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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
七章『翡翠の道』
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106. 清らかな夢へ


 目の前の言葉にどれほど考えこんでいたのだろう。

 夜更けに沈思するような永遠にも感じ、流星を視線で追う一瞬の出来事にも思えた。

 

 霧に願いし者。

 とても短い言葉。


 どうしてか、ひどく懐かしい呼び名だった。

 それは白い壁に彫り込まれた言葉を指で撫で、正体の見えぬ感傷に浸りたい衝動に駆られるほどにわたしの心の色を震わせた。

 

 幼い日。ある晴れた春の日に丘の上で駆けた瞬間を友と語らうような懐かしさがあった。もう戻れぬ過去に思いを馳せる一抹の寂しさだ。

 

 だが……穏やかな感情とは別に、わたしの腹の内で黒い塊が身じろぎする不快感をも感じる。

 これは――怒りだ。

 明確な憎悪がおおきな蛇となり、身の内を這いまわるおぞましさが腹の奥底でわたしを苛む。

 

『霧に祝福の意味は無い。

 霧とは罪、そして呪い。

 唾棄すべき悪に願った男がかつて居た』

 

 心の暗がりに棲む影がささやいた。

 細いその声は壁に語りかけるようでいて、特に返事を求めてのものではない。

 時折、なんの前触れもなくわたしの心の中で首をもたげ、ぶつぶつと独り言を口にするこの影は何なのだ?

 

 こちらの問いにも答えず、またその姿を明確に晒すことはない。

 杖を突いたくたびれた老人。山羊を連れた女。闇を引きずる影。

 

 思い返せばわたしの内面にはいくつもの人影がある。

 彼らの名はひとつとして分からず、その顔も夏の逆光の中に立つようにおぼろげだ。

 

 ただひとつ確かなことは、彼らは現れるたびにわたしの心にさざ波を立てていく。

 そう、それは今も――……。

 



「――……大丈夫? 具合でも悪いの?」


 おもむろに顏を横向けさせられ、驚くわたしの目の前にアーデルロールの顏がぬっと現われた。若草色の髪の下に据えられた緋色の瞳がわたしを射抜く。

 

 吊り上った目尻。わずかな半目。

 一目で勝気な印象を与える彼女の端正な顔。

 知らぬ者が見れば冷たく突き放す視線だが、わたしにはアーデルロールの中にある心遣いと優しい感情がよく見えた。

 

 あご先をつまむ指先の感触はやわらかい。

 わたしはひどく気恥ずかしい思いになり、そっと身を引くと彼女の指から逃れた。

 

「ちょっと――」わたしは言い訳の言葉を探した。

「遺跡が気になってね。こんなに綺麗なのはあまり見たことがないから」

「そうかあ? 俺らが入った塔にもやけに小奇麗な場所はいくつもあったろ?」


 槍を担ぎ、背筋を伸ばしながらにコルネリウスが言葉を継いだ。

 彼が言っているのは<夕見の塔>のことだろう。

 鏡のように磨き上げられたフロアは記憶に新しい。そういえばあそこで力なく倒れていた大勢の人間たちはどうなったのだろう?……考えるだけ無駄なことかな。

 

「それで、ギュスターヴ。ここからどうすればいいと思う?

 見たところ〝精王〟を呼ぶ鈴みたいなものは用意されていないけど」

「そりゃそうだろうが。表札を掲げてるわけでもなし。

 誰でも謁見出来るんなら、今日日(きょうび)〝精王〟の実在について、

 学者連中が顏を突き合わせて言葉で殴り合ってねえわな」

 

〝王狼〟がずしりずしりと重い足音を引いて歩き、祠の最奥――碑文の刻まれた壁へと寄る。

彼は新聞のコラムでも眺める気楽さで実にあっさりと古代の言葉を読み解いた。

 常人の倍以上も生きた男ならではの深い知識の賜物だろう。

 だがそのギュスターヴでさえも、壁に彫られた霧に願いし者についての短文にはついぞ気が付かなかった。

 

 鋭い薄灰色の瞳で壁面をさらうように見つめた彼が見落とすだろうか?

