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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
七章『翡翠の道』
107/193

103. 義を見せざるは


 享楽に賑わう人々の姿が店のカーテンの奥で揺れている。

 片手にワイングラスを持ち、もう片手でブドウを持ち上げ、悦を語る人型のシルエットはまるで影絵の劇のようだった。

 我が身は嘆きや恐怖などとはおおよそ無縁である、と。そう盲信する笑いがたゆたう歓楽街の夜闇の路地を、わたしとアーデルロールは切り裂くようにしてひた走っていた。

 

 空の酒樽や不法投棄された木箱に目もくれずに走り続ける。特にアーデルロールときたら正真正銘、風のごとき素早さだ。

 障害物の上を滑り、あるいは手をついて体ごとしなやかに飛び越える、ある意味で野生じみた卓越した身のこなしでわたしを引き離していく。


 悲鳴が確かに聞こえた方角と彼女の足向きは間違いなく合致している。

 距離は正確に把握してはいなかったが、争い事が起こった場には特有の空気があるものだ。アーデルロールが気付くかは分からないが、少なくともわたしはその気配を見逃さない。


 現場へ到着するまでに幾ばくかの猶予があると踏み、わたしは若草色の髪を揺らす剣姫の背中へと注意を飛ばした。


「アルル、分かってはいると思うけれど勢いに任せて剣を抜いちゃダメだよ」


 わたしたちが腰に佩いた剣には黄色い札が貼り付けられている。

 刃傷沙汰を禁ずる札だ。

 これを無視して剣を一度でも抜き放てば、どういうわけかすぐさまに官憲に通報が届き、身柄を捕らえられ、この(ホワイトレイク)を発つことが極めて難しくなることは想像に難くない。

 アーデルロールの身元を明かし、フラメル首相に取り継げば事態の解決ははかれるだろうが、今後に長く続くだろう旅を前にして、序盤で蹴つまずくわけにはいかなかった。この筋はうまくない。


 わたしは可能ならば影のように世界を歩き、〝霧の大魔〟の知覚の淵をなぞるような際どい道を進むべきだと考えている。

 いや、霧の大魔のみならず、人間相手にしてもそう立ち回るべきだろう。世には善良な者も多くあるが、悪辣な者も無数にあるからだ。


 どのような賢王、どれだけの聖人であろうと裏切りは避けられない。

 他人と交われば秘密は誰かの言葉となって漏れ出し、身の破滅へとつながる。

 これは想像ではない。歴史を顧みた故事である。


「分かってるわよ、剣の代わりにそこらの角材を拾ってボコればいいのよね!」

「その通り!……っていやいや。

 現場がどうなっているか分からないし、速攻で殴りかかるのもダメだからね」

「悲鳴をあげるぐらいなんだからよっぽどの危機なんでしょうが!

 それにあの声は女性だったわ。何されてるかなんて、考えたくもない」

 

 夜の深い時間、街の暗がりであがった女の甲高い悲鳴。

 嫌な想像が脳裏をよぎる。


 権力者が集い、自分が他者を踏み下すにふさわしい上位者なのだと信じて疑わない人間が蔓延る土地では珍しくない話だが……。その行為が身近にあると思うと腹の奥底で怒りがむらついた。


 ほんの少し反応に詰まったわたしをどう思ったのか。アーデルロールが檄を飛ばすようにしてその誇り高い声を張り上げた。


「ルヴェルタリア騎士叙勲の誓い、その二!

 義を見せざるは勇なきなり!

 それからその三っ! 弱気を助け――!?

