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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
七章『翡翠の道』
104/193

100. 白亜の名残


 最悪の朝だった。

 これまで多くの痛い目を見てきたつもりだったが、

 睡眠不足ほど体にこたえるものはおよそ存在しないのではないかと思う。

 

「半端に寝たのが良くなかったのかな……」


 食卓に並んだ朝食。

 温かな目玉焼きにナイフの刃を立て、流れ出る黄身を見ながらにぼやいた。

 

「おう! しけた面してんな!

 腹に燃料を詰め込まなきゃあ満足に動けねえぞ!」

「コールは元気だね」平坦な声でわたしが言う。

「快眠だったもんでな! 久々に酒を飲んだがやっぱ最高だぜ。たまらねえ……」

「左様で……」


 太陽のごとくに眩しい笑顔を浮かべたコルネリウスは、

 手に持つフォークの先で野菜、肉、野菜、肉の順で朝食を突き刺し、

 空腹を訴える胃に次々と食物を送り込んでいた。

 

 快眠にして食欲旺盛。今のわたしとは真逆である。

 

「ユーリくん、平気?」

「大丈夫だよ」


 肉汁の溢れだすソーセージを頬張り、ビヨンに視線を向ける。

 昨晩の乱れっぷりはとっくに引っ込み、

 彼女はいつもの純真にして本を愛する少女に戻っていた。

 よしよし。これでこそビヨン・オルトーだ。

 

「昨日の夜にうちを部屋に連れ込んだの、ユーリくんだよね?

 朝起きたらびっくりしちゃった。一人部屋にいるんだもん」

「む゛っ」


 食事を噴出しかけた。

 ちょっと待ってほしい。

 連れ込んだ、という表現は語弊があるし、

 どうやら争いの火種になりかねない一言だ。というより……なっている。

 

「へえ。部屋に連れ込んだってどういうこと?」


 テーブルの対面から(アーデルロール)がわたしを見ていた。

 口元に浮かんだ微笑みは冷や汗を感じさせるぐらいに恐ろしく、

 細めた目と笑顔に吊り上った眉を見ていると、どうしてか食器を持つ手が震えた。

 

「……待ってくれ。ワケがあるんだ。勘違いしないでほしい」

「は?」


 スマイルはそのままに。やや上品な面持ちに威圧感たっぷりの声との落差が怖い。

 あくまでスマートに深呼吸を二、三度繰り返し、

 

「帰ってきた部屋が……あんまりに酷いから別に部屋を取ったんだ。

 ビヨンの一人部屋だ。彼女は酔いつぶれていたからさ……。

 ベッドに寝かせて、照明を消して、それで僕は部屋を出た。それだけだよ」

「……ほんとなのそれ?」


 審問官がじろりと視線を横向ける。

 参考人ビヨン殿は夢に思いを馳せるようにまぶたを閉じ、うっとりとした面持ちで、


「昨日の夜かあ、すっごく楽しかったね。

 ユーリくんと二人で踊るなんて初めてだし、あんな風に喋ったのは……えへへ」

「ビヨンさん! あまり要らんことは言わない方がいいと思うんだけドオアッ!?」

「――ふぅん」


 ぎり、と机の下でアーデルロールに思い切り良く足を踏まれ、ぐりぐりとよじられる。

 これが室内履きなら大したことはなかったが、

 旅立つ直前ということで彼女は鉄板を仕込んだ革靴を履いていたわけで。

 本来は敵を蹴りつける武装で踏まれる痛みは随分なものだった。

 何の拷問だ。

 

「どうしたの?」


 きょとんとした顏でビヨンが小首をかしげ、

 訳知り顔のコルネリウスは「南無……」と短くつぶやき、食事を続けている。

 

「ど、どうもしないよ」


 精一杯の笑顔を仲間に返し、わたしは痛みと格闘しながらに朝食を摂った。

 教訓その……いくつだっけ?

