110. 兄貴分
………………
…………
……
やらせねえ。
絶対にそいつだけはやらせねえ!
コルネリウスが泉を矢のように駆ける。
全速力で走っているにも関わらず、一歩があまりにも遅く感じられてもどかしく、どうにかなりそうだ。
目の前でユリウスの盾が突き破られ、それどころか左腕が使い物にならなくなるような大きなダメージを負い、今まさに脳天に槍を突きたてられようとしている。
ビヨンの魔法での妨害では間に合わない。
アーデルロールの距離もわずかに遠い。
もっとも近いのは自分だ。……俺だけだ。
槍の柄を握りしめる右手に力が入る。
出来る限りならこいつを投擲をして、あのデカブツの槍を弾き飛ばしてやりたかった。
そうするのが最も速い。だがあまりにも不確実な手段なのも分かっている。
どうする、どうする、どうする!?
コルネリウスの頭の中に直感的な戦術がいくつも瞬いた。
師であるフレデリックからの教え、ユリウスと越えてきた戦いの経験から思い浮かぶ手段の数々。
ダメだ。状況を変えるには足りない。
無力感に呑まれないようにコルネリウスは走る。
焦燥感を振り切るようにして槍使いの青年は稲妻のように疾走する。
「こっっっの野郎がああああっ!」
獣染みた戦意とともに場に飛び込み、足元を踏み切ると同時に前方へと鋭く槍を突きだす。
水に濡れた穂先が狙うは友を殺さんとする騎士王の槍。
届け、届け――!
石槍の表面をコルネリウスの槍の刃が鉄を鳴らして舐めていく。
けれど人間離れをした膂力のウルヴェインが放つ攻撃を完全に止めることは出来ず、結果としてユリウスを狙う槍を止めることはできなかった。
だが軌道は逸らした。
ぼろ雑巾のように消耗したユリウスの耳上を殺意の槍は通過し、その先端は泉の底へと深々と突き刺さっている。
仕留められたはずの獲物を逃がした。
ウルヴェインの背中から立ち昇る殺意は目に見えるのではないかと思えるほどに凄まじく、背筋にぞっとする恐怖を感じながらもコルネリウスは足を止めなかった。
彼が真っ先に気に掛けるべきは傷を負った弟分だからだ。
「しっかりしろ、相棒っ!」
「っぐ……」
声をかけるが黒髪の友は自力で起き上がれそうもなかった。
ちらと見ただけで左腕を穿つ傷跡はすさまじく大きく、盾に開いた風穴から見るに、傷の様子は想像するだけでも痛々しい。
間違いなく骨ごと大きく破壊されている。今すぐに処置をしなくては……。
「痛むだろうが許せよ……!」
上半身をひねりながらに繰り出される騎士王の裏拳を身のこなしで躱し、倒れたままのユリウスの首根っこを彼は引っ掴んだ。
脱力した戦士の肉体ほど重いものはそうそう無い。
コルネリウスは体の捻り、バネを使い、あらん限りの力を総動員して後方へとユリウスをぶん投げた。
どこに落ちたかまでは確認しない。見送れるヒマなんてどこにも無い。
すぐさまに視線を敵対者へと向けると石槍が自分を向くところだった。
全身の毛が粟立ち、汗が噴き出す。
死が目の前にある。
自分は今、死と生の境に立っているのだ。
目を見開き、生命に祈り、すがる。
ぼぼっ、と大気を裂いて繰り出される刺突を躱し、いなし、コルネリウスは一瞬を生き延びていく。
自らの技で命をつなぐ。
自分には優れた技術も魔法の技もない。
この身だけが身を助く盾であり矛なのだ。
途端、ウルヴェインの背中で大きな斬撃音がした。
灰色の肉体越しに若草色の髪がちらりと見え、続けて斬撃の音が連続して耳を打つ。
次いで「くったばりなさいよおおっ!」という少女らしからぬ苛烈な叫び。
アーデルロールが憤り、石火の攻撃を仕掛けているのだ。
彼女の剣は風の魔力に覆われていて、剣それ自体がおおきく伸長していた。
特に左手に握った短剣がまとう魔力の刃は長く、もはや長剣と何ら変わりがない。
重量を持たない魔力形成の剣。
アーデルロールがひとつ、ふたつと斬撃を繰り出すたびに騎士王の背中から肉断ちの音が聞こえた。
