113. 思い焦がれて
『あらゆる事象には光と影が在る。
焔が赤々と燃え上がるほどに影は濃く、深みを増していくのは世の条理。
大王の血を引き、〝聖剣〟を携えた雪の娘アーデルロール。
彼女の宿した緋色と希望を託された背。
あれは確かに光の継承者であると、この水の〝精王〟セレナディアは認めよう』
人の背丈よりもずっと高い水のつぼみに細い腰を掛け、青い脚を組みながらに女王は言った。
やや上向けた顏でわたしを見下ろす視線はやはり冷たい。
人間を越えた存在に似合いの、冷徹で、血のめぐりを感じさせない凍った視線だ。
『槍の男が示した勇気は英雄然としており、
魔法を操る女もまた仲間を見捨てぬ豊かな心を示した。
霧を払う旅の道連れには、実に相応しい勇者らである。
そう、かつての彼らのように……』
女王の意識が自分の過去に向いたように思えた。
彼女は視線を下向けたまま数秒押し黙った。
わたしを見つめていたのか、足元の水を見ていたのかは分からない。
『わらわが懸念を抱いたのは貴様の存在だ。
光の継承者が選んだ旅の仲間。
懐かしい剣筋を閃かせる王女の騎士。
そして影を継ぎ、幾多の声を引きずる男よ。
貴様の正体がわらわにはどうにも知れぬ』
「正体? 僕は――」
『人間だ、などと言ってくれるなよ? 笑い狂ってしまいそうだ』
せせらぎに似た細い音が聞こえた。女王の笑みだろうか?
『世界に揺れるマナの一筋を統括し、
見えざるを視るわらわには貴様の性質など見え透いている。
男よ、貴様は正しい命・正しい存在では無い。
――……虚無だ。
しかし、無数の人影を引きずり歩くとは。
よくぞまあ、足をもつれさせないものよな。
人として生き、人として生まれ、人として死んだ骸に巣食う貴様は何者だ?』
わたしは答えられなかった。
自分の過去を未だに知らないわたしに何を答えられよう?
掴んだ手掛かりと言えば、セリス・トラインナーグの名と〝ウル〟がわたしを指して呼んだ……ガリアンの名だ。
そよ風を肌で感じながら、わたしは拳を握り、セレナディアを見上げていた。
正統な血筋。正統な〝霧払い〟の剣。
二つの証を携え、おとずれたアーデルロールへと向けるセレナディアの言葉は厳しさの中に温かさを感じられたが、今は違う。
花弁の先から水を落とすつぼみに座った女王の言葉はひどく威圧的だった。
まるで縄張りに侵入した外敵を憎む獣。
だがその獣は飛びかかり、喉笛を食い破りはせず、言葉をもってわたしを見定めようとしている。
彼女は何かを確認しようとしている。
命を奪う冷たさではなく、どこか事務的なものを感じられた。
それはどこだろうか?
語調か。態度の端に演技を感じたのか?
分からない。気付きを追えない。
眉根を寄せるわたしをよそにして、女王の波の唇は緩やかに言葉をつむいでいく。
『わらわは貴様の眼にあの懐かしい緋を見た。
血統に現れる赤ではなく、真性の緋を。
あれなるはまさしく〝太陽の瞳の紋章〟の輝き。
霧の時代を生きたわらわが見間違えようはずもない、伝説にして再生の色だ。
……一瞬だ。ほんの一瞬、あの色を宿すお前を……大王の名で呼びかけた。
だがそうはせなんだ。何故か分かるか?』
わたしは自分の腕に視線を落とした。
記憶を振り返った先にある大きな違和感。
――左腕にまとわりついたあの薄いもやだ。
触手のように揺れる端、風に散り、やがて集う白いもや。
見間違えようもない。あれは――……、
「……霧、ですか?」
『そうだ』
女王は満足そうに小さくうなずいた。
『お前の中には二つの巨大な気配が見える。
一方は世界をあまねく照らす太陽。
もう一方は暗黒。深淵の淵より白い霧をのぞかせる、おぞましき悪よ。
今一度問おう、男よ。貴様は何者だ?』
「僕は……」
誰なんだ?