 とにかく、これからは行動を起こす前にもう少し深く考えた方がいいらしい。

 

………………

…………

……


 宿を出たわたしたちは<リンシアの街>の門をくぐり、

 相変わらず白昼夢に浸っているらしい衛兵に出立の挨拶をかけた。

 返事は「ご丁寧にどーも」の短い一言。

 一度だけ視線を向けられたが、別段に興味も無かったらしく、

 衛兵の視線は青空に浮かぶ雲へと吸い込まれていった。

 

「消耗品の備蓄も十分よ」

「食料も良し。問題なさそうだね」

「上等だな」


 人型に戻ったギュスターヴが黒革のグローブを強く嵌め、

 前後左右へと伸びる街道を見渡している。

 

 昨晩の彼は『旧街道』を通る、と口にしていたが

 道に突き立った木杭の看板にはそれらしき場所は記されてはいない。

 

「旧街道は<フロリア王国>時代の古い道だ。

 今時分の地図には載っちゃいないが、安心しろ、下調べは済んでる。

 こっちだ。付いてきな」

 

 南方へ向けて一歩を踏み出す。

 看板の案内は長年の風雨にさらされて表示を失っていた。

 元より何も書かれていなかったのか、どうなのか。

 わたしは荷を担ぎ、壁のように

 大きな背中を向けるギュスターヴの後に続いて平原を南下した。

 

 

 

「ここから獣道に入る」


 そうギュスターヴが言ったのは森のほとりだった。

 チチ、チチ、と鳥がしきりに鳴く賑やかな森。

 豊かに生い茂る樹木のあいだに朽ちた像が見える。

 近付き、見てみると聖職者を象ったもののようだった。

 

 胸の前で両手を組んだローブを羽織る女の像。

 前王国――<フロリア王国>のものだろうか。

 

「いいね、正解だ。あちこちに見える像やら石柱は<フロリア>の物だ。

 この辺りで採取される鉱石は〝白磁石〟と呼ばれていてな、

 かの国はその加工に特に秀でていたって話だ。

 王城に都。街路に民家に工芸品。……武具の類はどうだったっけかな。

 まあいい。用途は様々でいて、白い都の名で愛されていた。……と記録にはある」


 歩みを阻害しそうなツタや葉を腰に差した短剣――ギュスターヴの体での話だ。わたしから見れば、普通の剣と何ら変わらない――で断ち切りながらに〝王狼〟が言う。

 

「<白霊泉(はくれいせん)>のほとりに広がるリゾート街<ホワイトレイク>が

 白色で統一されているのは、そういった歴史の背景があるからなんでしょうか?」


「らしいな。噂じゃあ、水底に沈むっつう国の滅びを

 どうにか逃げ延びた国民たちが王国を偲んで興した村が始まりらしいぜ」


「詳しいわね。どうしてあんたがそんなに知ってるわけ?」

「実際に何度か来たことがあるからな。

 その時はこんな獣道を通ったりはしてねえぞ?

 連邦首都から<白霊泉(はくれいせん)>へと続く街道を馬車で一直線。

 ありゃ快適だったな。……現状じゃあ望むべくもないが」

 

 思い出に耽るギュスターヴをアーデルロールがぎろりと睨む。

 いや、睨んでいるのかは実際分からないのだが、

 吊り目がちの彼女が見上げるとそう見えてしまう。

 

「何だその目。仕事で来てたんだからな? 勘違いするんじゃねえぞ」

「別になんだっていいわよ。……随分遺跡が多いわね。

 ここら辺は街だったのかしら?」

「舗装された街路、かな。まだ形を残してる家もいくつかあるね」


 ビヨンが興味深そうに廃墟に駆け寄り、ひょいと中を覗き見る。

 家具の類は何も残ってはいない。千年近く前の物だと話だから当然か。

 枠組みを失った窓からはツタは侵入していて、壁に到っては木の枝が突き破っていた。

 家人はとうにおらず、ただ風化するのを待つばかりの廃墟。

 