と、不意に違和感に気が付いた。
あまりにも遅い。遅すぎた気付きだ。
「待てよ……、どうして血が出てねえんだ……?」
騎士王の体から噴き出すのは赤黒い血液ではなく、灰色の混じる水しぶきだけだ。
戦いを振り返れば……そうだ、首を落とした時にも血は流れていなかった。
「……今更だが人間じゃねえんだな。へっ……!」
思考が瞬く中で槍を振るい、ウルヴェインへと苛烈な攻撃を仕掛け続ける。
しかし効果は薄い。
当初は全ての攻撃に反応を示し、時には体をよろめかせたりもしていたものだが、今では痛覚を失ったかのように攻撃を受ける中で反撃を堂々と打ってきていた。
唯一通じるのはビヨンの魔法による重い一撃ぐらいのものだ。
通常の武器では蚊が刺した程度のダメージしか与えられない。
「っくそっ! やりづれえったらねえな!」
攻めて、受けて、反撃に転じる。
戦闘における攻守というものがこの騎士王には無かった。
肉を断たせて骨を斬る、なる言葉が世にはあるが、今の相手はまさしくそれを地でいっている。
反則だ、と苛立つが口にしたところで意味は無い。
アーデルロールとコルネリウス、そして遠距離に立つビヨンの魔法攻撃。
3対1にも関わらず、戦況は悪化の一途をたどっていく。
槍を回し、攻撃をいなす。まばたきをする一瞬の隙さえもなく、額を流れる汗が目に入るのをわずらわしく感じる中でコルネリウスは考える。
ユリウスが再起するまでどれだけかかる?
これまで何度かあった苦境を乗り越える切っ掛けになったのは、いつもあいつだった。
単身で〝ウル〟に立ち向かい、霧が現われれば自分が知らない内に一人で魔物を殺している無二の友。
普段のボケッとした面構えからは考えられないほどの勇気と剣を示すユリウスは、コルネリウスにしてみれば心の支えであり信頼出来る男であった。
この状況を打破するにはあいつの存在が必要不可欠だと直感する。
殺意の槍が迫る今、後ろを振り向くことは叶わない。
だが想像はつく。泉に倒れ、意識を失っているのだろう。
介抱が必要だった。
回復の薬品や気つけ薬を所持しているのはビヨンだ。彼女をユリウスのもとに向かわせる必要がある。
だが――、
「いっ……! てえな、この野郎がっ……!」
ビヨンの放つ火球や雷撃の威力は高く、直撃の衝撃は騎士王ウルヴェインの苛烈な攻撃の勢いを一瞬だが止める、あるいは緩めるものがある。
実際の話、コルネリウスはその一瞬の空白のおかげで思考を進めることが出来ている。ここでビヨンを行かせれば、正真正銘、絶え間のない攻撃の嵐を自分は受け止めねばならない。
ちらり、とアーデルロールに目を向ける。
「はっ、はっ……! こん、のお……っ!」
「息切れだな、あいつ……!」
風の魔力を噴かせ、宙や地上を縦横無尽に駆け走るアーデルロールだが、その顔には汗がいくつも浮かび、寄った眉根はひどく苦しげだった。
顏も拭わずに電光石火の攻撃を続ける彼女の顔色は青ざめていた。
その原因に心当たりはある。
「――魔力切れっ……おい、アルルッ!」
槍をいなし、這うような低姿勢から上段方向を思い切りに斬りつけながらにコルネリウスが叫ぶ。
穂先は騎士王の石槍をしたたかに打ち、彼の手元から槍を弾くほどだった。
渾身の一撃。残る体力を振り絞る打撃だ。
やや離れた場所へと落ちた槍を掴みにウルヴェインがステップで場を離れていく。
疲労した顏のコルネリウスは奴の戦線復帰までの時間を考えた。
大柄な体躯の歩幅、そう遠くはない距離。数秒も待たずに戻ってくるに違いない。
……。けっ……。
ヒュッ、と風によく似た細い音を立ててアーデルロールがコルネリウスの傍へと戻った。やはり顏は青ざめている。このまま戦闘を続ければ卒倒してしまうに違いない。
「はっ……ぜっ、ぜっ……何よ……」
「時間がねえ、文句言わずに聞いてくれ」
――騎士王が石槍を取り戻した。
「お前は下がってユリウスが復帰するまで回復してろ」
