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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
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煙草吸いの来し方行く末 前編

 バー夜明ヶ前はお客の少ない静かな店だ。ダーツやビリヤードがあったり、また店によってはテレビがあったりするところもあるみたいだけど、ここはそういった余計な雑音がなくって、純粋に酒と対峙できる。お客が少ないのはマスターの人間性とか他にも色々原因があったりするんだろうけど、とりあえずこの店の常連たる俺にとっては居心地の良い理由の一つではある。

 そんな夜明ヶ前に、今夜は珍しく早い時間にお客が入ってきた。見た感じでは50代くらいで、中小企業の常務とか専務とか、そんなイメージの紳士だ。取り敢えず俺の見たことがない顔だ。きっとこの店は初めてなのだろう。彼は店の中ほどのストゥールに腰を降ろすと、レミーマルタンをオーダーした。この店でブランディーの注文は珍しいが、残念なことに彼の注文はブラ水、いわゆるブランディーの水割りだ。バブルの頃には随分と羽振りを利かせたのみかただけど、今でもそういう人は多いんだろうか。

 しばらくゆっくりとブラ水を味わっていた彼は、急にキョロキョロと落ち着かない感じで店内を見回し始めた。こういった場合、大抵マスターはなにかしらお客に声を掛けたりするのだけど、今回は明らかに気付いているにもかかわらず知らん振りだ。

 やがて初老の紳士はおずおずとマスターに話し掛けた。

「あの、灰皿はありますか?」

 マスターはグラスを拭きながらチラリと彼に一瞥いちべつをくれると、

生憎あいにくですが、ウチは全席禁煙なんで」

 と、一言。

「そうですか」

 彼は諦め切った表情でそう言ってうつむくと、グラスを手にして残りのブラ水を一気にのみ干した。

「ごちそうさまです」

 そう言いながらストゥールから腰を上げ、入り口に近いカウンターのところでお勘定を済ませると、そのまま静かに店を出て行った。

 俺は煙草を吸わない。だからこの店が禁煙なのも、俺にとっては居心地の良い理由の一つだ。でもなんだか今のワンシーンだけ切り取ってみると、どこか哀愁に満ち溢れているような気がしてくる。

 そんなことを思いながらマティーニを口にすると、ちょうどこちらを見ているマスターと目が合った。

「何だい旦那、なんか言いたそうな顔をしているじゃないか」

 そうか、そんな顔していたんだ、俺。

「あの人、多分もう来ないよね」

 思ったままを口に出してしまったが、ストレート過ぎてちょっと後悔した。

「ウチは全面禁煙だからな。しょうがないよ。酒のみながら煙草が吸いたいんなら、他の店に行ってもらうしかない」

「でも、酒をのむと煙草が吸いたくなるって人も多いみたいだし、喫煙OKにした方がお客も増えるんじゃないの」

「勘違いしてもらっては困るんだが、この店が禁煙なのは創業当時から。私の信念で禁煙にしてるんだ。条例だとか世界の趨勢だとかは関係ないし、お客の入り云々も言わずもがなだ。考えてもみてごらん、この店内で煙草を吸われたら、壁も天井も、テーブルもボトルやグラスにも煙草の臭いが着いてしまうんだぞ。そうなったらもう繊細な味なんか分からないし、商売どころじゃなくなってしまうよ」

 随分とシビアなんだな。危機意識が半端ないって。

「まぁ俺も煙草吸わないし、この店が禁煙なのは願ったり叶ったりなんだけどね。ただなんか、さっきの人見てたらちょっと可哀相な気がしちゃってさ。なんか良さそうなバーを発見して、ブランディーでテンション上がってきたところでいきなりガッカリさせられちゃった、みたいな」

「う~ん、そうかも知れないが、そもそも煙草吸ってるっていう時点で、どこまで酒の味が分かっているものやらってところだしな。残念だが、煙草を吸ってて鋭い味覚を持っているっていう人には出会ったことがない。ウチの店とは縁がなかった、と思ってもらう他はないだろう。もしこの店に尋常でなく入れ込むようなことであれば、いずれ煙草を辞めて再来店してくれるかも知れないけど、まぁそんなことはまずありえないよな」

 うん、それは無いな。

「俺、先日しばらくアルコールを控えててさ(第87話ノンアル談義参照)、のまない方がいいタイミングとか、そういう場面では普通にアルコール抜きでも生活出来るんだって思ったんだけど、煙草吸いの人って、やっぱり吸わずにいられないものなのかなぁ」

「それは人によるだろう。別に吸わなくても我慢できる人もいるだろうし、生活保護費が支給されたら速攻でワンカップ買っちゃうってヤツもいるんだろうからな」

 うっ、そういうのホントに勘弁して欲しいよな。

「でも、この店なんかは特別かも知れないけど、一昔前まではお酒を出すところで煙草を吸うとかって普通だったよね。煙が漂ってきたからっていちいち文句つけたりってこともなかったような。一体いつ頃からこんな流れになってきたんだろう」

「それについては、私はこう思うんだよ。例えばどこかの店、居酒屋でもファミレスでもいい。そこで煙草の煙で嫌な思いをする。その嫌な思いはその時だけなんだけど、ネット上で同じような思いをしている人達がたくさんいる。そこで記事を読んだり書き込んだりしているうちにその嫌な思いが蘇って来る。そんな人達が結託して、嫌煙・禁煙運動が拡がっていく。どうだい、筋が通ってるだろう」

 なるほど、情報化社会が化学変化を加速させている、ってことかな。


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