本当にガリアン・ルヴェルタリアだとでも言うのか?
冗談にも程がある。
我こそはガリアン王だ! そう名乗る輩は古今東西、無数に居たし、ひとつの例外も無く世間の鼻つまみ者――あるいはイカレ――となった。わたしはそうなるつもりは毛頭ない。
仮にそうだとして、そう、思い出すのはギュスターヴの言葉だ。
わたしはガリアン王の〝聖剣〟を握った折にひどい火傷を負った。
自分の帯剣を持てない英雄など居るだろうか? まったく納得が出来ない。
真実を知るのは……〝ウル〟だろうか。
あの男の言葉を信用出来る根拠など何ひとつもない。
イルミナの言葉の通りに奴は狂い、妄言を吐いただけの可能性は相当に高い。
わたしは言葉に詰まり、考えた。
そういえば、と。
この〝精王〟の地でわたしはわたしの過去を知るだろう、と……誰かが……、
『――審判の時だ。出でよ、偉大なる睡蓮の王らよ』
外界へと繋がるという光の渦が消え、代わりにさざ波が立ちはじめた。
小鳥が飛び去るようなわずかな地響きの後、しばし遅れて水面にいくつもの水柱が噴き上がった。
勢いを失した頂上部から水のきらめきをこぼし、水柱が形を変えていく。
腕が生じ、足が伸び、白波は甲冑へと変じ、騎士の姿を象っていった。
やがて現われたのは水の騎士たちだ。
彼らはわたしを囲むように円陣を作り、水の剣を突きたてた。
物言わぬ檻。まるで罪人を処断する刑場だ。
『彼らは古く遠い時に眠った、偉大なるフロリアの王。
山脈に水路を築き、水底を墓所とし、国の守護者となった英雄。
男よ。
これより貴様の魂をわらわが見定める。
汝が掴むは生か、死か。
汝の魂魄は人か、魔か。
己の言にて運命を掴むが良い』
………………
…………
……
『貴様は誰だ?』
「ユリウス・フォンクラッド。マールウィンドの騎士、フレデリックの息子です」
『ユリウス?……因果だな。
もう一度問おう。貴様は誰だ。
肉体の名ではない。聞きたいのは魂の名だ』
知らないものを……思い出せないものをどう答えろというのか。
周りに立つ王らの視線はうかがえない。
ウルヴェインがそうだったように無機質だった。
一方で女王の視線はよく分かる。
彼女は玉座の上で前のめりになり、曲げた指先の上にあごを置き、じっとわたしを見るセレナディアの視線は心の内側を見透かすようだ。
「……分かりません」
わたしはどうにも言えず、正直に答えた。
『ガリアン・ルヴェルタリアの名に聞き覚えは?』
「――……」
炎のイメージをともなって〝ウル〟の言葉が脳裏によみがえる。
「〝霧払い〟としてならば」
『踏み込もうか。貴様、ガリアンと呼ばれた事は?』
何故分かったんだ? 動揺が読まれたのか?
「一度だけ」
『ふん……』
女王が指先で自身の頬をかいた。
次いで質問の向きが変わる。
『ウルヴェイン王との決戦に際し、立ち上がった貴様が見せた霧の腕。
あれは何だ? 貴様はあれをどこで得た?』
「分かりません。……〝紋章〟を使った……だけです」
『過去に死んだ経験は?』
「……? 僕は死んだことなんて、一度も――、」
『〝精王〟を前に偽りは効かぬ。
死した事がない、か。なるほど。
そうだと言うのであらば、貴様の胸に穿たれたその傷跡は何と説明する』
女王がつい、と花弁の玉座を降り、ぴんと立てたつま先で水面に降り立つ。
一歩を進むたびに静かな波紋が円状に広がり、泉の端で消えていく。
わたしの前に立ったセレナディア王は小柄な少女ほどの大きさだった。
彼女は指先をわたしの胸に添え、そっと横一文字になぞった。
目線を逸らし、わたしは言う。
「……分かりません」
『では言おう。
お前はユリウス・フォンクラッドではない。
死した肉体に宿った影、亡霊の類である』
女王が示した真実を前にし、受けた衝撃は思ったほどそう大きくはなかった。
始まりの霧の日、わたしは自分が自分ではないことを既に自覚をしていたからだ。
だが……だが、『ユリウス』という枠に自分をはめ、日々を送っていたことは疑いようがなく、弁明もできない。
本来あっただろうユリウス少年の人生を奪い、侵し、生きているのがわたしという男だからだ。
胸の内に秘めつづけた真実を打ち明けた時、アーデルロールは言った。
自分が知っているのは、自分が出会ってからのユリウスという男なのだと。
この身体で目覚め、生きてきたわたしを彼女は――いや、周囲の人々は見てくれていたのだ。
これほど嬉しいことがあるだろうか?
