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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
29/99

刺身コンニャクで一杯

 その夜、バー夜明ヶ前の扉を開くと、中からは俺の大好きなピアノが聴こえてきた。聞けばすぐわかる。昨年末に引退を表明した大西順子の演奏だ。久々にピアノトリオで気分良くのめる夜になりそうだ。こんな演奏にはマティーニか、それともたまにはバーボンか。

 毎度のことマスターは無愛想。俺は勝手知った調子でいつもの奥のストゥールへ。大抵はマスターが注文も訊かずに俺のマティーニをつくり出すんだけど、その夜はちょっとマスターの動きが違った。俺におしぼりを渡しながら、

「日本酒呑むかい」

 俺はさすがに一瞬迷った。だって今夜はそんな気分じゃなかったから。でもマスターがこう言う時は、何か必ず魂胆があるのだ。美味い酒と美味い肴を用意しているに違いない。ここで断るときっと後で後悔することになる。

「じゃあ……貰おっかな」

 気分的には完全に洋酒だが、きっとびっくりするような美味い酒と肴が出てくるに違いない。俺は内心のワクワクを抑えながら店内に流れるピアノを聴いていた。

「彼女、引退だってね。残念だなぁ」

「おっ、聴いただけで誰の演奏だか判るかい」

「そりゃ判るさ、俺ファンだもの」

 エネルギッシュでちょっとゴツゴツしたような表現とか、好きなんだよなぁ。

「高嶋も、コッチを選んどけばあんな離婚裁判でゴタゴタやらずに済んだのに」

 思わず口に出しちゃったけど、そういう芸能ネタみたいな話はいらないな。

「今回はコレだ。美味い酒だぞ」

 そう言ってマスターは銀色の包装紙で包まれた酒を見せた。酒名は“かすみ”とある。

「秩父錦の無濾過生原酒だ」

 無濾過で生で原酒か。何だか良く分からないけど、美味いんだろうな。

 マスターは透明なお猪口を俺の前に置いて酒を注ぐ。グラスに霜がつく。よく冷えているようだ。

「コレでやっつけてみてくれ」

 そう言ってマスターが出した濃い緑色のまな板皿には、何やら薄く切ったゼリー状のものが乗っかっていた。

「マスター、何これ」

「刺身コンニャクだ。ほい小皿、こっちが醤油とワサビ。」

 ガッカリだよ。この前のクジラベーコンみたいに、何か凄い肴が出てくるものだとばかり思ったのに、よりによってコンニャクとは……。

「何だいその顔は。何か言いたそうじゃないか」

「そりゃ言いたいよ。日本酒呑むか、なんて期待させといて、出てきたのが刺身コンニャクだなんてさ」

「刺身コンニャクのどこが悪いんだね」

 どこが悪いって言われてもね。コンニャクなんておでんで食べるくらいで、さして美味いと思ったことはないし、少なくともワクワクするような食べ物ではないよな。俺は気を取り直してまずお猪口を口に運び酒を含んだ。前回呑んだ大吟醸の生酒と比べるとフルーティーな感じではないけど、キリッと程良い辛口で美味い。でも、つまみがなぁ。

「さぁ、コイツも食べてくれ。最初はワサビを使わずに」

 マスターに急かされながらコンニャクを一枚つまみ、小皿の醤油につけて食べてみる。

「あれ、何だ。ぷりぷりとしていつも食べてるのと違う」

 コンニャクなんて味もなくて、何でこんなつまらない食べ物があるんだろうと思っていたが、これは何とも独特のほのかな味わいがあって、歯応えもブツブツプリプリとしてて、今まで食べたどんなコンニャクとも別物のように感じられた。

「どうだい美味いだろう。私がこの酒と一緒に秩父でコンニャク芋を買ってきて、それをすりおろしてつくった手作りコンニャクだ。そこらのスーパーでおでん用に売ってるのなんかとはモノが違うだろう」

 確かに美味いや。今まで俺がコンニャクだと思って食べてたのは何だったんだろう。

「いや、コンニャクがこんなに美味いとは思わなかったよ。マスター自分で作ったんだ」

「こんにゃく粉を使って作っても美味いけど、やっぱり生芋が一番だな」

 ふーん、こんにゃく粉なんてのもあるんだな。そんなのがあれば俺でも簡単につくれるかも知れない。

「日本食の中でも、特に豆腐とコンニャクは誤解されてると思うんだよ。どちらも本来のつくり方で作れば最高に美味いはずなんだけど。外国人が苦手な日本食として、場合によっては梅干や納豆以上にコンニャクが敬遠されていたりするけど、こういうコンニャクを食べればまた違うんじゃないかと思うよ」

 確かに、豆腐もそんなに美味いと思って食べてないな。俺は今度はワサビをつけて食べてみた。これもまた美味い。自分がつくったご自慢のコンニャクに合わせて、ワサビも良いものを揃えてきたようだ。

「こんなの居酒屋とか割烹料理屋なんかでもっと出せばいいのにね。きっとコンニャクが好きな人が増えると思うよ」

「そりゃあそうかも知れないが、このクオリティーで商売しようと思っても難しいんだろうな。こうやって個人で趣味として楽しむのでなければ、中々ホンモノのコンニャクなんて味わえないのが実情だろう」

 勿体無い話だな。俺だって今日までこの味を知らなかったんだから大きなことは言えないけど、これだってきっと伝えていかなければいけない立派な食文化だろうからね、鯨を食べるのと一緒で。

「そう言えばTPPなんてのがあったよね。コンニャクは相当に関税率が高いんだとか聞いたけど」

「そうなんだよな。私も詳しいことは知らないけど、関税撤廃なんてことになったら日本のコンニャク農家は中国産に完全に圧し潰されちゃうだろうな。そうなったらこの美味いコンニャクが食べられなくなるってわけだ」

「じゃあマスターはTPP反対なんだね」

「いや、時代の流れから言ってTPP参加は避けられないんじゃないかと思うよ。アレは早い話がアメリカさんが日本相手の貿易で活力を取り戻そうとしてるんだろ。でもアメリカが元気になればいずれ日本も元気になるんじゃないかな。ただ、大の虫を生かすために小の虫を殺すようなことはして欲しくない。政治家先生にはしっかりと日本の農家を守る手立てを考えてもらいたいね」

 そんなものなのかな。工業も農業も良くなって、アメリカも日本もウインウインの関係でってのも難しそうだけど。でもこのコンニャクはずっと食べられるとイイな。

次回に続く

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