「時間が止まっているみたいだ」


 わたしが呟いた言葉にギュスターヴは「悪くないぜ」と一言を返し、


「オレはこういう雰囲気が結構好きだぜ。

 自然の音だけが響く静かな空間ってのは落ち着く。

 木の幹に背を預け、小説のひとつでも読む。人生に不可欠な豊かな時間だ」

「へっ。〝王狼〟の旦那はジジむさい趣味してんだな」


 目についた鮮やかな赤の花を摘み、その蜜を吸いながらにコルネリウスが言う。

 アーデルロールは「何よこの野生児」と絶句の顏。

 わたしやコルネリウスは子供の時から散々に蜜を吸っていたから、

 これといった抵抗感は無く、むしろ『ここにも咲いてるのか』と思う程度だが、

 経験の無い彼女のには信じられない光景だったのかも知れない。

……まあ、今なぜにこの場で、と思わなくもないが。


「んだとお? コール、てめえ、誰がジジイだって?」


 言いつつギュスターヴが長身のコルネリウスの肩を張る。

 大きな体をした二人がやいのやいのと言いあうものだから、

 その光景には得も言えぬ迫力があった。

 

「いってえ! 何だよ、俺にだけ当たり厳しくねえか!?」

「そんなことはねえよ。オレは平等だぜ」

「この肩の痛みが『嘘言うんじゃねえ』と叫んでいるぜ、おい……」

「ハッハッハ! いいじゃねえか!」

「良くねーよっ!」

「――アホ言ってんじゃないわよ。ギュスターヴ、道はこっちで合ってるわけ?

 言っとくけど、いちゃつきまくった挙句に迷子だなんて笑えないからね」

 

 じろりとアーデルロールが今度こそ睨みを利かせて〝王狼〟を見る。

 彼の手綱を握っているのはやはり王女さま、か。

 地図を見るでもなく、ギュスターヴは「問題ねえよ」と返事を返し、

 

「もうすぐ森を抜ける。……そら、見えてきたぞ」


 森の終わりには二本一対の白い柱がいくつか続いていた。

 在りし日には門の形をしていたのかも知れない、それらの間を通り抜け、

 わたしたちは山の中腹へと出た。

 

 視線を振ると、東南の方向に青く輝く海が見えた。

 書物で読んだ通りに地平線は弧を描いて丸く、わたしは静かに感動を覚えた。

 出来ることならばしばらく見つめ、記憶に焼き付けたいと思うほどに。

 

「いつの間にこんなに登ったんだ? ずっと平坦だったと思うんだが」

「さあな。それよか……お前ら、武器を抜いとけ。

 物騒な気配がする。数は十から二十。……こっちを見てるな」

 

 ギュスターヴの右手が黄金色にバチリ、と輝く。

 次の瞬間には彼の右手は〝王狼〟の象徴ともいえる黄金の大槍を握っていた。

 その柄から刃までが黄金色に輝いており、時折稲光のような光を見せる大振りの槍。

 

 続くようにわたしも鞘から剣を抜き放ち、左腕の盾を構えて周囲を睨む。

 

「……?」


 わたしには敵の気配を感じ取れなかった。

 横を見ればコルネリウスにビヨンもやや当惑の顏を見せている。

 わたしたちが鈍いのか、あるいはギュスターヴの知覚範囲があまりに広いのか。

 

「あたしには掴めないわね。ギュスターヴ、警戒をそのままお願い」

「おうよ。ユリウスとコールはケツにつけ。アーデルロールとビヨンの二人は中衛だ」

「はいっ!」


 歩調を緩め、じりじりとした歩みで山道を往く。

 先人が築いた道はとうの昔に失われていて、わたしたちが進むのは

 落石が転がり、草木のほとんど生えない枯れた斜面だ。

 

「こんな場所で仕掛けてくるってのは何者だと思う?」


 槍を両手に握り、気配を緊張させながらにコルネリウスがわたしへ言った。

 

「凶暴化した獣か、あるいは獣人か。

 オークの巨体でこの道はつらいだろうから……小柄なゴブリンかも知れない。

 あるいは……」

 