 そんなはずはない、とわたしは内心に感じた。

 

 観光地の落書きならばいざ知らず、古い王国に由縁のある祠の壁面に刻まれた言葉だ。意味はともかくとして、調査に赴いた人間であれば誰しもが一時は重視する。

 

 しかしギュスターヴはそうしない。気付いていない。

 ならば……幻視の類なのだろうとわたしは自分を納得させた。

 

 あごに指を添えて考え込むわたしをどう思ったか。

 アーデルロールがおもむろにこちらの手を取り、立ちあがらせた。

 

「しゃんとしなさいよね」


 姉が弟に口を尖らせて叱責する声によく似ていた。


「あ、ああ。ごめん」

「……なるほどな。ここが〝精王〟の場所へと続く扉で間違いないはずだ」

「扉っても、ギュスターヴのおっさんよ。

 そんなもんどこにも無いぜ。祠ん中は真っ白い壁があるだけじゃねえか。

 あるいはこの台座に何か嵌めるのか?」

「いいや」と、ギュスターヴが王女へと顏を向ける。


 彼の鋭い眼光はアーデルロールの……彼女の腰に下げられた〝聖剣〟を見ていた。


「アルル。〝聖剣〟をこの碑文に向けて掲げてくれ。

 オレの読みが正しけりゃあ何かしらの反応があるはずだ」

「分かったわ」


 王女はうなずき、鎖に巻かれたままの〝聖剣〟を片手に握った。

 壁へと向く……かと思いきや、彼女は一度ギュスターヴを振り返り、

 

「ひとつ聞きたいんだけど、さ。

 仮に〝精王〟へ至る道が開いたとして……そこであたしたちを待っているのは何?」

「それって……どういう意味?」


 ビヨンが首をかしげた。

 片手にスケッチブックを抱えていて、どうやら旅の習慣としてのスケッチメモを行っていたらしい。

 

「お爺様……レオニダス王陛下は別れの際に

『〝霧払い〟ガリアン・ルヴェルタリアの道をたどれ』と、そう言っていたわ。

 祖王の道をあたしがなぞるのなら、この先には……」

「試練……恐らくは戦いがあると覚悟しとくべきだろうな」


 指を鳴らし、ギュスターヴが唸り声とともに言う。

 

「〝霧払い〟の伝説は知ってるだろ?

 ガリアン王はトラインナーグを始めとした初代〝四騎士〟とともに

 霧に沈んだ12の国々を回ったってくだりだ。

 彼らは霧に巣食う12のおぞましき魔物を討った、と後世に伝えられている」

 

 片手に握った〝聖剣〟の鎖を指先でそっと撫で、アーデルロールが眉をわずかにひそめた。彼女は決して旅を楽観視しているわけではなかっただろうが、己の祖先が挑んだ魔物との戦いに自分がいざ臨めば、何かしらの代償を払うことになると踏んでいる。

 

「……魔物は既にガリアン王が仕留めているはず。

 ならあたしたちの試練って何なのかしらね。……問答の類ならいいんだけれど」

 

 最後の言葉が軽口なのは明らかだった。

 一行でもっとも知恵の深いギュスターヴはしかし首を横に振り、

 

「悪いがオレにも分からん。

 こういう事態が起こった時に備えて、初代〝王狼〟……、

 曾祖母のルーヴランスが書き置きでも遺しといてくれりゃあ良かったんだが、

 彼女はそういうのはめっきりダメだったみたいでな。何にもねえんだ。

……とっくにくたばっちまった親父なら、

 あるいは口伝で知っていたかも知れねえが……もう仏さんだしな。

 真実はこの目で確かめるしかねえよ。

 どのみち、どんなもんが待ち受けていようとオレらは進むしかないんだ」

 

 この気高き狼の力は一行の内でも飛び抜けている。

 むしろ人間の枠組みを超えている、と表現しても差し支えない。

〝ウル〟がどれほどの力を出していたかは計れないが、ギュスターヴは確かに彼とやり合ったと母から聞いていた。

 彼は真性の大英雄。霧を払い、人界の守護を国是としたルヴェルタリアの英傑である。


 彼はレオニダス王からの厳命を授かった身だった。

 世界の未来を繋ぐ、アーデルロールと〝聖剣〟の二つのバトン。

 これを護るためにならば彼は己が全てを賭ける覚悟だろう。

 

 短いが静まり返った場を終わらせるようにコルネリウスが平手を打つ。

 彼は槍を握りしめると肩に掛け、楽観的な調子で言った。

 

「おっさんの言うとおりだぜ、アルル。

 出たとこ勝負だ。いっちょやってやろうぜ、おい」

「まったく……あんたってほんっと……」


 顔を伏せたアーデルロールの口の端がかすかに上がった。

 ふっと漏れた吐息は笑みのそれだ。

 

「そうね。やるしかないわよね。

 よし……っ!」

 

 碑文の前に立ったアーデルロールは〝聖剣〟を胸に抱き、その鎖を静かに緩めた。

 鉄塊の隙間から剣身がうかがえる。

 かつて13の輝きを宿した宝玉に色は無く、灰色の珠が嵌められた古い王の剣。

〝霧払い〟の末裔が今その剣を手にし、緋色の瞳を見開いた。

 

「――我が名はアーデルロール・ロイアラート・ルヴェルタリア。

 古き王にして救世の勇士、ガリアン・ルヴェルタリアの血統の果て!

