彼女の手紙
深い深い森の中。
母の言いつけを破ってしまったその日から、僕は一目散に駆けて行く。
母は口癖の様に言った。
---『あの森に近づいちゃダメ』
とても怖い獣が住んでいるから、と教えられたのはいつの事だったろう。
「ーー、今日も来たんだねぇ」
「うん、暇だったからね」
「お母さんに叱られちゃうよ」
困った様に笑うけれど存外嬉しそうだ。
窓枠に手を掛けた。
狐の耳がぴょこぴょこ動く。狐の尻尾がふわふわ揺れる。
「今夜は星が綺麗だよ。こんなに晴れるなんて久しぶり」
「そうかな、昨日も晴れてなかった?」
「ここは雨が多いんだぁ。そっか、町は晴れていたんだね」
ことん、テーブルにカップを置くと木にぶつかる良い音がした。
彼女が焼いたと言うクッキーを頬張る。
甘いものが苦手だという僕の為に甘さ控え目で作っているらしい。
初めて食べたクッキーは甘くて甘くて食べられなかった。
眉を下げて謝る彼女の顔は、どんなだったろう。
「どうしたの?ぼーっとしちゃって、考え事?」
「いーや?大したことじゃないさ。出会った時のことを思い出していただけだよ」
「ふふっ、こんな所に来るもの好きなんてそうそういないんだよ?」
最近の出来事なのに遠い昔のことのように感じた。
それ程、彼女といる時間は"長く"感じて、不思議な感覚に戸惑っていたのを覚えている。
あの日だってそうだった。長くて、抜け出せない沼にはまった様な時間だった。
「前から気になってたんだけど、僕以外の人も此処に来てるの?」
「え?あぁ...そうだね、うん。来ていたよ」
「ふーん、来てたって事は今はいなのかぁ。それもそうだね。もし居るのなら、ほぼ毎日来ている僕に会わないなんてことは無いはずだよね」
長い沈黙の後、彼女は思い出したように返事をした。
「....そう、だね」
その日は様子がおかしかった。
確かにおかしいと思った。けれど何がそう思わせるのかもわからなかった。
森の木々も、赤い屋根も、草が覆い茂った壁も、綺麗な花も、焼きたてのクッキーも。
全部全部、いつも通りだった。
.....
『おいしいね』
彼女のおかげでおいしいと思う様になった。
『綺麗でしょ?』
彼女は僕に色んな知識を与えた。
『貴方と出会えて本当によかった』
彼女を僕は好きだった。
『話があるの』
彼女はいつも唐突で
『ごめんなさい』
彼女は何も悪くない。
『もう終わりにしようか』
彼女は泣きながらそう言った。
『ーーーーーーー』
彼女に僕は何も出来なかった、何も返せなかった。
.....
ずっと一緒に居られると思っていた。手元に残ったのは手紙だけ。
まだ手紙は読んでいない。読む勇気がない。
こんな僕を見れば彼女は笑うのだろう。
あの頃の思い出。今は誰も住んでいない町外れの森の中。
泣きながら言った彼女の言葉は一生、忘れる事はないだろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
彼女はなきながらそういった。
『ーー、大好きよ』