ホヤの鮮度
俺が夜明ヶ前のドアを開けてその姿を見せると、まずマスターはミキシング・グラスに手を伸ばす。俺の一杯目が殆どマティーニと決まっていて、ごくたまにジンストやスコッチのオン・ザ・ロックだったりするからだ。
しかし、今夜のマスターは俺の顔を見てもミキシング・グラスを出さず、俺がいつもの席に腰を降ろすのをじっと待っていた。こういう時のマスターは何やら企んでる事が多い。極端にトリッキーでなければ、それなりに面白い趣向が期待できる。
マスターは俺が腰掛けるなり、
「日本酒を呑むかい」
と訊いた。俺としてはあまり日本酒を呑む気分ではなかったが、断ると機嫌が悪くなるし、場合によっては一生に一度の素晴らしい酒を呑み逃してしまうようなことも考えられるので、こういう時は余程のことがない限り断らないようにしている。
俺が無言で肯くと、マスターは透明なお猪口を俺の前に置き、冷蔵庫の中から4合瓶を一本取り出した。
「今日は酒が主役じゃないんでね、ちょっと待っててくれ」
そう言うとマスターは奥の仕込み場へ退出した。つまり何か食べさせたい肴があるってことだ。
置かれた酒のラベルを見ると、どうやら純米吟醸で、淡麗辛口。今回は主役じゃないそうだから、銘柄は割愛させてもらうことにしよう。
しばらくすると奥からマスターがガラスの器を持って戻ってきた。器にはオレンジ色っぽいものが入っていて、遠目に見た感じでは缶詰の桃かと思ってしまったが、目の前に出されたらその正体が分かった。
「なんだ、ホヤか」
「あれ、旦那は食べたことあるのかい」
マスターはちょっと意外そうな表情で俺を見た。一発で当てられるとは思っていずに、色々とヒントとかを考えていたのかも知れない。
「うん、以前は仕事絡みで東北の方へ行くことも多かったからね。最初の頃は慣れなかったけど」
そう言って俺は純米吟醸を手酌で注ぎ、一口呑んでからホヤに箸を伸ばした。味付けは酢醤油である。独特の苦味と塩味、それに酢醤油の酸味が複雑に絡まって、他のものでは味わえない奥の深い味わいが口の中いっぱいに広がる。
しかし……。
「どうだい、旦那」
「コレ剥き身でしょ。もう一つちょっとね」
「どうして剥き身って分かったんだい」
「いや、マスターが引っ込んでから出て来るまでそんなに時間が掛からなかったから。失礼かもしれないけど、活きたホヤの身を剥くのに、マスターがそんなに早くは出来ないだろうなぁ、って思って。あとは鮮度かな。あの新鮮で強烈な潮の香りが足りないんだよね。初めて食べる人とかはむしろこのくらいおとなしい味わいの方が食べ易いのかも知れないけど」
俺はそこまで言うだけ言って、残りの酒を呷った。マスターはちょっと難しい顔をしてホヤの入った皿を睨みつけていた。一体どんな経緯でこのホヤを出してきたことやら。
「やっぱり鮮度だよな。殻を剥いたらそこから一気に落ちちゃうんだもんな。だからと言って殻付きで流通させても、皆が皆うまくホヤの殻を剥けるわけでもないし。難しいものだ」
マスターは腕組みをして天井を仰いだ。
「これ三陸産でしょ。二日ぐらい経ってるんじゃないかな」
「ああ、大体そんなところだ」
怒ったような困ったような表情のマスターは、更に首を捻って何やら思案しているようだ。
「実はある伝手からホヤの拡販を考えてくれって頼まれたんだよ。以前は養殖したものの9割近くを韓国に輸出してたそうなんだが、311で大打撃を受けた後、何とか立て直したところで発電所事故のせいで輸出を規制されてしまったんだとか。政府は韓国をWTOに提訴したそうだが、今年になって敗訴したとかで八方塞りらしいんだ」
「ああ、その話ね」
ちゃんと検査して国内では問題なく流通しているのに、おかしな話だ。それよりも9割輸出って、ほとんど全部みたいなものだよ。どれだけホヤ好きなんだ、韓国人。
「もともとは北海道や東北ローカルの食材だから、国内に販路を広げればまだまだ伸びしろがあると思うんだが、何しろ馴染みが薄い上に鮮度が落ち易いのが欠点だよ」
「うーん、ホヤねぇ。例えば生以外の調理法だったらこのホヤでも問題ないだろうし、これだって別に生でも食べられるしね。料理屋の生簀とかで、使う直前にさばければ新鮮な刺身を出せるんじゃないかな。そこまでの運搬についてはちょっと分からないけど、専門じゃないし。そう言えば輸出できない分のホヤを廃棄処分してるような話も聞いたことがあったね。価格を安定させるために止むを得ないらしいけど。もったいないから、お祭りとかで無料か格安で食べてもらえばいい宣伝になるんじゃないのかな、目黒のサンマ祭りみたいに」
とは言え、大量に消費するから、鮮度が落ちて不味かったりしたら逆効果になるリスクもあるな。
「そういうのは難しそうだな。でも旦那がちょっと考えただけでもこれだけ意見が出てくるんだから、きっと何かいい方法があると思うよ」
一応意見も言ったし、俺の役目はそれなりに果たせたかな。俺はまたホヤを一切れつまんで口に入れた。確かにこの味は好き嫌いがあるよな。それにしても国土を海に囲まれて、西洋人から“魚っ食い”とか言われる島国日本人だけど、意外とホヤの消費は少ないんだな。やっぱり独特の味のせいなのか。
ホヤをのみ下し、そこに二杯目の純米吟醸をグイッと呷った瞬間、何かが閃いたような気がした。
「マスター、ホヤと同列に扱われるような海産物っていうと、どんなのが浮かぶ?」
俺の問い掛けに、マスターは怪訝な表情で考え込む。
「そうだね。ナマコ、とか。あとはクラゲ。さすがにイソギンチャクやカメノテは同列じゃないな」
「ナマコやクラゲはホヤほど抵抗がないよね」
「それはやっぱり味が独特だからだろう。後は見た目かな」
マスターは“何を今更”といった感じの不抜けた返答をした。
「両方とも中華料理ではメジャーだよね。でもホヤはあまり聞いたことがない。何でも食べる中国人が、味や見た目だけでホヤを敬遠するとは思えないんだよね。もしかして、中国にはホヤが、ホヤ料理が無いんじゃないの?」
「そんなまさか」
まぁ確かにそんなまさかだよな。だってお隣の韓国ではむしろ日本の何倍も消費してるんだろうから。でももしかして……。
「日本で中華料理にして、中国が逆輸入するようになれば、ホヤが中国に輸出出来るんじゃないのかなぁ。ナマコやクラゲは乾物で使われることが多いみたいだけど、ホヤはどうなのかな」
よくよく考えてみたら、俺はあまりにもホヤのことを知らなさ過ぎたようだ。
その夜はマスターと意見を出し合って盛り上がったが、素人なだけにトンデモ発言が多く跳び出したようだった。でも三陸の漁師さん達にとっては死活問題で、俺やマスターが思い付きでなんだかんだ言うのはちょっと不謹慎だったかも知れない。酒のみは酒のみらしく、出されたものを黙って在り難く頂く、これが一番だな。