 かつて霧を払いし〝聖剣〟に

 汝ら十三の精霊の長との契約の輝きを取り戻すべく、ここに参上した。

〝精王〟よ! 世の組成を司る偉大なる王よ!

 我が声が聞こえるならば、ここに道を示したまえ!」

 

 誇りを込めた名乗りが祠に残響した。無機質な白い壁にアーデルロールの声音がいくつも残響し、ややあって中央の台座にぽう、と水色の輝きが灯る。

 

 足元の水路を流れる水量が増した。

 床面に刻まれた溝を走るばかりだった清らかな水はあっという間に水かさを増し、いまやわたしたちのくるぶしに届くほどだ。

 

 突然の変化に慌てたビヨンが足をばたつかせ、水が大きく跳び跳ねる。

 

「ちょ、ちょ、ちょっとこれ大丈夫なのかな!?

 水がぐんぐん増えてくるよおーーっ!」

「怖いんなら祠から飛び出りゃいいだけだろ。

 何なら俺がおぶってやろうか? ん?」

「べーっ、お断り!」

「つれねえな」

「コール、ビヨン、どうやらふざけてる場合じゃなさそうだぜ。

 構えとけ。何か……巨大な気配が近付いてやがる」

 

 ギュスターヴが手元をくるりと回すと大槍が弧円を描いた。両手に黄金の柄を握りこみ、アーデルロールをかばうようにして〝王狼〟が祠の内部に目線を配る。

 

『――……よくぞ参った』


 緊張の漂う場に何者かの声がりん、と響いた。

 威厳をもち、深慮を感じる穏やかな声――……女性だ。

 

『ここより先は古い王の地。

 現を離れ、在りし日の夢に触れる幽世の場。

 緋眼を継ぎし者。〝聖剣〟を携えし勇の女。

 汝の運命はこの先にある。

 臆さず進むが良い。――時は満ちれり』

 

 わたしたちの背後、祠の壁面に光点が現われた。淡い水色の輝きは上下に伸び、光の筋となって壁を分かつ。

 すると光は左右へ伸長し、まるで光の幕――あるいは扉のように展開をしていく。

 

 得も言えぬ超然とした気配があった。

 この光へと踏み込めばもう後へは引けない。

 無数の人々はこの先を知ることなく死に、無数の人々が生涯において触れることのかなわない世界の真実が目と鼻の先にある。

 

 アーデルロールが振り返り、わたしたち一行の顏をそれぞれに見た。

 彼女の顏には気高い決意がうかがえる。血統の果ての腹はとっくに決まっている。

 

「準備はいいわね? みんな……行くわよ」


 彼女の姿が光の中へと消えていく。

 ギュスターヴも、コルネリウスも、視線をやや残すようにしてビヨンも消えていく。

 

「……この予感は何だろうか。

 何かが僕を呼んでいるような気がする。

 きっと……きっと気のせいじゃないはずだ」

 

 切っ掛けは〝ウル〟がわたしを指して口にした王の名か、あるいは心に巣食う不審な影の言葉か。

 欠落した自己を知る旅が始まった実感を確かに感じた。

 

 水面に波紋を立てて一歩を踏み、光を踏む。

 そして――。

 

………………

…………

……


 光は薄い膜のようだった。

 踏み込み、通過する瞬間にほんのわずかな……薄紙を指先で突き破るような抵抗を感じたことを覚えている。

 

 意識のある現実から、誰かの夢に踏み込んでいく、どこか浮ついた感触があった。

 どこかでこれに似た経験をしていたことをわたしは思いだす。

 確か……<夕見の塔>に踏み入った時にもこれと似た現象が起こっていたはずだ。

 

 光は無限に連なり、やがて回廊を作り出した。

 半透明の黒い人影が右から左へとゆったりと歩いていく。

 戻る者は一人も居ない。誰もが一方向へと淡々と歩を進める……。

 

 ふと、青々しい緑の匂いが香った。

 遠いどこかでくー、くー、と鳥が鳴き、清流の流れる涼しげな音が耳を打つ。

 

『――お前はいつもそうだな。

 ふらふらと歩いていて危なっかしい。

 川や木、それに鳥がそんなに珍しいのか?