「――……強きを挫く! やれやれ、分かったよ。行こう、アルル!」


………………

…………

……


 音の出所は近づけばすぐに分かった。場馴れした嗅覚は必要ない。

 捨てられた家屋、廃業した旅館。歓楽街の墓場、あるいは抜け殻とでも形容すべき廃屋が並ぶ通りにわたしたちは辿り着いた。

 

 廃棄区画と称するに十分な荒廃具合だがそれでもまだ住人はあるらしい。

 ひび割れた窓ガラスの奥では魔法灯のオレンジ色の明かりがちらりと覗き、幽霊の羽織るローブのようにぼろぼろになったカーテンの奥では人影が見えた。

 根気強いと言うべきか執着心が強いのか、別の場所に根を張る力がもはや無いのか。ふと想像をしたがすぐに止めた。


 片輪を失った荷車、足の折れた椅子が積み重なったゴミ捨て場へとアーデルロールは入っていく。わたしは耳をそばだてながらに彼女の背中を追った。

 聞こえるのは夜鳥の鳴き声と、遠くからの愉悦の音。

 地面にはいくつもの羊皮紙が散らばっている。目を凝らすと何かしらの図形と達者な文字が見えた。何かの資料だろうか?

 

 と、くぐもった声に下卑た笑い声が聞こえた。……近い。


 ゴミ捨て場の角を折れると大柄な男の背中が見えた。一目で不良の類だと分かる風体だ。それも複数人。彼らの下向いた視線を追うと床に尻餅をついた……女が居た。


 わたしは状況を察した。無論、良い方向ではないものだ。

 瞬間的にアーデルロールの行動を予測――これほどの確信ならば『予知』と言ってもいいだろうな――したわたしはとっさに手でアーデルロールを制したが、彼女の感情の爆発を左腕一本で抑えられるわけがなかった。


「ッッアンタらあっ!!」


 アーデルロールが稲妻のごとき速度で飛び出した。彼女の両足のくるぶしに風の筋が閃いたのが見える。彼女が好んで行使する、行動加速の風魔法だ。


 肘を突き出した彼女は砲弾さながらの勢いのままに、大男の背筋へ体当たりをぶちかまし、巨体を派手に突き飛ばした。

 ゴギャリ、と骨が軋む最低な音が聞こえる。男の口から空気が吐き出され、その体はガラクタの山へと叩きこまれていった。


 集っていた男たちが突然の襲撃にひどくざわついた。

 連中の強い敵意の視線を一身に受けるアーデルロールは両手を腰にあてがい、胸当てを装備した胸を張って自らの姿を見せつけた。

 おお、見よ! 彼女こそは不埒の輩に天誅をくだす正義の執行者である!


「なんだテメエは!? オレらを誰だと思ってやがる!」

「んなもん知らないわね、それに下衆に名乗る名なんて無いわ!」


 連中の意識はアーデルロールに燦然と注がれていて、後からゆらりと姿を現したわたしは気付かれてもいなかった。妙にお寒い空気だが、観察するには都合が良い。


「……5、いや7人……数が多いな……」


 全員が肩幅が広く、鍛え上げた肉体を見せつけるように肌にぴったりとしたシャツを身につけている。威圧やハッタリの筋肉だ。戦いに身を置く者の肉体とはまるで違う。

 と、ある者が片手に酒瓶を握っているのが目に入った。よくよく見れば全員から酒気を感じられる。


 タチの悪い観光客の類だろうか。

 すると自らの威光をもって妨害者を威圧するべく、一行のリーダー格らしい、顎が大きく突き出た男が、自信たっぷりの面持ちで名乗りをあげた。

 彼はやけに慣れた口振りで、どことも知れぬ街の誰とも知らぬ家名を誇らしげに言ってくれたが、わたしにはまるで興味がなかった。


 半ば自らに酔うようにして出自を誇る男の足元に一人の女がすがりついているのが見えたからだ。

 彼女はうわ言のように一言を繰り返している。


 かえして(・・・・)

 

 彼女は確かにそう言っている。

 認識をした途端、強い嫌悪感が喉元で炎のように揺らめいた。


「――なるほど、それで。

 あなたは自らを家の恥晒しであると、

 自らの行動をもって主張していらっしゃるのですね。

 良い考えです。とても分かりやすい。

 これなら初対面の僕にもあなたが……下品な表現で失礼。

 よっぽどのゲス野郎なのだと分かりますからね」

「んだとコラ……」

 

 男のこめかみに青筋が浮くのをわたしは確かに見た。

 

「テメエら一体何なんだ?