彼女の緋色の瞳を思い出すと、何故だか泣けてきた。
目元が熱くなるのをこらえ、代わりに拳をきつく握った。
『……貴様、以前にガリアンの名で呼ばれたそうだな。
相手は誰だ。誰がそう呼んだ』
炎の記憶がよみがえる。怒りがちらり、とむらついた。
「当代の〝ウル〟。ルヴェルタリアを斬った裏切りの騎士。……故郷の仇です」
『そうか。…………』
わたしを見上げつづけていたセレナディアは不意に空へと視線をやった。
彼女の目を追うと、そこにはやはり奇妙な空がある。
朝と昼、夕暮れが交わっている。一日をひとつの空に閉じ込め、溶かしたようだ。
『――……お前は自分の内側というものを知らぬままに歩んだのだな。
いいや、断片は与えられてきたのだろう。だが欠片は欠片。
嵌めるべき枠は無く、ただ手元に握り続けていただけだ。……虚しい話だ』
指の間を風が流れ、足元を水がさらっていく。
今この時になって初めて、この場がとても落ち着く、静かな場なのだと気が付いた。
輝かしい過去のある日、
この木陰のどこかに腰を落ち着け、せせらぎに耳を澄ましていたような――。
『わらわがお前にひとつ、真実を告げよう。
これは元より我らと大王とのあいだに結ばれた契約である。
――お前の内側にはガリアン・ルヴェルタリアの魂が確かにある。
だがそれは完全な形ではない。
力は欠落し、記憶の糸はほどけ、もはや存在の芯しか残っておらぬ。
しかしガリアンであることは疑いない。
故に、貴様の瞳には太陽が宿っているのだから。
セリス・トラインナーグの影が傍に立つのも――……確かな証だろう』
語る言葉の音が変わっていた。
突き刺す短剣のごとき鋭さはなく、足元の水のように穏やかだ。
『わらわが解せんのは貴様が見せた霧の腕よ。
あれは……まさしく〝霧の大魔〟の業だ。
ガリアン王が今際の際に何をした?
お前は本当に知らぬのだろう。
手元に断片を握っているにせよ、読めぬのならば意味は無い。
……ガリアン……。
あの男が仮に悪神との契約を交わしたのであらば……。
霧の業を宿す貴様を外界へと戻すわけにはいかぬ』
「戻すわけには……? どういう意味ですか?」
水の瞳が足元を向き、やがて再びわたしを見上げた。
まっすぐに向く視線は何かを決意をしたような強さだ。
『我ら十三の王はルヴェリアの楔にして盾。害なす芽は摘まねばならぬ』
しぶきの音が聞こえ、周囲を見ると水の騎士王らが剣を高々と掲げていた。
彼らの首はその全てがわたしを向き、処刑人じみた気配が一層強まる。
彼らの剣がわたしに振り下ろされるか、納められるかはセレナディアの言葉次第。
生殺与奪の権利を握る彼女はわたしを見上げ、言う。
『問おう。大王の影を宿す男よ。
貴様はその生で何を成すのだ?
道の先にどのような世を望む?