「イヤね」
脂汗を浮かせているというのに、アーデルロールは生意気な言葉を返す。
この女は昔っからこうだ。
北に戻っても負けず嫌いの性格はどうにも出来なかったらしい。
「ぶっ倒れられても困るんだよ!」
――感情の無い顏が……いや、違う。
今なら分かる。あれは言うなれば『仮面』だ。
騎士王ウルヴェインの内側には敵意や戦意の類が嵐のように渦巻いている。
自分が受けた攻撃の筋は次第に荒くなり、感情があるのが確かに見えた。
奴がこちらを向く。もう時間は残されていない。
「野郎を倒すには全員が揃う必要がある。
ユリウスも、お前も必要不可欠なんだ。
出来る限り俺が時間を稼ぐ。お前は後ろに引っ込んでろ、いいな!」
「バカ言うんじゃないわよ!? あんたが一人でどうにか出来るわけ――」
王女が叫んだ時にはコルネリウスは既に駆けだしていた。
槍の穂先はあちこちが欠け、使い手の男もまたひどく疲弊している。
だが、それでも、
「――男にはやらなきゃいけねえ時があんだよっ!」
………………
…………
……
一歩を蹴り走るたびに冗談みたいな水しぶきを立ててウルヴェインが轟然と迫る。
アーデルロールがちゃんと戻ったかを目で確認してはいないが、ああまで言ったうえで言うことを聞かないんなら、もうどうしようもない。
あいつも……バカじゃないんだ、きっちり下がっているだろうよ。
自分よりも大きく、自分よりも強く、遥かに英雄然とした相手――騎士王。
伝説を前にしての恐れが加速度的に醒めていく。
疾走の先に立つコルネリウスが手元の槍をくるりと回し、自嘲の笑いをこぼす。
「へっ……。この背中を見られてんならヘマは打てねえよな。
見てろよ、相棒。……フレデリックさんに俺は誓ったんだ。
お前を守る。何があろうとも! 俺は! お前の横に立ち続けるってよ!」
石槍を持つ腕が引き、一瞬後にはこの身を貫かんと迫った。
打ち寄せる気迫の圧力に髪が後ろへと流れ、汗が吹き飛ぶのが分かる。
行動! 対処!
そんなもん、いちいち考えてちゃあ何度死んでも足りやしねえ!
直感に身を任せ、本能に己の全てを賭し、コルネリウス・ヴィッケバインは単騎で狼討ちを迎え撃った。
回避のたびに全身が軋んでいく。
かすり傷じゃすまない傷が段々と体に刻まれていく。
「――攻撃に効果はねえ。後ろがどうなってんのかは分からねえ……!」
今は耐える、耐える、耐える! 生き延びる!
地を這うような低姿勢をとり、半ば転がるようにして石槍の刺突を躱す。
自分の足が直前まであった場所へと槍が打ち込まれ、暴力的な音が耳に届くたびに自分が生と死の境にいるのだと否応なく理解させられる。
……アーデルロールが下がってから何分経った。
ユリウスが重傷を負い、倒れてからどれだけが経った。
俺はこの死線にまだ居るよな。
呼吸さえもを忘れるような絶戦の中、雷の魔法が横一直線にほとばしるのをコルネリウスは見た。
ビヨンが杖を水平に持ち、魔法による連続攻撃を狙っている。
何やってんだ、相棒のとこに行け!
そう叫ぼうとして声が出ないことに気付く。
喉が渇きすぎたのか、緊張で強張ったのか。
「紫電の光矢、青の閃きよ、疾れ! 雷の第二階位、《シャックルボルト》!」
魔法使いの言葉に結ばれた魔力が現象と成り、騎士王の体に三発が着弾する。
だがウルヴェインは怯まない。槍による猛攻は止まらず、依然としてコルネリウスを襲い続けている。
一撃、また一撃と槍で受け止めるたびに柄が軋むのが分かる。
重質量の攻撃を受け続け、ヒビが入っているのだ。
――……そう長くはもたない。次の瞬間にも槍は砕けてしまうかもしれなかった。
だが、
「退けねえ……!」
石槍の刺突が槍の柄をついに捉え、へし折った。
宙を舞う穂先が泉に落着する前にコルネリウスは確かに掴み、まるでナイフのように握り、騎士王へと向ける。
遠くからビヨンの悲鳴が聞こえた。
そんな心配は要らねえ。俺はここでは死なねえ!