 正義ぶりたいだけのガキだろ? 怪我したくねえなら退け。

 警告はこの一度きりだ。いいな」

「はん、『退け』、ね。それはこっちの台詞よ、この犯罪者ども!

 何を盗ったんだか知らないけれど、彼女に返してやんなさいよ」

 

 悪漢の真正面に立ちはだかったアーデルロールは一歩も退かずにそう吼えた。

 ただでさえ吊り目がちで勝気な瞳に、さらに強いプレッシャーが上乗せされているのだからその威力たるや相当なものだ。

 が、彼女が生来に持っている清き正義感は、悪性の人間には理解出来ないものだった。彼女をあざ笑う声がひどく不愉快に聞こえる。

 

 リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべて、その肩を揺らし、

 

「そりゃ出来ねえな。こっちも依頼でやってんだからよ」

「依頼……?」


 アーデルロールが怪訝そうに目を細めた。

 

「盗みの仕事がギルドに貼られてるわけ?」

「……バカが。んなワケねえだろうが。

 こっちには話してる時間もねえんだよ。

――退かねえならこうするだけだ。警告はしたぜ、おい」

 

 リーダー格が折りたたみ式のナイフを取り出し、手首をスナップさせて刃を取り出した。少量の光を受けてキラリと輝くそれは間違いなく刃物だ。

 彼に続けとばかりに他の悪漢たちも得物を取り出し、三下に似合いのにやついた笑みを口元に貼りつけている。

 

 一方で空手のわたしとアーデルロールは互いの顏を見あわせた。


「ちょっと。この街で刃傷沙汰はご法度じゃないの?」

「そのはずだけど。どうする、一度下がって角材でも探す?」

「冗談。素人のナイフなんて相手になんないわよ。――そうよね、ユリウス」

「当然」

「テメエら……くっちゃべってんじゃねえッ!」


 威勢のままにひゅっ、とナイフによる死闘が鋭く繰り出された。

 狙いはアーデルロールの白い首筋。衝動に駆られての腹部狙いでも、腰が引けて切りつけるでもなく、急所を真っ直ぐに狙う突きの一撃。この男は他人を攻撃することにどうやら慣れている。

 刃に見えるかすかな水気はおそらく毒物の類。短剣を扱う人間に多い手口だ。


 敵意の先端が迫る中、アーデルロールは首を反らして薄皮一枚で躱し――本当にハラハラさせてくれる――、男の伸びきった腕に両腕を絡ませ、掴んだ。

 攻撃の勢いは未だ死んでおらず、余勢を利用して彼女は大柄な男を背負い投げ、地べたに叩きつけた。

 

 背中を打ち付け、肺からありったけの空気を吐き出した男の側頭部を、彼女は鉄板仕込みの長ブーツのつま先で思い切りに蹴りつけた。

 鈍く、重い、肝が冷えるイヤな音だった。

 

「ユリウス、やるわよ!」

「分かった。君に続くよ」


 アーデルロールの反撃が皮切りとなり、男たちが一斉に駆けだした。

 粗野な声とともに突撃をかける様は山賊のそれによく似ている。


 振りかぶられるナイフに対し、わたしは手の甲で相手の手首を強く打ち据えて軌道を逸らした。

 流れるようなモーションで相手のアゴをすぐさまに殴りつけて頭部を揺らがせ、瞬く間に一人の意識を落とす。

 

 彼の驚きの顏が脳裏に束の間焼きついた。朴訥な面構えをした男が、まさか自分を叩きのめすとは夢にも思わなかったという顏だ。


 気絶をした男の手からこぼれ落ちたナイフを拾おうかと思い――、

 

「……いや、やめよう」


 イルミナの口にしていた『お前が殺した男にも人生があった』の言葉がふと脳裏によみがえった。普段ならば手に掛けることに躊躇をしない悪漢どもへの追い打ちに躊躇を覚えてしまったのだ。

