ハイボールの錬金術
今夜の夜明ヶ前のスピーカーから流れるのはなぜかハープの音。最初は琴の音かと思ったんだけど、デボラ・ヘンソン=コナントという女流ハーピストだそうだ。アルバムタイトルは“トーキング・ハンズ”、東急ハンズに似てる。ジャズでハープなんてマニアック過ぎてついていけないが、ジャケ写を見ると大変な美人さんだ。91年の作品だそうで、現在は60歳を過ぎていらっしゃるとか……。
さっきまで流れていたA面二曲目の“カリフォルニア・カリプソ”、ちょっと賑やか過ぎる感じだったが、次の曲はハープとギター、ベースのブルージーな曲で、男女が何か会話を交わしているようなおかしな曲だ。
「この男の方の声、ミノ・シネルなんだよ」
変な曲だと首を傾げつつマティーニを口にする俺に、不意にマスターの解説が入る。
「晩年のマイルス・バンドでパーカッションやってた人じゃない」
「おっ、よく知ってるな」
さすがにそのくらいは知ってますよ。それにしてもマイルスが亡くなったのが同じく91年、きっとその直前のレコーディングだったんだろうな。そう思って聴くと、ついパーカッションばかり気にしちゃうな。
馴染みの無いハープ演奏を聴くポイントがなんとなく決まったところで、入り口の扉が音をたてた。珍しくお客さんらしい。
「こんばんわぁ」
そう言って入って来たのはメガネくんとシロウト氏のコンビだ。二人が適当な席に腰を降ろすと、マスターがいつも通り無愛想にオシボリを置く。決して常連ではないが、もうこの遣り取りにもすっかり慣れてしまっているようだ。初めてだと機嫌が悪いのかと思っちゃうからね。
「えーと、僕はあのバレンタインっていうのをロックでください」
シロウト氏はバックバーにならんでいるバランタイン・ファイネストを指差して言う。最初から決まっていたのか行き当たりばったりかは分からないが、素早いオーダーだ。
ネガネ君の方はおずおずと、
「あのー、僕はハイボールにして欲しいんですけど、イイですか?」
と、控え目な感じのオーダー。彼はあまり強くないからオン・ザ・ロックはキツいんだよな。炭酸割りや水割りは難癖つけられると思ってるんだろうか。
「OK、ベースは任せてもらっていいかい」
「あ、はい」
何故かベースがおまかせだ。普通に考えれば相方と同じバランタインで良さそうなものだが。メガネ君もあまり深く考えずにこたえた感じだ。
マスターはロック・グラスにバランタイン2オンスをメジャーで切り、氷を入れてバー・スプーンでステアしてシロウト氏の前のカウンターに置く。続いてメガネ君の番だ。と、マスターはタンブラーではなくて身の細長いコリンズ・グラスを取り出した。次に冷凍庫の中から取り出したのはブラックニッカ・スペシャル。グラスを傾けて、そこに琥珀色の酒が注がれる。何か違和感を覚えるのだが、すぐに気が付いた。メジャー・カップを使ってないから変な感じがしたんだな。続いてウヰルキンソンの炭酸水を注ぎ入れ、最後に大き目の氷を三つ静かに入れる。シュワッと表面に泡が浮かぶ。
「ほい、これでいいかい」
「はい、どうも」
メガネ君はコースターの上に置かれたハイボールをしげしげと眺めている。なんかおかしな手順でつくってたし、俺もちょっと気になる。
「せっかくだから早目に召し上がれ」
召し上がれ、ときたもんだ。気味悪いな。マスターに促されてメガネ君もとりあえず一口。
「あっ、美味しい。家で飲むのとなんか違うかも」
そう言うメガネ君の目は輝いていたが、このハイボールについて語りたくてしょうがなさそうなマスターの目も輝いているようだ。
「私なりに色々とハイボールについて考えてみたんだよ、どうしたら美味くつくれるかって。ポイントは二つ、薄まらないことと炭酸が抜けないこと。それを追求したらこんな感じになったんだ」
前置きはいいから早く種明かしして欲しいな。次は俺がそれをオーダーしたいんだから。
「普通はタンブラーに氷入れてウイスキーと炭酸水をビルドしてマドラーでステアしてやるだろう。水割りならそれでも良いんだよな、氷が融ける分を計算に入れて水を入れればいいんだから。でもハイボールの場合、ウイスキーが薄くなるだけじゃなくて炭酸も薄くなってしまう。だから氷が融けるのを極力抑えることにしたんだ。そのためにはウイスキーをとにかく冷やす。炭酸水も当然。で、氷を入れてウイスキーと炭酸を入れると、そこでステアする必要が生まれてしまう。そのままじゃ混ざらないからね。ただ、ステアすると混ざるかわりに炭酸も抜ける。これを省略するために氷を後入れにしたってわけだ。こうすれば攪拌しなくても混ざるし、氷を静かに入れれば炭酸もとばない」
「へぇ~、だからあの順番なんだ。僕は普通に氷が先で、最後はやっぱりかき混ぜてましたよ」
まぁ、おそらくそれが一番スタンダードなんだろうけどね。
「炭酸があってのハイボールだからな。炭酸の無いハイボールはただの水割りだ」
あ、今ちょっと紅の豚っぽかった。
「工夫はそれだけじゃない。コリンズ・グラスを使ったのは外気に当たる面積を小さくして炭酸がとびにくくするためだ。フルート型シャンパン・グラスでもいいんだろうけど、こっちの方がなんかしっくり来る気がしてな」
なるほど、それでコリンズ・グラスなんだ。
「更に言えば、メジャーを使わなかったのは時短と、メジャー・カップに冷たさを奪われないため。氷は大きめで表面がツルツルのものを選んでる。小さいものとか凹凸が多くあるものはそれだけ表面積が増えて融けやすくなるからな」
「そんなに色々とこだわっているんですねぇ、このハイボール」
ロック・グラス片手のシロウト氏も感心しきりだ。まぁそこまでこだわると俺だって恐れ入るよ。
「もう一つ。これは私の偏見かも知れないが、国産ウイスキーってのは水割りやハイボールにすることを前提に造ってるんじゃないか、って気がするんだよ。実際にのんでみて、ストレートより割った方がしっくりくる。だからウイスキーのチョイスは国産で。廉価のものだとアルコールが37度なんてのがあるけど、ハイボールになったときに一定の度数をキープしてより多く炭酸が入るようにするにはウイスキーのアルコール度数は高い方が良いに決まっている。このブラック・スペシャルは42度あるから廉価ものよりは5度高い。5度といえばビールと同じくらいだ、この差は結構大きいだろ。“ディープ・ブレンド”っていうのが45度あるらしいから、次はそれで試してみようと思ってな」
ここまでこだわるとちょっと病気みたいでコワい……。
「でもウチでは無理かな。おかわりの度に氷を捨てないといけないし……」
メガネ君の言うのはもっともだ。いちいち立ち上がって冷凍庫をゴソゴソやらなきゃいけないし、そもそも飲み始めちゃうと立ち上がるのが億劫になるのが酔っ払いだ。
「家では氷も酒も継ぎ足し継ぎ足しになってしまうのはやむを得ないだろうな。でもバーでは一杯ごとの提供だし、自宅でつくるのと同じものでお金を頂くってのはあまりにも安易な商売だ。ハイボールは水割りと同じ手順で、っていう既存の概念に固執して、そこから一歩も進まないってのは怠慢の誹りを免れないだろう、プロとしては」
大した御高説ですな。とはいえ言ってることは正論かも知れない。酒の世界は一期一会、安直に酔っ払っててはいけないっていう戒めとしようか。