何故なら――、
「俺はっ! ユリウスの兄貴分で! 仲間だからだっ!」
こんな中途半端で終われるもんかよ!
へし折れた柄を握ったコルネリウスが水面を低姿勢で転がり、ウルヴェインの刺突を躱す。
が、左足の蹴りを横腹に喰らい、吹き飛ばされ、もんどりを打って泉に落着した。
かつてない痛みに視界が白熱して失われ、復帰し、世界がおぼろげになる。
口の中の不快感――血反吐――を吐き捨て、ふらつく体でどうにか立ち、空いた片手の指先を揺らし、男は騎士王を招いた。
「――きやがれ。俺はまだ死んでねえぞ」
挑発を受けたウルヴェインの肉薄は速く、繰り出される槍の攻撃は鋭い。
刺突を皮一枚のぎりぎりで避けるが、次いで放たれた拳の一撃がコルネリウスの腹を捉え、長身を宙に浮かす。
「コールくんっっ!」
あまり聞きたくない声だった。ビヨンにこんな声を出させたくはなかった。
肩から泉に落ち、痛みにあえぐ。
ここでは止まれない。浅い水底の泥を握り、ろくに力の入らない脚を叱咤して起き上がる。
どっ、とウルヴェインの刺突がついにコルネリウスの体を捉えた。
穂先が右脚を貫き、一瞬後には左脚。
コルネリウスは悲鳴をあげず、ただ奥歯を割れんばかりに噛み締め、耐えた。
自分のみっともねえところは意地でも見せねえ。
情けねえ声は死んでもあげねえ。
相棒に見られたら、兄貴面がもう出来なくなっちまうからな。
再び体を蹴り転がされ、両の腿から流れる血が泉の水と溶け合っていく。
ウルヴェインの足がコルネリウスの胸を潰すように乗せられた。
肺に残ったわずかな空気が無理矢理に押し出され、視界が白んでいく。
石槍の先端が俺を向く。
嘘だろ。これで終わり……そんなわけがねえ。
「俺は……っぐ、……賭けた……ぜ……」
魔法が次々に飛来するのが見える。だが効果は無い。騎士王の槍は止まらない。
「絶対に……どうにか、なるってよ……!」
野郎の手元がブレ、槍が振り下ろされた。
コルネリウスという男は信じつづけた。勝利を信じ、友を信じ、運命を信じた。
………………
…………
……
「――やらせるかってええのおおっ!」
若草色の風が飛び込み、火花が瞬いた。アーデルロールが場に割り入り、男へのトドメを阻害したのだ。
友がみすみす殺されるのを見ていられようはずがなかった。彼女はそういう女だとコルネリウスは分かっていた。
だが彼女の体調に気付き、コルネリウスが初めて悔しさから言葉を吐く。
「バカ野郎……!」
アーデルロールの調子はまるで戻っちゃいなかった。
本来は四肢に纏うはずの風は右手ひとつにしか無く、顏はよりひどく青ざめていたからだ。
疲弊した彼女の背には「見てらんなかったのよ」とでも言うように白い外套がたなびいている。
「こっ、んっ、のおおお……っ、っ!」
アーデルロールの長剣が欠け、短剣にヒビが走る。
ろくに起き上がれないコルネリウスの目の前で王女が顏を横向け、口元に薄らと笑みを浮かべ、唇がわずかに動いた。
音はあったのか、それとも無かったのか。
分からない。
だがそれでも何を言っているかは分かった。
ごめんね。
「アルルッッ!!」
叫びと同時に王女の両の剣が割り砕けた。
がしゃり、と甲高い音が響く。ビヨンの叫びが聞こえる。ついでに走る音も。
攻撃を受け切れなかった衝撃でアーデルロールが姿勢を崩し、その隙を思い切りに殴られ、華奢な背中が吹き飛んでいく。
「――……」
振りかぶられた騎士王の石槍。狼討ちの象徴。
鋭い穂先を素手で掴み、止める男の姿があった。
「……おま、え……。
はっ、遅いぜ、おい……」
水に濡れた黒い髪。
出血からどす黒く変色した左腕。
強い殺気を放ち、立つ男はユリウス・フォンクラッド。
〝紋章〟を発動した証――緋色の炎を両の瞳に灯した彼の左手には、霧に似た薄いもやがまとわりついていた。