貴様は善か、悪か。――……答えよ』
「僕は……人生に色を、見たいんです」
『色を?』
「……今の僕は霧の中で始まりました。
霧はひどく虚ろです。音は止まり、風は止み、光も微かなものでした。
目覚めたばかりの僕は色を知らなかった。
心が覚えていたのは、ただ何も無い荒野を歩き続けていたような寂しさだけ」
始まりの霧の日。
わたしの手を引く父の背中。
青空の下の故郷。
丘を駆ける子供たち。
オレンジ色の魔法灯の下で眠りこける妹と、そっと毛布をかける母の横顔。
霧の中で出会った牛頭の怪物。
必死に振った剣。生を感じた剣。
北の王女。洞窟の虚無。死の淵の女。
晴れの丘。
雨の山。
夕暮れの森。
夜空を映す水たまり。
『あたしの事を忘れたら承知しないからね』
あの日に見た朝焼けの色の瞳は溜息が出るほどに美しかった。
「今の僕は色を知りました。
人生の色彩です。
これは儚く、美しく、かけがえのないものです。
人は時に歌を歌い、時に勇気を示し、嘆き、恐ろしい暴力に魂を染める。
ですがそれら全ては人を――世界を世界たらしめる色です。
僕はこの世界をもっと見たい。
この世界で生きていたいと願っています。
セレナディア女王陛下、あなたは僕を善か悪かと問いました。
その問いに答えましょう。
僕は――善を成します。
アーデルロールと共に正道を往き、世を蝕む霧を払う。
この身に宿る太陽に……僕は誓います」
………………
…………
……
わたしが語る間中、女王は口を引き結び、じっとわたしを見つめたままだった。
彼女はやがて右手を外へと向けてさっと払い、周囲の騎士王らを水に帰した。
『……ガリアン……』
そっと。
蚊の鳴くような小さな声で彼女が言葉をこぼす。
ちゃぷ、ちゃぷ、と水面に波紋を浮かべ、歩み寄った彼女はそのひんやりとした水の指先で、わたしのあごをそっと撫で、白波の爪先を添えた。
かつて人であり、人の枠を越えた超常の王。
両の瞳をかたどり、揺れる、二つの青い瞳がわたしをじっと見つめている。
その顔は毅然とした女王のそれと思うには程遠く、まるで恋に焦がれ、宵闇の空に思い人を空想する乙女のようだった。
唇がつむぐ言葉も表情に引きずられるように変じていて、わたしの耳のすぐそばで蠱惑的な声がささやかれた。
ただ一度だけの迷い。ただ一度だけの言葉。
この為に自分は永きを生きたのだと。そんな内心をにじませた声だ。
そうでなくては……こんなにも切ない女の声は発せないだろう。
『――……ねえ、ガリアン。
あなたは本当に忘れてしまったの?
貴方の過去は霧に沈み、消えてしまったの……?
私が人でいた頃、旅立つ貴方が手送ってくれた
鮮やかな青い睡蓮の花や、色とりどりの花冠のことも覚えていないの?
それとも――あなたは荷を背負わせた人間のことが、やっぱり――……』
触れていいものか、迷った。
伸ばそうとした指をしかし抑え、あごを少し下向け、言う。
「女王陛下。
僕は……あなたのことをほとんど知りません。
ただ、古くより伝えられる伝説の女王だということだけです。
けれど……僕の知らない声が心の奥底で響いています。
それが僕の無意識の声か、
あなたとあの裏切りの騎士が呼ぶガリアン王の声かは分かりませんが……」
『どのような声が聞こえる?どうかわらわに――』
「――……『セレナディア』、と」
女王を満たすには、名を呼ぶその一言で十分だった。
水の肉体をもつ彼女の色味に変化は無いが、これが人の身体だったのなら、きっと頬は赤く染まっていたに違いない。
彼女はあからさまに狼狽をし、ぎゅっと一文字に結んだ唇の中で言葉を転がした。
きっと自分の名を呼んでいるのだろう。
一方、思い焦がれる彼女を見つめるわたしの心中には罪悪感があった。
嘘を吐いた後ろめたさだ。
……心の声は確かに聞こえた。
不意に聞こえる影の声。あれは彼女を――セレナディアを指し、こう言ったのだ。
『すがることしか知らぬ下衆めが』、と。
ひどい憎悪を言えるわけもない。わたしが彼女に伝えたのはあからさまな嘘だ。
ややあって顏をあげたセレナディアは口元をほころばせ、目を細めて、
『ありがとう』
と、乙女の顏でそう言った。
それを見るわたしは……どんな顏をしていただろうか。




