099. 未だ燃え尽きず
分厚いガラス製の酒瓶を懐から取り出し、
ギュスターヴはニンマリとした笑顔をわたしに向けた。
「飲むか?」
夜半の誘い。
狼のように鋭い犬歯を覗かせ、巨漢がわたしの目の前で酒を揺らす。
今夜はとっくに酒の席を経験していたし、身に帯びた酒気も十分以上だ。
だがしかし……目上の、それも槍の英雄の誘いを断るわけにもいかない。
いざとなれば解毒の応用の酔い醒ましの魔法もある。大丈夫だろう。
「では少しだけ」
一瞬だけ考え、わたしはそう答えた。
元より答えは承諾のひとつしかなかったのか、ギュスターヴはもう片手の平に握っていたらしいショットグラスを二つテーブルの上に置き、
「こいつは西の酒でな。ローレリア大陸南部の砂漠の酒だ」
とくとく、と深い琥珀色の液体が注がれていく。
受け取り、匂いを嗅ぐと柑橘類に似た爽やかさがほのかに香った。
「名は『砂の便り』。上物だ」
「わざわざすみません。……いただきます」
喉を炎が舐めていったような熱さだった。
火が這った筋に沿って爽快な後味が通っていく。
これまで経験したあらゆる味と重ならない、なんとも不思議な味だ。
ちらと目線をあげ、ギュスターヴの様子をうかがうと、
彼は何ともたまらなそうにまぶたを閉じ、ややあって深いため息を吐いた。
美味い酒なのは確かだ。
素人のわたしにもそこらの物とは一線を画しているのが
分かるぐらいなのだから、相当な逸品かつ相当な値なのだろう。
それらを加味してもこの大男は実に美味そうに酒を飲む。
バーカウンターにこの偉丈夫が座っていれば、それだけで絵になるだろう。
「それで。何を話さなきゃいけねえんだ?
オレの予想では〝ウル〟の野郎絡みだとは思うが」
「っ! どうしてお分かりになったんですか?」
「ドンピシャ。
野郎がリムルくんだりまでわざわざ追ってくる理由はお前……正確には、」
二本の指を己の灰色の瞳へと向け、
「お前の両目……〝紋章〟。あるいは〝霧払い〟の〝聖剣〟。どちらかだろう。
そして戦いの場にレオニダス陛下は無く、お前が在った。
話せ。〝ウル〟に何を言われた?」
鋭い観察眼だった。
厳めしい面構えは戦士の勇猛さだけではなく、
思慮深く、知恵の面をも持ち合わせていることに今更に気付く。
手の平をわたしへ向け、『さあ話せ』と、招くように指先を揺らされた。
「……ガリアン・ルヴェルタリア、と。彼にそう名を呼ばれました。
奴の剣に追い詰められ、手に掛けられようとした間際のことです」
「そいつはまた……大層な名前だな。お前はどう返した?」
わたしは首を横に振り、
「はっきりと覚えていません。思い出そうとしても靄がかかったようで……。
〝紋章〟に魔力を通し、発動させ、体の主導権を失ってそれっきりです。
次に気付いた時には敗北の形で戦いは終わっていました」
破壊の爪痕に大きく抉られた丘を思い出す。
指先一本も動かせない窮地。
ゆらりと現れた白いローブの魔法使いを思い出す。
「……イルミナ……」
琥珀色の酒に視線を落とし、師にして恩人の名を呼ぶ。
あの場にイルミナが現われなければ、わたしは間違いなく終わっていた。
「記憶の混乱、あるいは欠落。〝紋章〟の副作用か反動か……?