 言いかけ、わたしは言い淀んだ。


「あるいは?」

「……街で聞いたんだ。最近、霧が晴れた後も魔物が残る場合があるらしい。

 本来なら、霧が消えるに連れて彼らもどこかへ引けるはずなんだけど……」

「はっ、そりゃ厄介だな。俺らが塔から戻ってから向こう、何かおかしくねえか?」


 鋭いな、とわたしは目を細めた。

 コルネリウスの言うとおり、塔を脱出して以降――、

 正確には遥か北方のルヴェルタリアが霧に没して以降どうにも世界の様子が妙だった。

〝霧の大魔〟の復活と霧の性質変化には大きな繋がりがある。

 わたしはそう思わずにはいられなかった。


「しかし、敵か。

 お世辞でもあんまり良い足場じゃねえから、ここで仕掛けられんのは勘弁だな」

「――悪いがどうやらそうなりそうだ。構えろよ」

「おいおい……マジか?」

「おうよ。奴ら、様子見は終いにしたらしい。来るぜ!」


 視界の前方。急こう配の山の斜面に複数の影が飛び出した。

 滑り落ちるようにして急接近するその影の数はおよそ10余り。

 

「ちょ、ちょっちょっと、何あれ!?」

「……相棒、おい。ありゃ人と獣どっちだと思う?」


 現われたのは山羊の頭に人の胴体、下半身は馬のそれという奇妙な怪物だった。

 頭頂部より伸びた角は渦を巻き、先端はナイフのように鋭く見える。

 瞳は淀み、瞳孔は山羊のそれと同じに横に潰れていた。

 

 人間の肉体は屈強でいて、両手にそれぞれ鉈を握っている。

 刃に残る黒色は恐らく血液だろう。……おぞましい。

 しかし何よりおぞましいのは、馬の下半身だった。

 

 いや、正確には馬とは違う。

 その足の数は8本以上にも及び、

 それが原因で斜面を駆け下りる音は騒音に等しい。

 

 どここここ、と蹄が大地を打つ音が連続する。

 振動もまた凄まじく、ガラガラと石の類までもが山肌を転がり落ちていく。

 

「……というより獣人かどうかも怪しいよね。新種かな」

「あんたらバカぁ!? あんなのが早々居てたまるかっての!

 どっからどう見ても魔族でしょうが! 来るわよっ!」

「ンゲェェエエエアアアアルルルア!」


 1体があげた咆哮につられ、全員がけたたましい雄叫びをあげる。

 わたしたちは互いに身を寄せ、防御陣形を形成した。

 かかとが石を弾き、斜面を転がっていく音が聞こえる。

 

 背後はほぼほぼ断崖絶壁。

 足を踏み外せば(ふもと)の森まで真っ逆さまだ。

 その時の結果は……あまり想像したくない。

 

 黒い異形の群れが濁った声と共に駆け走る。

 掲げられた鉈は血を求め、その瞳は今まさに生気を得ていた。

 

「下がってろ。――オッッ……ラアアッ!」


 金色の大槍を振りかぶり、気合いと共にギュスターヴが真横へ振り薙いだ。

 ひゅん、と風切りの音をつれて振られた槍の穂先が先頭の異形を捉え、

 その攻撃態勢を大きく崩す。

 

〝王狼〟の槍の一振りはそれでも止まらず、山羊頭を重く打ち据えたままで

 槍を振り抜き、異形同士の体が絡みもつれ、連中の先制の機会を奪った。

 

「グゲルルルルォオアア……ッ、グゲル……ッ」

「ふっ!」


 アーデルロールが跳び、岩と岩を足場にして風のように前進していく。

 長剣を逆手に握り、体勢を崩した山羊のそばに立つと

 無抵抗のこめかみを目掛けて一息に剣先を突き刺した。

 

 びくり、と異形の体が震え、止まる。

 アーデルロールの刺突は正確でいて、攻撃に移る判断もまた速い。

 

 異形が息を引き取ったのを確認するまでもなく、彼女は長剣を引き抜くと

 すぐさまに上方へ跳ぶ。直後、彼女が立っていた場所を目掛けて鉈が振り下ろされた。

 

 空中で宙返りをしたアーデルロールが回避の成功にニヤリと笑う。

 見事なまでの攻撃の先読み。

 先見性を得たアーデルロールは矢のように石を次々に跳び、

 風の魔力をまとった刃で異形に挑みかかっていく。

 

