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願わくば、霧よ  作者: 晴間雨一
一章『灰のルヴェリア』
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001 名を失った男

 あなたがかつて見た夢は失われず、常に傍らに寄り添い立つ。

 雨を浴び、風を受けようとも、やがて現われる虹を信じ迎えよ。


 歩き、語り、世の美しさを見よ。

 春を迎え、夏と踊り、秋を愛し、冬に微笑みを。

 

 色彩こそが人生を飾る。

 

 友よ。

 あなたの人生に、色のあらんことを。


          - 霧晴れし日の君へ - エルテリシア・リングレイ

………………

…………

……


 上下左右、視界の全てが白い。

 雪だろうか? そう思い、手を前へと突き出す。

 すると湿気た感触が肌を包んだ。

 指先で白い空気を弄び、気付く。


 これは……霧だ。

 一寸先も見通すことのできない濃霧の中に、わたしは立ち尽くしていた。


「ここは……どこだ? 一体どうして僕はここに居る?」

 

 悪夢から命からがらに逃げ切った目覚めのような酷い息切れだ。

 こめかみに指を添え、記憶を振り返る。

 

 真っ白だ。

 記憶には何も無い。

 直前の行動どころか、自分の名前、生年月日。

 親しい人物の名や顏にはじまり、自分の些細なことまでも。

 何もかもが思い出せない。

 

 心には漠然とした喪失感と失敗の絶望。

 なにか致命的な過ちを犯した罪悪感があった。

 

 大きな裏切り、

 果たすべき復讐、

 瞳の中に昇る太陽、

 銀の騎士と赤い外套。

 

 肩で息をしながら周囲を眺め見る。

 白い霧がわたしを取り囲んでいる。

 視界は極めて悪く、一寸先でさえも見通すことが出来ない。

 陰鬱な霧をぼんやりと見ていると空っぽの心に小さな波紋が起こり、それは小さな変化と気付きに変わった。

 

「霧……どうしてこれを懐かしいと感じるのだろう……」


 ふと、脳裏に炎が見えた。

 失った過去の手掛かりになるだろうと思い、炎を掴もうとした時、胸に激しい痛みを感じた。

 視界が揺れ、痛覚が白熱し、意識が瞬く。

 

 反射的に自分の胸を抑えた。

 痛みに奥歯を噛み締め、視線を落とすと自分の手を赤黒いものがべっとりと濡らしていることに気が付いた。

 

「何てことだ……」


 衣服を急ぎ脱ぎ、胸の辺りに視線をやる。

 すると左肩の付け根から右胸までに至る大きな裂傷があった。

 むごい傷跡だ。わたしを害そうとする明確な殺意を感じた。

 

 命を奪おうとする致命の一撃。

 それでもどうしてか、卑劣だとは少しも思わなかった。

 むしろ自身がしたことを省みれば当然の報い(・・・・・)だろうと感じるのは何故だ?

 

 重大な裏切りを犯した焦りと罪悪感が胸を満たす。

 呆然としたままに右手を見た。

 違和感。

 

 わたしの手はこうだったか(・・・・・・)? と。

 右手を回し、指先の形を変え、様々な角度から観察をする。

 感覚がチグハグだ。他人の手のようで気持ちが悪い。

 

「違う……これは僕じゃない。誰だ? 僕は……僕は、誰なんだ」

 

 意識をすればその通りに体は動く。

 指先で霧を撫で、両足が足元の地面を踏む。

 

 だがわたしは気付いている。

 これは自分(・・)ではないのだと。

 

 鼓膜の内側の辺りで何者かの声が聞こえた。

 ぼそぼそとした調子だが、声には確かな憎悪の色がある。

 記憶の残滓だろうか。影は言う。

 

『お前は自身が壮健であったころを確かに覚えている。お前は健康的な青年の持ち得る背丈でいて、過酷な戦いに耐えうる肉体と十分な体力を持っていたことを知っている』

 

 闇を引きずる暗い影は言う。

 

『お前は真にお前(・・)であった。忘れるな、お前の罪を。見失うな、お前の願いを』

 

 そう言うと暗い気配は消えた。

 影は去ったらしい。わたしはまた孤独になった。

 わたしは……見知らぬ者の肉体に意識を宿した幽霊なのだろうか。

 


 

 

 目の前の濃霧にぼんやりとした視線をやる。

 

「願い、か……」


 影の言葉を聞き、わたしはたったひとつだが大事な記憶を取り戻していた。

 それは強い願いだ。

 渇望と言ってもいい。

 

 わたしは自分の人生に対して〝色〟が無いと常々に思っていた。

 他人に乞われ、願われ、従い生きることは〝色〟の無い人生だ。

 この世に生を受け、産声をあげたのならば懸命に生きるべきなのだ。


 他人の言葉に意味は無く、自分の内面にこそ価値がある。

 自身の魂が求め、叫び、望むことを叶えることこそが鮮やかな生というもの。

 

 わたしもそうして自身の生を彩りたいと願い、

 運命に挑みもしたが、理想に届いたことは一度もなかった。

 

 けれどいくら心を折られようと、何度希望を砕かれようとも諦めきれなかった。

 この命がある限り、わたしは人生に色を射すことを望み、求め、歩いて行く。

 

 もう、無為な生はいらない。

 


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