制御できるように訓練をさせるべきだったかも知れねえ。
無闇に〝紋章〟を使うな、と釘刺したのはオレだったな。悪かった」
「いえ、いいんです。いずれ必ず使いこなしてみせます」
「へっ。言うじゃねえか。他には?」
問われ、わたしは言葉を探した。
酒のせいだろうか。やたらに口の滑りが良い。
「……この〝太陽の瞳の紋章〟を使う際、僕は必ずひとりの女性の名を呼びます。
はっきりと自覚したのは直前の〝ウル〟との場面です。
どうしてその名前かは……分かりません。
ですが、唇がその名前の音を覚えていて、不意の懐かしさから呼ぶような心地の良さで彼女の名前を口にするのです」
「その名前は?」
ギュスターヴの声に冗談の色は無かった。
あくまで真摯に彼はわたしを向いている。
「……セリス・ウル・トラインナーグ、と。
あまりにも有名過ぎる剣士の名。
ガリアン王の道連れだった当時の〝ウル〟。そして最初の〝四騎士〟」
「知っているとも。一刀で万雷を断った稀代の剣神だ」
「ええ。彼女の名前を呼び、この〝紋章〟が輝きを見せたら最後。
僕は僕の体の自由を失います。それが〝紋章〟の作用なのはどうやら確かなようです」
言い切り、わたしはグラスを一息に煽った。
喉を酒が通りすぎ、得も言えぬ不安と胸につかえていた困惑を押し流すように。
「どうして……僕が彼女の名をああも親しげに呼ぶのか分かりません。
トラインナーグの逸話は〝霧払い〟の英雄譚でしか知らないのです。
当然、彼女とは出会ったこともない。僕が伝説に思いを馳せて夢想するばかりです」
脳裏に〝ウル〟の銀鎧の姿が浮かび上がる。
炎を背負った奴が『ガリアン・ルヴェルタリア』とわたしを向いて言う。
「……わたしを〝霧払い〟の名で呼ぶ……。
あの最強は何かを知っていたのでしょうか……」
からり、と氷が転がる音が静かなラウンジに響いた。
酒に浮かぶ波紋に吸い込まれていた意識が引き戻される。
「ありゃ狂人の類だ。自分が今どこに立ち、何を成そうとしているかも不確かな男。
でなけりゃ、忠を捧げたルヴェルタリアに刃を向け、騎士団を虐殺するわけがねえ。
こっちのマトモな物差しで測っても意味ねえよ。まして発言を見定める意味も無い」
「そう……でしょうか」
「ああ。それでも考えるなら……そうだな。
野郎が何故お前をガリアン王と間違えたか、だな。
こりゃ間違いなくお前の〝紋章〟を見てのことだろうが」
ギュスターヴが再び自分の目に指先を向けてジェスチャーをする。
「〝霧払い〟ガリアン・ルヴェルタリアの緋色の目。
このルヴェリアでその伝説を知らない者は居ないだろう。
オレも、〝ウル〟の野郎も、そしてお前も。
彼の伝説が有名極まる一方で、その象徴たる緋色の目……、
〝紋章〟の正体についての記録はそれほど残っていない」
「それはルヴェルタリア古王国にもですか?」
「そうだ。『緋色の瞳が明け空の如くに輝く時、王は無数の力を己のものとした』、
ってな伝承ぐらいか。どんなものかと考えていたが……。
お前の〝紋章〟の話を聞くに、自己暗示の類だったのかも知れねえな」
「自己暗示……ですか」
胸の中に食い違いを感じた。
それは違う、とわたしの中で何かが異議の声をあげている。
耳を傾けたがしかし声はひっそりと静まり返る。
時折に感じるものと同じだ。近づけば遠ざかり、遠ざかると近づく深淵の声。
わたしが不安の影に意識をやる一方、ギュスターヴは考え込む顏をしながらに言う。
「他人の力を宿し、振るうという点では降霊術の類にも思えるが……。
だがそれにしても同じ人物ばかりってのが気になるな。
もしかすれば記憶の引き出しがあるのかも知れん。
〝紋章〟所有者――、ガリアン王が直接に視た相手に限り、
その能力諸々を魔力を通して再現可能……ってところか?」
大きな指先をテーブルに突きつけ、一語の度にコツコツと卓の表面を小突く。
彼の薄灰色の瞳はわたしを見ておらず、どこか虚空に視線を注いでいた。
「……降霊術の原則で言うならば、
自分よりも強大な対象を身に降ろすことは基本的には成立しない。
ましてやセリス・トラインナーグなんざ古今東西、
歴代の〝北天十星〟のメンツを並べても足元に届くかどうかっていう剣士の頂点だ。
こいつをユリウスが本当に喚んでいるってえなら、
〝太陽の瞳〟には伝承に残されていない得体の知れない何かが確かにありやがるな……。
まあ、〝紋章〟自体が正体不明そのものなんだがな……ハッハハ」
乾いた笑いだった。
彼はグラスの中の氷を幾度か転がし、
「脱線しちまったな。
とにかくだ。お前がガリアン・ルヴェルタリアでは無い、ってのはカタいだろうよ。
〝ウル〟の野郎がお前を〝霧払い〟の名で呼んだ原因は〝紋章〟の輝きを見ての事だ。
先にも言ったが奴は狂人だぜ。マトモに受け取るな。
第一、ガリアン王を実際に目にして現代まで生きているのは
旅の道連れにして初代の〝四騎士〟、〝獣王〟ドガ以外には存在しない」
そう考えれば〝ウル〟の言葉は何の根拠も無い虚言。
己の妄想に憑りつかれ、信じ、正しいのだと信じた妄言だということになる。
だが……そうだろうか。
奴の言葉は深く、確信の色が滲んでいたように思えてならない。
沈思したわたしの顏がよっぽど渋かったのだろう。
ギュスターヴはわたしのグラスに酒を注ぎ、
「それに、だ」
と、否定の根拠を重ねて論った。
「レオニダス王陛下から渡された〝聖剣〟を握れなかったことは覚えてるだろ?