「ぼうっと見てる趣味はねえよな! 行くぜ、相棒!」

「ちょっ、コール!」

「やれやれ……若いのが無茶するってのはもう世界の道理みてえなもんだな。

 行くぞ、ユリウス。お前はビヨンと離れずついてこい」

「了解です。行くよ、ビヨン」

「うん!」


 ハンドサインで魔法支援の必要をビヨンへ送り、

 放たれた魔法の衝撃で怯んだ隙に魔物へ駆け走り、剣の一撃を加えていく。

 

 信頼を預けた仲間との戦いは楽だな、と血を振り払いながらにわたしは思う。

 欲しい支援が必要なタイミングで届き、攻撃を狙う隙も数多く生まれる。

 

 単身での突出も悪いことばかりではないと今でも思うが、

 これから戦いが激化するしないに関わらず、互いの連携を深めておいて損は無い。

 

………………

…………

……


 コルネリウスの槍が山羊頭の喉に突き立てられ、戦いは終わった。

 異形は最後の1体になっても決して怯まず、むしろ猛々しさをより発露して

 挑みかかってきた。まるで戦いで死ぬことを尊ぶ戦士のような気概だが……。

 

「魔物にそんなことを考えても無駄かな。……お疲れ様、みんな」

「……今のは確かに霧の魔物だったな。獣人にあんな種族は居ない」


 ギュスターヴが右手を振ると金色の大槍はパッとその姿を消した。

 光の粒だけがわずかに残り、雪のように落ちていく。

 魔力によって形成しているのだろうか? 興味深い武器だ。

 

「ユリウスが街で聞いた『霧が晴れても消えない魔物』ってのは本当みたいね」

「だな。後どれだけ居るんだか知らねえが、

 この不安定な場所で何度も戦闘するのは避けたい。足を速めるぞ」


 時間を測ろうと太陽を見上げれば、既に真上から西へと傾きつつあった。

 おおよそ14時頃だろうか。

 まだ寒さの残るこの時期、17時には太陽は西の山の向こうへと消えていく。

 

 急がねば夜が来る。

 携帯用の魔法灯はあったが、夜間での戦闘は極力避けたい。

 

「コール? 立ち止まってどうしたの。怪我でもした?」


 珍しいことに彼は眉根をひそめ、下向けた槍の穂先をじっと見つめていた。

 歯噛みするような苦い顏を一瞬だけ見せた彼は、

 

「っ……。何でもねえさ。さあ行こうぜ」


 そうしてギュスターヴの真後ろにつくように彼は駆け、

 わたしたちは一段となって灰色の山の斜面を登り、やがて緩やかな傾斜を下った。

 

 

 

 山肌に開いたくぼみへ踏み込む。

 突きだした大岩が丁度よく天井の代わりになっており、

 10分ばかりの小休止をわたしたちは過ごした。

 車座に座り、もそもそとした携帯食料を口へ運ぶと、アーデルロールが苦い顏をして、

 

「えらいパサついてんのね。動き回った後だから喉に張り付くわ……」

「……おい。これ、消費期限切れてるぞ。

 安く買えたって喜んだ顏で言ってたが……。

 まさかアルルお前、もう店で売れない品を掴まされたんじゃねえのか」


 無味無臭の練り餌じみたスティックを無感情で食べながら、

 わたしは包装紙の裏面に目を向けた。……本当に期限を過ぎている。

 それも半年以上も。もはや超過だ。

 

「まあお腹が壊れなければいいんじゃないかな。

 もう胃袋には入っちゃってるし……。後は肉体と神を信じるだけだよ」

「おいおいマジかよ相棒。運任せってお前」

「要らないなら返しなさいよ。これでも貴重なお金で買った貴重な食料なんだからね」

「ぐう……。分かった、文句つけて悪かったって。ありがたくいただくよ」

「ならよろしい。……むぐむぐ……」

 

 段々とアーデルロールの躾けが行き届いているように思いつつ、

 携帯食料をそっくり食べ終えると全員が腰を上げ、山道を再び歩む。

 

