。今夜は全員よく休んどけ」

「了解だ!」とコルネリウス。

「分かりました」これはわたしで、

「あんた、どうしてこんなにハインセルの地理に詳しいわけ?」がアーデルロール。


 指の遠眼鏡を覗きこんだままでギュスターヴは言う。

 

「若い頃、ハインセル王国に20年ばかり滞在したことがあってな。

 その時にここらはすっかり歩き尽くしたもんで、大体は把握してんのさ。

 言うなりゃオレの庭だ。

 まあ……<ミストフォール>の騒乱でまるきり変容した場所も少なくねえが。

 それでも国を突っ切るだけなら造作もねえよ」

「ふーん。……じゃあ道案内はギュスターヴ、あんたに任せていいのね?」

「おう、大船に乗った気でいろ。

 試練じゃ何にも出来なかった分、オレの頼りになる部分を見せとかねえとな。

 しっかし――……」

 

 すっと振り返ったギュスターヴは呆れたようなため息を漏らし、その薄灰色の瞳をわたしとアーデルロールに交互にくれる。

 わたしの顏を見ているようで、その実どこか遠くを見るような目だ。

 

「何よ? 変な顔してあたしを見ないでよね」

「いっちょ前に胸を隠すんじゃねよ。

 色気なんざ微塵もねえんだ。やめとけやめとけ。見てるこっちが恥ずかしいぜ」

「あっああああんたねえ……! ぶ、ぶぶぶぶっ殺すわよ!?」

「まさか親子二代の面倒を見ることになるたあ思わなかった、と

 自分の運命に呆れてただけさ。まったく、どんな星のめぐりなんだか……」

 

 王女の拳を手の平でぱちぱちと受け止め、ギュスターヴはそう言った。

 じゃれつくようなスパーリングをしばらく見つめ、それからわたしは眼下に視線を落とす。

 

 濃霧の中から時折覗く、針山のような塔の群体。

 都市のように巨大な城や、堅牢な砦の数々。

 

 この土地に人間の気配はどこにも見当たらない。

 真性の廃都。

 

 国を守るべき騎士は死に、

 知識の守り人たる魔導士は絶え、

 継ぐべき王族は全員が喰われ、果ててしまった、終わった国だ。

 

 かつての災厄の地。

 かつての父が……英雄〝悪竜殺し〟が駆けた地。

 

 若き日のフレデリックの冒険を想像する内に、わたしは自分の剣の柄をぎゅっと握りしめていた。

 

 

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