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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
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酒のまぬ日々

 俺が“夜明ヶ前”に顔を出さなくなって随分と経つ。ここまで間が開くとかなり入りづらい。が、意を決して入り口の扉を開く。ギイッと音がすると同時に、グラスを磨くマスターが振り返り目が合った。まるで幽霊にでも出会ったかのような表情だ。

「やぁ、お久し」

「どうしたね旦那、また随分とご無沙汰だったじゃないか」

「いや、まぁ。ちょっとね」

 何となく照れ臭いというか、きまりが悪い思いでいつもの俺の席に腰を降ろした。

「実はまた母親が入院しちゃってさ(第87話 ノンアル談義 参照)。ずっと断酒してたんだ」

「で、やっと退院出来たって訳かい」

「いや、まだ入院中なんだけどね」

 ミキシング・グラスに氷を入れようとしていたマスターの手が止まる。

「おっと、じゃあまだアルコールはのめないのかい」

「いや、実は今日、俺の誕生日でね。まぁ一日くらいは解禁してもイイかなと」

 自分に甘いと言えば甘いけどね。そもそもお誕生日を祝う歳でもないんだけど。

「のんで大丈夫なのかい?」

「うん、表向きはいつ連絡が入ってもイイようにってことで断酒してるんだけど、そもそもそこまで深刻でもないし。病院食で味気無い思いしてるのに、こっちだけ酒を楽しむってのもどうかと思うし。まぁちょっとした“願掛け”みたいなもんかな。のんだところで特に何の影響も無いんだよ」

「ふーん、じゃあ何か気張った酒をのむかい?」

「いや、いつも通りのマティーニでお願いするよ。また次はいつのめるか分からないけど」

 マスターはいつも通りのマティーニをつくり始めた。ジンはビーフィーター、ベルモットはチンザノ、そしてアンゴスチュラ・ビターズ。カウンターにコースターが置かれ、そこにカクテル・グラス、中にはカクテル・ピックに刺さったピメント入りオリーヴ。そこへステアした酒がミキシング・グラスから注がれる。すべていつも通り。

 親指と人差し指、中指でグラスをつまみ、その重さを感じながらグラスに満たされている透明な酒を一口。いつも通りの味がする。いいな、いつも通りって。

「久々のマスターのマティーニだけど、また明日からしばらく味わえないと思うとなんか特別な感じがするよ。一期一会だね、ホントはいつもそういうつもりでのまないといけないんだけど」

「それにしても一年365日呑みっぱなしで休肝日の無かった旦那が、よくこんなにも長く禁酒出来たもんだよ。途中で挫折しそうになったりはしなかったのかい」

「それは無かったな。酒をやめようとは思わないけど、理由があってのまないと決めたらそのように出来るのが立派な酒飲みだ、と思うんだよ。それが出来ないのがただの“酔っ払い”、自分はそうじゃないんだ、っていう“酒飲み”としての矜持だね」

「ふーん、酒飲み哲学、ってところか」

「だからこれを機に酒をやめよう、なんてことは全然思ってないんだ。後どのくらい断酒が続くかはちょっと分からないんだけど」

 マティーニの二口目をのみ、ピックをつまみあげてオリーヴを噛んで、そこに残りの酒を流し込む。マスターが阿吽の呼吸で二杯目をつくり出す。

「じゃあまたしばらくウチへも来れないか」

 マスターはミキシング・グラスの中の酒と氷をバー・スプーンでステアしながら言う。

「うん、そうだね。でも山川さんがまた何か取材したいようなこと言ってたから、その時はお供すると思うよ。その時に俺ものむかどうかは、その時になってかな。隣で山川さんがのんでたら、さすがに我慢出来ないかも知れないしね」

 その時までに母親が退院してるといいんだけどな。

「そう言えばあの娘っ子、酒粕の特集みたいなことをやりたいって言ってたよな。寒くなったらって言ってたけど、その話しかね」

「うん。でもその前にヴィーガンと酒、みたいなお題で何かやりたいって言ってたけど。あまり合わないと思うんだけどね、その組み合わせ。確かに“ヴィーガン”っていうのは最近良く聞くようにはなったけど」

 俺がそう言うと、マスターはちょっと表情を曇らせた。

「ヴィーガンね。まぁ誰がどんな食生活をおくっていようと個人の自由ではあるけどね」

 ちょっと突っ掛かるような言い方だ。どうやらマスターはヴィーガンが好きじゃなさそうだな。

「肉は食べないとか魚はダメだとか自分で“縛り”を決めるのは構わないけど、それを他の人に強要するようなタイプの人が一部にいるんだよな。フランスではヴィーガンが肉屋を襲う事件が多発しているそうだけど、こういうのは一種のテロだろう。或いは暴力的な新興宗教みたいなもんだ」

 そういえばそんな事件もあったようだ。日本ではあまり大々的に報道してないみたいだけど。そもそも日本でヴィーガンやってる人とかってまだまだ少数派なんだろうからね。

「そうか、良く考えたらそれってシー・シェパードがやってることと同じだね」

「そう、他人の食事が自分と違うと難クセ付けて暴力で解決しようとする。あんな人達に我々は負けるわけにはいかない」

 うん。あれ、どこかで聞いたようなフレーズだな。

「確かに少数派の意見を聞くこと、配慮することは大切かも知れないけど、少数派のやり方に従う必要はないと思うんだよ。政治の世界で野党や左翼の人がよく“数の力にモノを言わせて”みたいなことで政権批判するんだが、それが民主主義だし。決められたやり方で粛々とすすめるべきだよな。感情で物事を捻じ曲げてはいけない」

 そう言えば決められたことを守れない国があったな。感情で物事を捻じ曲げたり。

「おそらく日本の成人の多くはアルコールが飲めるだろう。旦那みたいに強い酒をスイスイのまなくても、ちょっとした付き合い程度なら大抵の人が。酒が全く飲めない人は少数派ってことになるんだろうけど、その人達が酒飲みを憎んで酒屋や居酒屋、酒蔵を襲うとか、考えられるかね」

 なんか凄い話の展開になったな。

「いや、でも実際に臭かったり騒がしかったりの迷惑な酔っ払いや、飲酒運転事故のイメージなんかで酒飲みを憎んでいる人はいるかも知れないね。フランスのヴィーガンと同じような考え方だと、この店なんかもテロの対象になり得る訳か」

 バーで酒をのむのも命懸け、果たしてそんな悲観的な未来が来るだろうか。いつも通りの味のマティーニをいつも通りに味わう。そんな幸せな時間を守りたいものだ。

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