聖気によって皮膚がただれ、あまつさえ燃えようとした時点で
お前はガリアン・ルヴェルタリアとはよっぽど遠い存在だろうよ。
そりゃ何故かって? ハハ。
おい、自分のかつての帯剣を握れない、なんてそんな話があると思うか?」
彼は最後にはそんな調子で笑い飛ばした。
確かにそんな馬鹿な話はないだろうが……。
三杯目を一息にあおり、飲み干す。
喉の焼け方がひどい。炎がうねっているように熱かった。
「……考えても仕方のない話かもしれませんね」
「そういうこったな。
お前が……本当に答えが欲しいのなら、真実を知っているかもしれねえ連中は居る」
「連中……? それは誰ですか?」
「十三人の〝精王〟だ。彼らとガリアン王との縁は相当に深い。
彼らが〝聖剣〟所有者以外の人間と言葉を交わすかどうかは分からないが、
実際に対面出来る機会なんざ滅多に無いんだ。聞くだけ聞いてみろ」
まるで親戚の人間に聞け、とでも言うような気軽な口調だった。
わたしは「そうしてみます」と、酔いのまわった口で答えた。
ろれつは……まだしっかりしていると思うが、ギュスターヴの愉快そうな笑みを見るとそうでもないらしい。
「引きとめて悪かったな、部屋に戻ったらすぐに休め。
明日は旧街道を通り、山道を越えて<白霊泉>を一気に目指す」
「部屋に……? ああ、そうだった。
あの酒臭い部屋に戻るんだった……」
「そうとも、アルルとコールが酒瓶握ってぶっ倒れてるあの部屋だ」
「ギュスターヴさんもお戻りになるんですよね?」
「オレは……」
大男の目線が泳いだ。
大きな顔には『戻りたくない』と書かれているように見える。
「外でいい。やたらに鼻がいいからな、あの部屋に戻ったらひん曲がるぜ」
「そうですか。……」
言葉を返そうにも思考がぼやけて結べなかった。
点と点が繋がらない。
酔い醒ましの魔法の欠点は、術者であるわたしが潰れると発動できないことにある。
立ち上がると足元がおぼつかなかった。
壁にもたれかかり、ずりずりと引きずるようにしてラウンジの入口まで歩く。
「それでは今夜はこの辺りで失礼……します」
「おう。また明日な」
「ええ。良い酒をありがとうございました」
「いいさ。面白い話の代金にしちゃあ安いもんだからな」
「面白い……?」
何かが引っ掛かる。だが考えがあまりにも漠然としすぎている。
焦点の合わないボヤけた遠景に目を向けるようだった。
疑念を引きずるようにしてわたしは廊下を歩き、
借りた部屋の前に立つと扉を一息に開いた。
途端に押し寄せる酒気とよどんだ匂い。
コルネリウスが大いびきをあげて床に転がり、
アーデルロールは酒瓶を大事そうに抱いて寝息を立てている。
酒瓶の口から中身が漏れ出したらしく、放射状に染みが広がっていた。
こいつを一言で言い表すならば『最悪』だ。
霧の戦いの報酬金は、部屋を汚した代金として飛んでいきそうな気がしてならない。
「こんなことならもう一部屋借りておけば良かったかもしれない……」
ぼやいた所で既に遅い。
女主人は今頃夢の中に沈んでいて、
わたしもまたアルコールからの強い眠気にさらされ、まぶたが鉄のように重い。
背中を壁に預けたままにずるずると倒れ、
まだ清潔らしいカーペットの上に仰向けに転がるとわたしはそのまま目を閉じた。
もう霧の戦いの熱も、
わたしでは無い名前も、何も思い出せない。
酒が思考を虫食いにしていく。
………………
…………
……




