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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
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日本の気候に合うワイン

 夜明ヶ前の店内にはルー・ドナルドソンの“アリゲーター・ブーガルー”が流れている。ブルーノートのド定番だけど、ちょっと俺用のBGMとしては賑やか過ぎるようだ。ネルヴィン・ラスティのコルネットにルーのアルトの2管編成にジョージ・ベンソンのギター、ロニー・スミスのオルガン、レオ・モリスのドラムス。若き日のベンソンのプレイは聴き所の一つだが、俺としてはやっぱりリズム隊はピアノ・トリオであって欲しいものだ。

 などと思っているうちに演奏は最後の“アイ・ウォント・ア・リトル・ガール”、この曲だけはなんかしっとりしていていい感じだ。この曲なら俺もいい感じに酔える。そんな俺が口にしているのは、いつもと変わり栄えのしないドライ・マティーニだが、世の中には変わらなくて良いもの、変わらない方が良いもの、なんていうのもある。でも実際には世の中は目まぐるしく変わっているようだ。

 と、ここでマスターはレコードを交換。次に流れてきたのはモントルー・ジャズ・フェスのビル・エヴァンス。うん、やっぱりこういう方が好きだな。

「ねぇマスター、EUとのEPAって知ってる?」

 マスターのグラスをみがいていた手が止まる。

「ああ、青魚に含まれてて健康とか頭が良くなったりするやつだろ」

 いや、それはエイコサペンタエン酸だし。

「そうじゃなくて経済連携協定の方の話なんだけど」

「わかってるよ、冗談だ。ワインの話だろ」

「そうそう、ワイン関税即時撤廃みたいな話になってるけど。ここはワイン置いてないからあんまり興味はないかと思ったんだけど、さすがに知ってるんだね」

「何言ってるんだい、ワインは売ってないだけでちゃんと置いてるさ」

 売ってないけど置いてる、なんかとんちの一休さんみたいだな。あ、ひらめいた。

「そうか、カクテル用として置いてるんだ」

「もちろんそれもあるし、シェリーやポート、マディラ、それに旦那のマティーニに使ってるヴェルモットだって広義にはワインだしな」

 そう言われたらそうだな。

「関税撤廃で安くなるといってもフルボトル一本あたり100円弱くらいだそうじゃないか。398円のワインが298円になるのならかなり売れるかも知れないが、2500円が2400円になったところで、そんなに現状に変化があるとも思えないけどな」

「まぁそうかもね。チーズのほうは最大で3割くらいってことで大きいけど」

「でもワイン業界にとってはここが大きな分かれ道かも知れないな。輸入業者にとっては間違いなく追い風だろうが、日本の生産者がこれを逆風と捉えるか、それとも発想を転換して生き残るか」

「でもフランスやイタリアのワインが安くなるんだから大打撃だよね」

 本場のワインが安く買える。こりゃ日本の生産者は嬉しいわけがない。

「私はフランスやイタリア、それにドイツ、スペインあたりのワインがそれほど輸入量が増加するとは思ってないんだ。むしろチリや南アフリカ、それにオセアニアからの輸入の方が圧してくるんじゃないかって思ってな」

「なんで」

「低価格であることもさることながら、これらの新世界のワインはあまり知識を問われないだろう。欧州の肉食文化の国では毎日普通にワインを飲んでたりするけど、これは言ってみれば日本のお茶みたいなものだ。でも日本でワインはハレの日の飲み物だろ。これがもっと日常化する時、それはもうワインに関する薀蓄うんちくがいらなくなる時だろう。そうなるとラヴェルを読むのが難しい本場よりも、デザインがお洒落でシンプルな新世界ワインの方が好まれるとは思わないかい」

 ワイン飲まないから良くわからないけど、そうなのかな。

「でもいずれにしても輸入ワインが安く入ってくるなら、日本の生産者は大変だよね」

「まぁ今のままだと割を食いそうだよな。ブランド化して高級路線で輸出するっていう手もあるけど、なかなか難しいだろうな。日本産のウイスキーのように引っ張り凧とはいかないだろう」

「何かいい手はないのかな」

「そもそも日本にワインは合わないんだよ。日本食にも合わないし気候や習慣にも合わない」

「マスター、それを言っちゃったら終わりじゃない」

「いや、日本に合わせたワインを創ればいいんだよ」

 またとんちみたいなこと言いはじめたな。

「例えば、洋酒の中でもビールは断トツに日本に定着してるだろ。必ずしも日本食に合うとは言えないけど、枝豆や焼き鳥、唐揚げなんかにはビールだ。これは日本の習慣である“晩酌”にも合う。それに、暑くて湿度の高い日本の夏には、ビールのアルコール度数だとちょうど良くゴクゴク飲める。一方、ワインは酒の中でも特に日本食と合わない。晩酌向きじゃない。暑いときでもゴクゴク飲めない。このへんに改善の糸口があるんじゃないかと思ってな」

「確かに暑いときはとにかくビールってなるし、ワインをゴクゴクと飲むイメージはないな。アルコール度数が低くて炭酸ガス含有のワインがあったら、逆にビールの苦手な若い世代や女性を中心に人気になるかも知れないね」

 それでも安くなかったらゴクゴクは飲めないだろうけど。

「そういったワインは既に発売されてるんだけど、あまり宣伝されてないみたいで一般には浸透してないようだよ。湿度が高くて蒸し暑い日本の気候を考えたら、日本は低アル・発泡性のワインをメインにしてもいいんじゃないか。普通にスティル・ワインだけ造ってても、なかなか既存のワイン生産国とは渡り合えないだろう。世界的に見ればワインの主流はスティル・ワインだけど、それに日本が合わせる必要は全くない。」

 そうか、今までは飲み手がワインに合わせてたんだな。だからしっくりこないことも多かったりするんだろう。欧米と日本では気候風土も歴史も文化も違うんだから、外国の良いワインがそのまま日本人の口に合うとは限らないものな。

「日本食と相性の良いワインを研究開発しているところもあるそうだ。難しいだろうが、ある程度まではいけるんじゃないのかな。でも無理に魚介とかにあわせることはないと思うがな。それよりもむしろノンアルコール・ワインなんてのをもっと前面に押し出して展開した方がいいかも知れない」

 EPAやTPPなんていう国際間貿易の仕組みも大切だけど、それを乗り越えて新たな局面を切り開くっていうことも大切なんだな。果たして日本の生産者は低アルコールで発泡性で日本人に合う安いワインなんてのを創ってくれるだろうか。

 



たぶん、続きます。

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