 大見得切ったわりには、まるで初めて世界に立ったような顏じゃないか。

 まったく……本当に変わった奴だよ、お前は。

 一体どこから来たんだ?』

『セリス、あまり彼をからかうんじゃないわよ』

『からかってるわけじゃないみたいですよ、ルーヴランス師匠。

 彼女なりに気遣ってるんです。……不器用ですけど。

 なあ、知ってるかい? その花の名前はな――……』

 

 懐かしい声がした。

 二人の女と一人の男の声。

 彼らの姿はどこにも見えなかった。

 

 これもわたしの記憶から引き出された声の残響なのだろうか?

 正直に言えば原因も由来もどうでも良かった。

 

 声を耳にした途端、わたしの中の過去に焦がれる思いは炎のように燃え盛った。

 触れたい。触れたい。触れたい。

 取り戻したい。

 

 意識の中で手をぐんと伸ばすが、この体はまるで動かない。

 彼らの声は遠ざかっていく。

 

『裏切り者』


 何もかもが消える間際、山羊の間延びした鳴き声に混ざってそんな声が聞こえた。

 

………………

…………

……


「――おい。大丈夫か?

 立ったまま寝るほど器用なやつじゃなかったと思うんだが……。

 ビヨン、あれ出してくれ。あのひとりでに動くこんにゃく。

 顔に貼りつけりゃ絶対に目ぇ覚ますぜ」

「嫌だよ、可哀想だもん」

「そうか。……おい、俺は? おーい無視すんなよ」


 いつの間にかに光を抜けていた。

 わたしはどうやら直立したままに気をやっていたらしく、ぐらりと身を揺らすとコルネリウスがさっと手を伸ばし、背を支えてくれた。

 

「大丈夫かよ。少し休むか?」


 快活な短髪に金色の目。心配げな顔で嬉しいことを言ってくれる男だ。

 鉄靴の底で地面をにじり、足がふらついていないことを確認する。


「光をまたぐってのはあんまり経験無くってね、ちょっとふらついただけだよ」

「んなもんしょっちゅう経験してたら冒険録を一冊書けるぜ」

「違いない」


 わたしは軽く笑った。彼の軽口にはいつも救われる。

 軽薄にも見える見なりだが、その実、内面は誰よりも義理堅い男なのだ、彼は。

 

「周り見てみろよ。すごい景色だぜ」

「周り……? っ……! これは……」


 想像を絶する光景だった。

 目の前に広がる木々は青々しい緑の葉で自らを飾り、小鳥たちが歌うように思い思いの鳴き声をあげている。

 

 足元には背の低い水生植物が絨毯のように広く群生していた。

 葉先で垂れる水滴が陽光を受けて、宝石を連想させる白い輝きを放っている。

 

 時折聞こえるゲコゲコとした鳴き声は、故郷の梅雨の時期によく耳にしたカエルのそれとよく似ていた。

 懐かしく思い、足元に視線をやったが一匹も見つからない。

 参った。小さな頃にはすぐに見つけられたのだけれど。

 

「ふあー……現実じゃないみたいだね。

 まるで絵本か夢の中に入ったみたい」

 

 感嘆の声をビヨンが漏らした。スケッチブックを取り出しもせず、手を握り締めて目の前の世界をじっと見つめている。よっぽど感心をしたらしい。

 

 真横を見ればアーデルロールが傍に居た。〝聖剣〟の鎖を強く巻きなおし、腰にふたたび戻した彼女の顔はじっと上向いていた。

 緋色の瞳に空の色が映り、そよぐ風に白い外套をたなびかせるアーデルロールの姿は強く印象的だった。

 

「ユリウス。空を見てみなさい」


――このうえなく奇妙な空の色をわたしは見た。

 東の空は夜の暗黒に染まり、星々が瞬いている。空の中央は突き抜ける青に彩られ、西では紅蓮の太陽が空を焼きつくすように赤く輝いていた。

 

 翼を広げた鳥たちが群れとなって尋常ではない空を横切っていく。

 見知った世界とここは明確に違う。そう意識をすると不安と期待、少しの恐怖が背筋を伝った。

 

 わたしは指先を振ると胸の前で円を描き、続けてそれを握り締めた。

 何が待っていようとも……わたしたちは前に進むだけなのだ。

 

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