聖パトリックスな一杯
夜明ヶ前の店内にはマイルスの“カインド・オブ・ブルー”が流れていた。トレーン、ジュリアン、エヴァンスが参加した、モード・ジャズの幕開けを告げる歴史的大傑作盤だ。帝王晩年のエレクトリックな演奏も悪くないけど、やっぱりマイルスはアコースティックな4ビートジャズがイイなぁ。
二杯目のマティーニをのみ始めると同時に“フレディー・フリーローダー”が終わり、三曲目の“ブルー・イン・グリーン”が静かに流れはじめた。ピアノはウイントン・ケリーからビル・エヴァンスに交代。ここでのエヴァンスのピアノは極めてリリックでマイルスのトランペットを引き立てまくる。まさに名演奏だ。このアルバム自体、定番中の定番だけど、やっぱり歴史的名盤・ド定番っていうのはいつ聴いても良いものだ。
「タイトルに“ブルー”って付く曲には名曲・名演奏が多い、って誰が言ったんだっけ?」
俺はバックバーにグラスを仕舞っているマスターの背中に声を掛けた。
「さぁ誰だったかな。大方油井さんか寺島さんあたりなんじゃないかい」
ジャズ評論家の油井正一さんと寺島靖国さんのことだ。確かにそのへんだったような気がする。
「この曲で思い出したんだけど、3月17日って何の日だか知ってる」
「何の日って、彼岸の入りじゃないか」
「そりゃまぁ、そうなんだけど。他には」
「マギー司郎の誕生日だよ」
「そういうピンポイントな情報はいらないから」
「さてねぇ、他に何があっただろう」
ここのマスターじゃあおそらく知らないだろうね。
「3月17日は“セント・パトリックス・デー”っていうアイルランドのお祭りの日なんだよ。アイルランドでキリスト教を布教した聖人の命日なんだって」
「それで?」
うっ、興味なさそうだなぁ。
「みんなで緑のものを身につけるお祭りなんだって。緑の格好をしていないとつねられちゃうの」
「くだらない、なんだそりゃあ。それでギネスビールでも飲んで踊るのかい」
「いや、それはどうか分からないけど。でもハロウィンみたいにこの先盛り上がってくると思うよ。マスターもいち早く緑色のお酒とか用意しとけば、って思って」
マスター、そういうはしゃぎ系のイベント嫌いだからなぁ。この話題は失敗だったかな。
「緑の酒ねぇ。緑色のリキュールも常備してるし、緑色のカクテルも無数にあるし。そんなものは用意するまでもないんだけど、そもそも何で緑なんだい」
「シャムロックっていうから、クローバーとかそういう三つ葉の葉っぱだろうけど、そういうものを使ってキリスト教布教をしたそうなんだよ、そのパトリックって人が」
「何で三つ葉で?」
「それで“三位一体”を教えてたんだって。俺はキリスト教徒じゃないから良く分からないけど」
「ああ成程ね、それは確かに分かり易いかもしれない」
「あれ、マスターってキリスト教なの」
「いいや、私は無神論者。宗教は一切信じない」
そうなんだ。酒の神様とかは信じてそうだけど。
「“三位一体”ってのは“父”と“子”、“聖霊”が一体だってことなんだ。それは神がキリストの姿や聖霊の姿をとったりするのではなく、三つ葉のクローバーのように三枚の葉で一つの葉を構成してるってことなんだよ。“物質の三態”のように勘違いしている人も多いから、この喩えは分かり易い」
マスター、キリスト教徒でもないのに博学だな。俺はあんまり宗教には興味ないんだけど。
「ところでマスター、緑の酒っていうとどんなのを揃えてるの?」
「そうだね、リキュールで言うと一番使用頻度が高いのが“ペパーミント・ジェット”、それから国産メロンリキュールの“ミドリ”、旦那に一番縁の深いのが“シャルトリューズ”のヴェール、後は緑茶リキュール、グリーンバナナなんてのもある」
確かにそれだけ揃ってればわざわざ用意することもなさそうだな。
「リキュール以外だと?」
「そうだな、後はビールかな。ベルギーの“ミスミント”、デンマークの“グリーンバッカス”ってところかな」
「リキュールが4、5種類としても、ベースや副材料の組み合わせでかなりのカクテルが出来そうだね」
「まあね。グリーンのリキュール以外にも、コーディアルのライムジュースだって緑の色として使えるんだから、ジンライムやギムレットみたいに簡単なカクテルも作れるしな」
そうか、ジンライムも緑色だな。
「マスターがお祭り騒ぎみたいなのが嫌いなのは置いといてさ、もしセント・パトリックス・デーにカクテルをおススメするとしたらどんなものがある?」
「うーん、そうだなぁ」
祭りイベント嫌いなマスターだけど、凝性だからこういうお題を出すと本気で考え出すんだよな。
「その名も“シャムロック”っていうカクテルがあるんだよ。これはベースがアイリッシュ・ウイスキーで、ドライ・ヴェルモットと1:1にペパーミントとシャルトリューズ・ヴェールを3ダッシュしてシェイク。ステアでつくるレシピもあるみたいだけど」
「せっかくだからそれつくってよ」
マスターはシェイクでカクテルをつくり出す。シェイカーのストレーナーキャップを外し、俺の前にあるカクテルグラスに注ぐ。
「あ……!」
「そうなんだよ、何しろウイスキーベースだからあまりキレイな緑色じゃないんだよな」
そりゃそうだ、茶色と緑じゃあ。ギムレットのような鮮やかなエメラルドグリーンを期待しちゃってたんだけど。
「カナダの透明なウイスキーとかをベースにすればいいんだろうけど、多分アイリッシュじゃないとこのカクテルの意味がなくなっちゃうんだろうな。アイルランドで透明なウイスキーを製造してくれればキレイな色のカクテルに仕上がるんだろうけど」
うーん、この色は残念だなぁ。
「レシピによってはオリーブを入れるらしいんだけど。私だったらミントチェリーにするかな」
「うん、それ賛成」
それでいくらか救われるかもしれない。でも……。
「やっぱり透明なベースにしようよ、ロンドン・ドライ・ジンで」
アイルランドのみなさん、ゴメンナサイ……。