 早足のペースで二時間ばかりをひたすら進んだ頃だった。

 鋭く切り立った断崖沿いに歩いていると、

 先頭のギュスターヴの背中から緊張がふっと抜け、「見えたぜ」と大声で告げた。

 

 わたしを含めた四人が前へと走り、押すなだの危ないだのと口々に言い、

 そんなどたばたの中で目にしたのは――大きな湖であった。

 

 大平原よりもずっと高い海抜の上に広がるのは綺麗に(なら)された平坦な台地。

 そこには<白霊泉(はくれいせん)>が……泉とは名ばかりの巨大湖がぽっかりと大きく口を開けていた。

 

 山の中腹という高所から見下ろす湖と森は言葉もない程に美しかった。

 風を受けてさざ波を立てる青い水面には

 暮れはじめている夕空が映りこんでいて、

 まさに地上の鏡とでも言うべき情景だった。

 

 心を打つ光景とはまさに今この瞬間のことに違いない。

 撮影用のカメラを持っていないことが心底から悔しかった。


 この一枚を写真におさめ、

 絵はがき用のコンテストにでも出せば入賞は間違いないはずだ。

 問題はそんな日常事にうつつを抜かしている余裕が無いことなのだが……。

 まあいい。想像するだけならば問題ない話だ。

 

「綺麗だね。うち、こんな景色をずっと見たかったんだ」

「晴れた日には大陸北西の竜王国の霊山までを見渡せる位置だな。

 今時、こんな裏道を使うような奴は……依頼を請けた冒険者ぐらいのもんか。

 この光景を見られる奴はそう多くないはずだぜ。ラッキーだな、お前ら」

 

 やったっ、とビヨンが顏をほころばせて笑う。

 一方でアーデルロールは両手を腰に添え、

 胸を張り、眼下の巨大湖をじっと見つめていた。

 

「あそこに居るのね。……水の〝精王〟が。

 お爺様から継いだ〝聖剣〟に取り戻すべき十三の輝き。

 その一つが……あそこに……」

 

 腰に下げた〝聖剣〟にそっと触れ、自分に言い聞かせるように彼女がつぶやく。

 かつての〝霧払い〟の帯剣は今やその全体を鎖で巻かれ、

 傍目には鉄塊のようにしか見えなかった。

 これは洒落でも何でもなく、レオニダス王による隠ぺい工作だ。

 

 アーデルロール本人がその正体を怪しまれる分には

 あの手この手で言い訳も出来ようが、腰に吊ったルヴェルタリア王家の

 至宝を見られてしまってはどうしようもない。

 

 北の第二王女と伝説の〝聖剣〟。

 そして人目を避けるような旅。この組み合わせを怪しまない者は居ないだろう。

 

「湖畔に見えるあの白い街が<ホワイトレイク>だな。

 夢にまで見た高級リゾート地だぜ、おい! テンション上がってくるな!」

「嬉しそうで何よりだけどな、コール。

 オレたちには金が無いのを忘れるんじゃねえぞ」

「っげ……。結局金か……。こんなことならバカ飲みするんじゃなかったな」


 よろめくコルネリウスの背中をギュスターヴがバシリと張った。

 喝入れのつもりか、あるいは合いの手か。

 今やアーデルロールの代名詞ともなりつつある「アホ言うんじゃねえよ」の台詞を彼はしたり顏で口にして、

 

「さあ、ここまで来たらもうちょいだ。

 今夜の内に街へ入るぞ。霧が出たんならもう構わずに猛ダッシュだ」


 了解、と景気の良い挨拶を返すわたしだったが、

 正直に言えば初めて訪れる街への期待にひどく上機嫌だった。

 旅の緊張などどこへやら。

 風光明媚に名高い<ホワイトレイク>へと足を踏み入れることに心が躍る。

 

……後々にしてみればこの時の自分に嫌悪を覚えてならなかった。

 毅然とした面持ちのアーデルロールの心中を想像することもなく、

 救世の旅の暗い面を見ようともしなかった自分が腹立たしい。


 それこそ、一度叱責してやりたいほどに。

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