……イルミナめ。どうしてあんなことを口にしたんだ。

 

「そいつ頼むわ!」


 見るとアーデルロールに豪快に蹴り飛ばされた男がわたしの方へと転がってくるところだった。彼はわたしのすぐ足元でもんどりを打って転がり、怯えきった視線がこちらを真っ直ぐに見上げた。


「ひっ……!」


 誇りや自信といった彼の仮面は土に汚れ、薄らいでいた。

 視線がわたしの手元を見て、それから仲間の手からこぼれ落ちたナイフへ向いた。

……なるほど。


 わたしは中腰になるとナイフを手に取った。

 危害を与えるつもりはない。脅しだ。そしてこの脅しは十分以上の効果を発揮するだろう。

 

「彼女の――」


 悪漢に絡まれていた女に視線を向けた。彼女はさめざめと泣きながら、足元に散らばった紙束を集めている。


「所持品を出して下さい。抵抗するのであれば僕はあなたに一撃を加えます」


 言ってわたしはナイフを手元で数回くるくると回し、弄んだ。

 見よう見まねだったが様にはなっていたと思うがどうか。

 コルネリウス辺りは『オレにも教えろ!』と言い出しそうだ。

 

「ああ!? 調子に乗んな、数はオレらの方が――」

「皆さん畳まれてますよ」

「っ!?」

 

 上体を起こした男が目にしたのは、仲間の最後のひとりがアーデルロールの跳び膝蹴りを顔面に受ける場面だった。

 風の魔法で軽やかかつ縦横無尽に動き回る彼女を、常人が捉えられるはずもない。

 頭を手で掴まれ、並のハンマーよりもよっぽど重たい膝の一撃を加えられた男は声もあげずに地に伏した。

 

 わたしの足元に居る男が手で砂利を掴んだ。

 目つぶしでも狙うのかと思ったが、悔しさあるいは敗北感からの無意識の行動らしい。

 彼はすぐさまに立ち上がると仲間に目もくれずに吼えた。

 

「くそったれがあ……! 思い出したぜ、どこかで見たことある面だと思ったんだ!

 てめえアーデルロール・ルヴェルタリアだろ!?」

「他人の空似よ」

「ざっけんな! 王女とそこの黒髪野郎!

 てめえらの顏は覚えたからな! 月の無い夜には覚悟しろよ!」


 大きな身振り手振りで男はそう言い、廃墟街の通りへと踊り出ると一目散に走り去っていった。

 後に残されたのは痛みに呻く彼らの仲間たち。なんとも薄情な男だ。


「月の無い……何? どういう意味?」

「闇討ちしてやるから覚えとけ、の意味だったかな」

「ふーん。ならまたブッ飛ばすだけね。

 そこのあなた、立てる? これあなたのでしょ。返すわ」


 両手をせかせかと動かし、羊皮紙を集めていた女へとアーデルロールがその手を差し出した。グローブに血が少々ついているが北の王女にとっては些細なことらしい。

 

「は、はいっ。ありがとうございました」


 女はヴァーリン族の女だった。

 額から短い一本角を生やし、青い髪に青い瞳の小柄な女。

 身にまとったローブはあちこちに継ぎ接ぎの跡が見え、かぶった帽子はネズミに食われたでもしたように穴だらけだった。

 

「ありがとうございます、ありがとうございます。

 これは大事な資料なんです。無くしたらもう絶望しかありませんでした……」

「よっぽどなんですね」


 わたしは拾いながらに紙面に目を落とした。

『ライオネル魔導伯』『対霧結界の証明』『精王と特異点』。目を引く文字列だ。


「〝精王〟……。これは……?」

「すみません、助けてもらったのに……。申し遅れました。

 私はピンカルと申します。

 この辺りを拠点に活動している〝精王〟の研究家です」

 

 愛嬌のある垂れた目元。

 どこか幼いながらも知的な内面を思わせる青い目。

 ヴァーリンの女学者は笑みを浮かべてそう言った。

 

 

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