閑話 村人Aのターン その1
青年は特別な人間ではなかった。
平凡な家庭の長子として生まれ、平凡な教育を受け、平凡な少年時代を経て、今平凡な青年になっている。青年は、そんな己の平凡な人生を嫌悪していた。なぜ、己は特別な人間ではないのだろう。なぜ、己は選ばれた人間ではないのだろう。まぜ、選ばれた一握りの人間になれないのだろう。己に与えられた平凡な農作業を慣れた手つきで行いつつ、日々自問し、そして答えの出ない事柄を今日もまた青年は思考する。
青年は夢見ていた。いつか、こんな田舎を飛び出して全世界の人間の耳に己の名前が届くような偉業を成し遂げてやろう、と。
「王様が冒険者を募集しているんだってさ」
「聞いたことあるー。あれでしょ、マオウを倒してくれる冒険者募集、でしょ?」
「マオウが倒せたら、勇者の称号を与えてくれるんだって」
「はー、それはご苦労なこって。それで飯が食えんのか?」
「―――…さぁ」
あるとき、一つの噂が王都から遠く離れた田舎の青年の村にも広まった。王都に住む国王が冒険者を募っているという。志願資格は無し。目的は、ただ一つ。
人間の敵である魔王を倒すこと。
村人達は皆、噂をしながらもその内容を鼻で笑う。
今まで見たこともない魔王を倒す?俺たちは、魔王から何も被害を受けていないのに?そんなことで命懸けの旅に出て農作業を放り出すのか。褒美としての貰えるものは、穀物ではなく称号だって?そんなもの何の価値があるってんだよ。たかが称号なんかで腹は膨れない。
皆、口々にそう国王を嘲笑って、それぞれの仕事へと戻っていった。
ただし、一人を除いて。
ただ一人、青年はその噂に異常なほどの執着を見せた。
魔王を倒した勇者!それこそ己の望んでいた偉業に違いない!この田舎を出る為の最大の口実になるではないか!
「僕、王都に行く!」
高らかにこう宣言した青年を村人は嘲笑い、友人は哀れみの目を向け、家族は激怒した。
出たよ、あいつの夢物語が。平凡に生きることに何の不満があるんだ?おいおい、正気か?なにも死に急ぐことはないだろうに。何を馬鹿な事を言っているんだ!お前はウチの長男だろう、さっさと働いとくれ!
青年を応援しようなんて人は誰一人としていなかった。それでも青年は、この噂が一世一代のチャンスだと信じて疑わなかった。
もちろん、農家の家に生まれてこのかた十数年。農具以外を手にしたことも無く、家畜以外を手にかけたこともない。戦闘の心得どころか、旅の心得なんて持ち合わせているはずもない。なぜならば、青年は、田舎の平凡な農家の家庭に生まれ、農地を耕し、平凡な人生を歩むはずだったのだ。
この噂を耳にするまでは。
「みんな、なんとでも言うがいいさ。僕は王都に行くんだ。そして、魔王を倒して勇者の称号を手にして、世界中の人間が俺の事を讃えるようになるんだ」
うっとりとした表情で言う青年の様子は、平和な田舎の村の人々からは正しく正気を失ったようにしか見えなかった。
聞いた?あそこの家の坊主、とうとう頭がおかしくなったらしいよ。あぁ、夢物語を飽きずによく語ってるとは思っていたけれど、現実も見れなくなったら御仕舞だよなぁ。お前、本当に王都に行くつもりか?この村からどのくらい離れているか知っているのか?馬でも何日もかかるんだぞ?死ぬつもりかよ、辞めとけ辞めとけ。
「お前、いい加減にしておくれ。村中の笑いものになっているんだよ」
とうとう見かねた青年の母親が涙ながらに青年に泣きついた。小さな田舎村のことだ、家族まで奇異の目で見られるのは堪ったものではない、と。
「母さん、言いたいやつには言わせておけばいいんだよ。僕は勇者になってこの村に帰ってくる。そして、迎えに来るよ。こんなド田舎じゃなくて王都で暮らそう」
青年は母親の涙の訴えにも耳を貸そうとはしなかった。なぜならば、自分は勇者になれる、と根拠のない自信が、青年の心の中を支配していたから。
「―――…お前は、この村が不満か」
今まで、青年がどれほど絵空事と言われるような事を語っても眉一つ動かさず聞いているのかいないのか判らない態度を貫いていた父親がぼそりと呟いた。
「不満―――…僕のいる場所じゃないと思っていたよ。僕はこんな田舎で一生を終わらせたくない。平凡な人生なんてまっぴら御免だと思っている」
青年の父親は、愛想の良いとお世辞にも言える男ではなかった。良くいえば仕事一筋というのか。それは、自分の子ども達にも言えることで、青年は寡黙過ぎる父親に反抗らしい反抗はこれまでにしたことがなかったが、こんな一大チャンスを目の前に父親が怖いだなんだと言っている場合ではなかった。そもそも、今の青年の思考に恐怖という感情は存在していなかった。
「―――…そうか」
その言葉を最後に、青年の父親は、青年の顔を見ようともせずに席を立った。その短い一言にどこか寂しげな影があったが、果たしてまだ見ぬ栄光に脳内を占められている青年にその心情が理解出来たかどうか。
周りの、嘲笑いや奇異の目、心配や悲しみを全て突っぱねて。青年は、噂の王都に旅立つことと相成った。
根拠のない自信と、己は、やはり特別な選ばれた人間だったんだという納得を胸に。
旅支度、というにはあまりにもお粗末な服装と、幾日持つか定かではない携帯食と、使い古され錆びて刃がボロボロになった大剣を背に背負って。
「―――…これをやるから、もう二度とこの村には戻ってくるな」
相も変わらずぶっきらぼうな父親の言葉とともに渡されたものは一頭の上等な馬。
この村では農地と家畜が全てだ。財産だ。そのことは、この十数年でしっかりと身にしみている。そのうちの一番上等な馬の手綱を握らされ、さすがの青年も言葉が出なかった
「―――…お前が本当に魔王を倒すだなんてことをやらかしても、この村には二度と帰ってくるな、いいな」
しかし、勘当を突きつけられても青年の意志は変わらなかった。その言葉は言い放った父親の心情を少しでも理解しよう、ということにも考えが回らなかった。
「父さん、この馬―――…」
「―――…お前が良く面倒を見ていたからな。達者で暮らせよ」
それきり、青年の父親は口を開こうともせず、青年が十数年暮らした家へと姿を消した。
あとに残るは、目を真っ赤に腫らした母親と小さな弟妹達。母親の顔に残る涙の跡は、果たして息子を心配しての涙か、親不孝な息子に育ててしまった自分への哀れみと後悔か。
「兄ちゃ、いつ帰ってくるの?」
「にいちゃ、どこいくの?」
「兄さん―――…」
無邪気な弟妹の言葉に妙に晴れ晴れとした笑顔を向けて青年は颯爽と馬に跨った。
「魔王を倒して、僕は英雄になるんだ!」
果たして、妄執ともいえる野望に取り付かれた平凡な青年の行先は、夢物語か、英雄談か。
どちらにしろ、吟遊詩人の歌う歌物語の題材にするには面白い道中になりそうなことは間違いが無いだろう。
本当にひさかたぶりの更新となりました。